大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-07北御堂・南御堂

大阪ガスビル前の御堂筋を南へ向かうと、北御堂と南御堂が見えてきます。ともに大阪を代表する大寺院で、戦後、現代建築で復興されています。

■江戸時代の両御堂
●北御堂●
『摂津名所図会』(以下図会)によると、北御堂については、「津村御堂 西本願寺御坊」、「津村ハ圓[つぶら]の訛[おとなまり]なるへし」とあります。圓については、第5回目の御霊神社で紹介しました。当初の境内は狭かったようで、元禄年中(1688~1703)に裏町の「渡辺筋六十間安土町四十間を買取」って拡張しますが、享保9年(1724)3月の「妙知焼」に類焼。その後、本町の人家を「転して寺内とし今の如く」、大規模な伽藍が調えられました(図1)。

図1

美しい「御堂」や「対面所」などがあり、「対面所」は、朝鮮通信使が来朝した際には宿舎になっています。また、表門北側の「茶所」について、「詣人こゝに憩ふ」とあり、多くの参詣人が利用したことが窺えます。北御堂の紹介文の末尾は、「市中第一の仏閣也」と締めくくられています。

●南御堂●
『図会』によると、南御堂については、「難波御堂 東本願寺御坊」とあります。文禄年中(1592~1595)には道修町1丁目にあり、「渡辺御坊」と呼ばれますが、「慶長の末」に現在地に「御堂を移され」ました。高く築かれた石垣のほか、「御堂」「対面所」「茶所」などの施設名称は共通していますが、「対面所」は「御堂」の左、「茶所」は「四足門」の内に設けられるなど、配置が異なっています(図2)。

図2

また、南御堂正面の萱葺き・唐破風[からはふ]が付いた門には「四足門」と表記されているのに対し、北御堂正面、瓦葺き・切妻屋根[きりづまやね]の門には表記がなく、形態も異なっていますが、双方ともに正面の重要な門であることに相違ありません。そして、「南北両御堂とも荘厳艶麗にして他に比類あらず」と両御堂が賞賛されています。
南御堂の紹介文の末尾は、「築垣[ついぢ]の石高くして西北の方ハ土堰を築き」、その上には庭園が設けられており、「市中の壮観なるべし」と締めくくられています。さて、南御堂にあって北御堂にないものに、「窟門」[あなもん]があります(図3)。『摂津名所図会大成』によると、穴門内は夏でも暑気を通さないため涼しく、ここで売られるスイカは、「穴門の西瓜」として高い評価を得ていたそうです。

図3(『摂津名所図会大成』)

●寺内町●
北御堂は、本町付近の人家を取り込み「寺内とし」、南御堂は「渡辺御坊」と称されていましたが、「寺内」「御坊」は寺内町に由来します。寺内町とは、蓮如上人によってまず吉崎(福井県、文明3年=1471)、その後、山科(京都市)、石山(大阪市)など、摂河泉や大和に多く建設された、浄土真宗徒の集落のことです。町中は碁盤目状に町割りされ、その中心となったのが「御坊」や「御堂」と呼ばれる寺院です。畿内では、今井町(橿原市)、富田林(富田林市)、貝塚(貝塚市)、久宝寺(八尾市)などが有名です。今井町と富田林を見てみましょう。

・今井町
今井町にも南・北御堂があります。重要文化財の南御堂称念寺は、寛永14年(1637)に建立された入母屋造りの堂々たる建築です(図4)。その前の道は「御堂筋」です(図5)。このことから、「御堂筋」が一般名詞であることが分かります。なお、北御堂の順明寺は、昭和47年(1972)に建て替えられたそうです。

図4

図5

・富田林
富田林の御坊興正寺別院は、町の中心に配されています。重要文化財の本堂は、寛永15年(1638)に建立されました。御坊前の「城之門筋」に面して建つ山門(図6)は、伏見城の城門が興正寺(京都)北門として移築され、安政4年(1857)に当寺へ再移築されたことが近年判明しました。

図6

ところで、富田林では御坊前の道路を「城之門筋」と呼んでいます。その由来は、山門が伏見城の城門を移築したものによると推測されますが、御坊前に山門が移築されるたは安政4年です。とすると、山門が移築される以前は、他の寺内町と同様「御堂筋」と呼んでいたのでしょうか。気になるところです。

■現代の両御堂
●北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院、〒541-0053大阪市中央区本町4-1-3)
本院は、西本願寺第12世宗主准如により、慶長2年(1597)に建立されました。元禄7年(1694)頃から境内地が拡張され、享保6年(1721)に本堂・御影堂が整備されますが、同9年の「妙知焼」で焼失、同19年に再建されます。江戸時代に朝鮮通信使の宿所となることなどは、『図会』の記述とほぼ同じです。これは、南御堂の記述についても同様で、『図会』の情報の正確さが窺えます。近代では、明治元年(1868)に明治天皇の行在所となっています。諸堂は、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で焼失、同39年に再建されました。
御堂筋に面した長大な瓦葺きの門(図7)を入ると、門と回廊で仕切られた境内となり、前面の大階段の頂部に、瓦葺きの大屋根が印象的な本堂(図8)が建っています。

図7

図8

本堂は、正面の柱間5間のうち中央3間が入口、屋根以外、伝統的な意匠を排したモダニズム建築です。本堂前左右のモニュメント(図9)にも装飾はなく、本堂正面上部の欄間が卍崩しの高欄、梁 [はり]端部の突出が木鼻 [きばな]を思わせる程度です(図10)。

図9

図10

設計者の岸田日出刀 [きしだひでと]は、明治32年(1899)福岡市生まれ。大正11年(1922)東京帝国大学建築学科を卒業、昭和4年教授となり、自身建築家であるとともに、前川國男や丹下健三など、多くの建築家を送り出しました。著名なモダニストが描いた雄大な大屋根の曲線と、静かな境内に心が癒やされます。

●南御堂(真宗大谷派難波別院 〒541-0056大阪市中央区久太郎町4-1-11)
本院は、本願寺第12代門首教如上人が文禄5年(1596)、渡辺の地(道修町1丁目)に大谷本願寺を建立したことにはじまります。慶長3年(1598)現在地に移転し、同8年に本堂が落成。正徳3年(1713)に再建された本堂は、「妙知焼」にも罹災を免れました。諸堂は、昭和20年3月の空襲で焼失、同36年に再建されました。
御堂筋に面した、1階部分を列柱で持ち上げ、吹抜としたピロティ形式の御堂会館(図11:平成30年6月現在解体中)をくぐると、伝統的な形態を踏襲した伸びやかな屋根の曲線が美しい本堂(図12)がみえます。

図11

図12

軒裏をみると、向拝 [こうはい]の虹梁 [こうりょう]に蟇股 [かえるまた](図13)が備えられているほかは、木造の形態はみられません。

図13

設計者の太田博太郎 [おおたひろたろう]は、大正元年(1912)東京生まれ。昭和10年(1935)東京帝国大学建築学科を卒業、同35年教授となります。太田によると、鉄筋コンクリート造に即した単純な形態が合理的であり、木造の細部を再現することは無意味であること、伝統的な形態が生かされ、受け継がれていくような形態などを考慮して、鎌倉時代の様式を念頭に設計したといいます。そのように見ると、屋根や軒の曲線や全体のプロポーションは禅宗様を想起させます。復興計画作成の過程では、1棟併設案、1棟重層案、2棟別置案が検討され、本堂と御堂会館の2棟別置案が採用されました。優美な本堂と荘厳な内部空間に心が癒やされます。

ところで、もし1棟重層案が採用されていたら、北御堂とならぶ江戸時代の大規模な景観が現代によみがえっていたかも知れないと思うと楽しくなります。それにしても、モダニスト岸田日出刀が伝統的な和風の大屋根を架け、建築史学者太田博太郎が伝統的な寺院建築を、構造に即した合理的な形態で設計するとは、何とも興味深いところです。

【用語解説】
・蟇股:虹梁などの上に配される、かえるが股を広げたような形式の部材。
・唐破風:向拝などに設けられる、中央部が起り[むくり]、両端部が反っている破風。
・木鼻:貫[ぬき]などが柱から突き出た部分。動植物などの装飾を施すことが多い。
・切妻屋根:棟から軒桁[のきげた]に向かって二方向に傾斜をもつ屋根。

・向拝:礼拝のために設けられた、社殿などの正面から突き出た部分。「ごはい」ともいう。
・虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起りをつけた梁。
・貫:木造真壁において、柱と柱を連結する横材。
・梁:小屋組などの荷重を受けるため、柱の上部に配される水平材。
・起り:屋根面や部材などが、凸状に湾曲した形状。

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