温泉 兼 前宙訓練所

選択肢は二つあった。ジムか、プール。

留学生は暇である。日本の大学生が忙しがる二大要因はサークルとバイトだが、私はドイツに来てからどちらもやっていない。それで長い冬に鬱になるのを免れるためにも、運動したくなるのは道理だ。といって外でランニングもサイクリングも出来やしない。天気はぐずつき、路面は凍結しかかっている。まだ11月だというのにこれである。周りの留学生は、ジムに通い出す人が多かった。

友人と会話していると、すぐ近くにプールあるよね、そこ通わん?と言われた。それは私の脳内に全く浮かばないことだった。なぜって、私は泳げないし泳ぐのが苦手だから。水泳のせいで体育の評価が下がるほどだった。ビチャビチャの水着が気持ち悪いし、ほぼ裸同然の姿を好奇の目でクラスメイトに見られるのは胸糞悪いことだった。泳げない以前に、泳ぎたい欲が出ることはなかった。人間は陸で生活すればいいと金槌の自分を正当化していたのだ。

それなのに今回は、あっさり決断した。誘ってきた友人を差し置いて、翌日にはスポーツ用品店まで行って水着を買い、さっそくプールの年パスを買ってプールをエンジョイしてきた。友人が行動の速さに驚くほどだった。

私は飢えていた。
水に、浸かりたい!
しかも金土は温水だって!もうそれ、温泉じゃん!最高!!!

ドイツの寮に付いている水の出が悪いシャワーだけでは我慢ならなかった。急に冷たくなったり熱くなったりする。もう嫌だ。体を震わせながらちょろちょろしか出てこないお湯をスタンばってるのは気持ちがメゲる。

しかも、二泊三日のサークル合宿で7回温泉に入る私である。しずかちゃんと同じ民だ。もう温泉のためだけに金と時間をかけてでもバーデン・バーデンまで行ってやろうかと思っていたほどだった。その矢先の朗報。

徒歩3分以内の場所にプールがあると!そこに通うことは思いもつかなかった。けれど知った途端、そこしかないように思った。ボロいシャワーだけでなく、とにかく水に浸かりたかったのだ。ちなみに、泳ぐ気はなかった。水に浸かりたいだけである。

いやもう、プールに入る前にシャワーを浴びるだけで歓喜だ。ちゃんと一定の水量でお湯が出てくれる!Danke schön!

初めて行った土曜日、水に入ると、確かにぬるま湯だった。全身が安心しきっている。ああ、生きててよかった。その翌日も行ってみたら、日曜日にも関わらず温水らしかった。冷水で凍りつく覚悟でそれでも水中を求めていった私は、破茶滅茶に嬉しかった。日曜日はどこの店も閉まりきって、何もやることなく部屋に籠城するのが常だったが、気軽に温泉に行けてしまうこととなった。

最初に水中に入ったときは、驚いて文字通り何も言えなくなった。沈んだのだ。ズブズブ沈んで、浮いてくるのに数秒かかった。足がつかなかったのだ!一発目から死ぬかと思った。多分深さ2メートルはあると思う。泳ぎの練習なんぞ出来やしないとわかった。私のいう泳げないというのは、前に進めないという以前に、うまく浮かずに沈むということなのだ。足がつかないところじゃ残されているのは溺死しかないではないか。

暫くすると喜ばしい発見をした。Schwimmer(泳ぐ人)とNichtschwimmer(泳がない人)に分かれていて、プールの三分の一ほどのスペースは、泳がない人用だった。そちらは水深120センチなので無事に足がついた。30分くらいぽわんぽわん歩くのでも快適だ。久しぶりの水浴は肉体をやさしく撫でていく。快感そのものだった。

ために激しい水音が迸る。水を叩く音。
前方宙返り!
バンッと板が跳ね、青年が水中へ飛び込んだ。プールの端っこには飛び込み台が一つある。だから足のつかないほどの水深が必要なのだと説明されればまあ仕方ない。

前方宙返り!の音を何度も聞く。さらにひねりを加えて回転する青年もいる。なんだここは。それもやっちゃってええんか。

落雷の如く突然に、ある欲望が私を襲った。
それまで傍観者でしかなかった元体操部の血が滾った。前宙してええええええええええ!

もうそれから私は120センチプールを揺蕩いながらも、前宙して飛び込みたい以外の気持ちを持たなかった。うん来週は挑戦してみようかな、と思っていたのが、そんな呑気にしていられなくなった。とにかく前方宙返りを決めてやりたかった。それでプール二日目にも関わらず意を決した。泳げないからゆっくり歩くしかないのだが、飛び込み台へ向かった。

一度目はただ飛び込むだけにした。そして、見事沈んだ。どうにか浮かび上がって、プールサイドへ移動するのが一苦労なのだった。沈んだままその場にいたら次の飛び込み者にのしかかられる危険があるので、早く退かなければならない。

若干の恐怖はあった。体操部時代毎日やっていたのだから前宙は出来るに違いない。けれども私は、泳げないのだ。

以前体操部の仲間と海へ行ったことを思い出した。彼らが前宙やバック宙や馬跳びをしながら、崖から海へ飛び込むのを見ていた。皆んな身軽だった。すると、アクロバットなしでただ飛び込むだけなら私でも出来るのではないかと勘違いし始めた。それで私も一度飛び込んだ。それから数秒間沈み続けた。一生浮かばないかと思った。次に飛び込んできた仲間が岸まで連れて行ってくれた。

今度もまた盛大な勘違いをしていた。私はきっとアクロバットは出来る。けれど、泳げないから沈む。やっちまったねえ。

それでも何としても前宙をやりたかった。ので、やった。もちろん沈んだ。うまく泳げないのがバレバレの必死のていでプールサイドへ辿り着く。だがしかし、意外と遠くまで飛べていたのを発見して嬉しくなった。遠くまで行けたということは高さはイマイチだったかもしれないけれど。高さと距離を両立するのは難しいから。

前宙が出来る環境だなんて最高じゃないか。しかも水中ならどんなに下手な着地でも怪我の心配がない。やりたい放題バック宙もひねりも挑戦できる可能性がある。おまけに、温泉みたいなもんだ。悦しや。

#エッセイ #ドイツ #留学

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