大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-00

■楽しい「まち歩き」■
毎日の忙しい生活のなかで、繁華街をブラつくときなどに、レトロな近代建築をさがしてみるのも楽しいものです。一方、大阪の都心には現在も多くの社寺が残されています。たまにはパワースポットや癒やしの空間を巡ってみるのも面白いものです。ここでは、社寺だけでなく、近代建築やそれを設計した建築家、史跡なども紹介します。現代と近代のまちの景観などを思い浮かべながら、「まち歩き」を楽しみませんか。あなただけの、魅力的な空間や面白いスポットを発掘できるかもしれません。

■その前に大阪の変貌をみておきましょう。坂と阪■
江戸時代の大坂は、城下町として上町台地から西へ向かって発展しました。大坂では、東西方向の道幅が広い主要な道路を「通り」、南北方向の道幅が狭い道路は「筋」とよんでいました。明治時代になると、北の端に梅田停車場が開設され、大阪市の発展にともない南北方向の道路が拡幅されます。堺筋は明治41年(1908)から45年にかけて、御堂筋は大正15年(1926)から昭和12年(1937)にかけて拡幅されました。同時期に地下鉄御堂筋線も開通し、北の阪急ビル(昭和4・11年、図1)と南の南海ビル(昭和5・7年、図2)の完成が、南北方向へ発展する近代都市大阪が形成される契機となりました。つまり大阪は、東西方向に発展した近世大坂と近代大阪が直交して重なる重層都市なのです。昭和20年の大空襲で焼土と化すまで、大阪は歴史・経済都市として繁栄してきたのです。

図1今は無き阪急百貨店

図2高島屋は健在

■戦後の社寺建築■
大阪では、『摂津名所図会』などに紹介されている江戸時代以前の由緒をもつ多くの社寺が空襲で焼失しましたが、戦後、鉄筋コンクリート造(以下、RC造)で復興されています。戦前のRC造は、三津寺庫裡(昭和8年)のように木造の形態に忠実ですが、戦後では、外観は往時を想起させますが、軒裏をみると、南御堂や御霊神社拝殿などのようにRC造の特性を考慮して、大胆に省略される場合がみられます。RC造だから歴史がないと思わず、長い歴史をになった建物が再び焼失することがないよう、あえてRC造が選択されたと考えたら、戦後の社寺建築をみる目が変わるのではないでしょうか。また、超高層ビルの谷間にある社寺は、現代都市大阪の歴史的な象徴として継続されています。「まち歩き」は、どこから始めても良いのですが、まずは北浜の少彦名神社とその周辺、「堺筋」と「御堂筋」の間をうろうろしながら、南を目指しましょう。

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