旧赤阪小学校講堂①-地域のお宝さがし-23

所在地:〒4840000 犬山市内山1

赤阪小学校講堂(図1~3、以下講堂)は、昭45年(1970)に明治村に移築され、平成15年(2003)に登録文化財になっています。

図1

図2

図3

この建築には、建築年、移築元などに関して複数の説があります。ここではそれらを紹介し、検討します。

■諸説の内容■
講堂の建築年と移築の経緯などに関する説を、少し長くなりますが、引用します。
A『村誌』説:「記録によると昭和四~六年の間に、大阪北区堀川小学校の建物を移建したものであり、創建の年代は明確ではないが、様式からみて明治二○年前後の建築と推定される」(注1)。出典から、『村誌』説とします。
B『ガイドブック』説:「大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年に同校の校舎新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたもので」(注2)、建築年は明治30年頃としています。出典から、『ガイドブック』説とします。
C『総覧』説:「旧府立大阪尋常中学校、昭和4年千早赤阪に移築転用」(注3)、建築年は明治44年としています。出典から、『総覧』説とします(以下、A説・B説・C説と略記)。

【A説・B説の検討】
①建築年:講堂と同時期の蔵持小学校が明治村にあります(図4)。

図4

同校は、明治21年に三重県尋常師範学校本館として現在の津市に建築され、昭和3年に「本館の改築に伴い」、名張市蔵持村に売却・移築され(注4)、蔵持小学校となりました。建築年や移築の来歴も講堂と類似していることから、都市部の校舎が新築や改築による建て替えに伴い、周辺地域へ売却・移築が行われた例のあったことが窺われます。
双方の外観を比較してみると、蔵持小学校の1階部分のアーチが連続するアーケードの構成、外壁の洋風下見板張り仕上げ、縦長窓の形態が講堂とよく似ています。一方、B説には建築年の根拠は示されていません。


②移築元:堀川小学校は、明治6年創立の北大区第7区小学校(東堀川町、当時)と北大区第8区小学校(綿屋町、当時)に始まります(図5)。明治11年に、第7区小学校が堀川南小学校、第8区小学校が堀川北小学校と改称されます。

図5

明治19年に両校は併合されて堀川小学校となりますが、校舎は新築されず、北小学校を本校、南小学校を分校とし、同年7月に本校が増築され、南小学校は廃校となります。つまり、明治19年時点での堀川小学校は、綿屋町にあった元の堀川北小学校です。これが明治20年に堀川尋常小学校(注5)と改称され、同32年に南森町に新築移転します(注6)。


③所在地 この頃北区大工町にあったのは、盈進[えいしん]高等小学校です。同校は、盈進小学校として明治19年に西天満小学校内に設置され、同26年菅原町に移転して盈進高等小学校と改称、同42年7月31日の「北の大火」で焼失。翌43年に大工町に校舎が新築されますが、大正14年(1925)3月末に廃校となります(注7)。
ところが、図5を見ると、菅原町は被災していないのです(注8)。当時の「驚天動地古今絶無大阪大火災實況図」(注9)に記された「焼失町名」にも菅原町はありません。しかし、罹災した「学校」に盈進小学校が記されています。このことから、盈進高等小学校は菅原町で被災したのではなく、明治26年以降に菅原町から大工町に移転し、そこで罹災し、翌年復興されるとともに校名が第一盈進高等小学校にと改称されたと推測されます。そして、大正14年の廃校後、その跡地には堀川尋常小学校が移転してきます(注10)。


4)前掲2)『博物館明治村ガイドブック』
5)明治19年の小学校令により、小学校は尋常小学校と高等小学校となる。
6)『大阪市立堀川小学校創立百周年記念誌』(1973年)、『大阪市立堀川幼稚園大阪市立堀川小学校校園舎竣工記念誌』(1992年)
7)『北區誌』(1960年)
8)『新修大阪市史』(第6巻、1994年)
9)Wikipedia「北の大火」掲載
10)南森町に移転した当時から市電の騒音に悩まされたことが、大工町への移転の要因となった。前掲『大阪市立堀川小学校創立百周年記念誌』

【A説・B説検討の結果】
A説・B説の検討の結果、以下の事項が分かりました。
①建築年:講堂の建築年代は、明治20年頃と思われる。
②移築元:A説の堀川小学校は堀川尋常小学校であった。
B説の堀川尋常小学校は、明治30年頃綿屋町にあり、大工町になかった。③所在地:明治30年頃に大工町にあったのは盈進高等小学校で、同校は「北の大火」後に復興され、第一盈進高等小学校と改称されるが大正14年に廃校、その跡地に堀川尋常小学校が移転してきた。

次回は、C説を検討します。

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