見出し画像

変わりゆく世の中で、変わらないもの。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一13章13節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

紅葉シーズンですが、なかなか紅葉狩りには行けません。でもニュース等を見ていると、結構人出は戻っているような様子ですね。私も時々繁華街で、「そっか、かつてはこんなに人がいたんだっけ」と改めて感じたりします。

パンデミックが人々を混乱に陥れて、早くも2年半あまりが過ぎました。初めの頃は、日本では学校が全国一斉に休校になるなど、大きな混乱があって、私も私の周囲もかなり大きな制限を受けました。 でも今年は観光地の人出同様、私の周囲もだいぶ「元通り」になってきました。

私たちの周囲ではまだマスク着用が推奨されていますが、外国ではすでにマスク無しで生活し始めている所も多いようですね。

今の中学3学年はみんな、「マスク生活」の中で学校生活をしてきた生徒さんたちです。「級友の素顔は、ランチタイムやプールの授業でちょっと見ただけ」くらいの人が多いと思います。
たぶん生徒の皆さんは信じないかもしれませんが、かつては「マスクを着けたまま人に会う、人と話す」というのは失礼とさえ言われましたよね。風邪をひいていたりしてどうしてもマスクを着けなければいけない場合、「マスクをしたままで失礼します」とわざわざ断りを入れるものでした。

マスクを着けずに人と話すのが当たり前だった世界。マスクを着けて人と会うのが当たり前の世界。
人と会って一緒に食事をすることが大切なことだとされた世界。食事は愚か、人と直接会うことや人の集まるイベントはできるだけ避けるべきだと言われる世界。

これらの180度といってもいい変化は、わずか数年の間に私たちの周囲で起こったものです。

このような「価値の転換」は、実は歴史上いろんなところで起こってきたのではないでしょうか。
「全ての人の命は等しく尊い」ということでさえ、「非常識」とされた時代もあったのです。
「どこそこの国の人間は殺せば殺すほど素晴らしい」と褒められる時代もあったのです。
ある種の病気や障害を持つ人に対しては人間扱いしないということが、法律で認められていた時代もあったのです。
……恐ろしいことですが。

今の私たちにとっては驚くような考え方が、「当たり前」とされる時代が実際にあって、それらは10年20年単位で大きく変わっていったりしたのでした。

私たちが生きる「人の世」というものは、決して変わらないものなのではなく、良くも悪くもどんどん移りゆくものなのですね。

今はマスクをするのが当たり前でも、ほんの数年のうちに、いやもしかしたら来年の今頃にはとっくに、「人前でマスクをしたまま話すなんて非常識な」と言われる社会に変わっているかもしれません。

世の中は変わる。考え方は変わる。当たり前は変わる。価値観は変わる。善悪の基準も変わる。

こんなことを言うと、「私たちの生きる世界はなんてあやふやなんだ」と不安に思う人もいるかもしれませんね。
でも昔から、人は同じことを考えていたのだと思います。
全てのものは移ろう。そう知った時、心もとなさ、心細さを覚えて、「変わることなく大事なもの」というのは無いのだろうかと、そういう確かなものを追い求めてきたのだと思います。

冒頭に引用した聖書箇所は、その不安に対するひとつの答えを示しています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。

神さまとの繋がりとも言うべき「信仰、希望、愛」。これらこそいつまでも残る、変わることなくあり続ける、最も大いなるものだと聖書は言っているのです。

「いやいや、神さまこそ、目に見えず、耳に聞こえず、触れて確かめることもできない、最もあやふやなものじゃないか」と思う人もいるかもしれません。
でも、その「目に見えず、耳に聞こえず、触れて確かめることもできない」ものだからこそ、実は世の中の流れに脅かされることがないのです。「形あるものはいつか壊れる」と言うけれど、裏を返せば「形の無いものは壊れることが無い」のですから。

「そっか~、じゃあ神さまを信じよう!」とはならないかもしれませんね。でも、いろいろな変化に出会って不安になったり、何も信じられないような気持ちになったりした時。「いつだったか、なんか『変わらないものについて聖書に書いてある』って聞いたな」と思い出してもらえたら、嬉しいです。
不安になった時、道を見失った時、何を信じれば良いのか分からなくなった時。そういう時に「そういえば聖書というものがあったな」と思い出せたら、きっとそれはその人にとって大きな力になると信じています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?