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『未知の次元』という錯乱。

カルロス・カスタネダの『未知の次元』(講談社学術文庫)を読んだ。人類学者であるカスタネダが北メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンから幻覚植物や呪術に関する様々な「教え」を学ぶ「ドン・ファンの教え」シリーズの第4作目だ。ルポルタージュ形式で書かれているこのシリーズは、事実なのかフィクションなのかということが、これまで散々議論されている。というのも、カスタネダという人物はカリフォルニア大学で人類学を学んだという以外の経歴がわからず、消息すらもわかっていない謎の多い人物だからだ。
現在では文化人類学の知識とフィールドワークに基づいた創作だとする見方が強いみたいだが、北メキシコの呪術師たちの思想やその仕方を知るうえで重要な書であることは学者たちも認めるところだ。

10年ほど前に友人に勧められ、読んでみたいシリーズではあったが、これまでなかなかタイミングが合わなかった。でも「僕は、僕の次元におけるシャーマンだ。」と宣言した以上、ドン・ファン師匠には挨拶しとくべきだと思い立ち、僕はこの本を手にとった。『未知の次元』。僕は一連のシリーズのなかで、このタイトルに惹かれた。シャーマンとして、これまで僕が言ってきた「自分の次元」「匿名の次元」「未知の次元」を深く掘りすすめるヒントがあるのではないかと感じた。ぱらぱらとページをめくっていると「トナル」と「ナワル」についての記述があった。というよりも、この本自体が「トナル」と「ナワル」というヤキ・インディアンたちの呪術的な次元の概念をめぐる本だった。確かな流れができている。いい感じだ。坑道という行動がゆっくりとつながっている。

この本の中では「トナル」と「ナワル」は、「トナール」と「ナワール」と表記されている。
「トナール」と「ナワール」とは何なのか。正直、この本を読んでも何もわからない。わたし(カスタネダ)とドン・ファンの間で交わされる超自然的な会話、現象、体験に、ただただ圧倒されるばかりで、理解しようとすればするほど、何が書かれているのかますますわからなくなる。錯乱状態。この本そのものが幻覚植物。それでいい。これでこそ呪術だ。あらゆる芸術は、ある種の幻覚植物として機能しなくてはならない。意識の混濁。僕のシャーマニズムはここから始まる。僕はこの本に書かれていることをサンプリングし、僕の次元における「トナール」と「ナワール」という概念を再構築していく。

「トナール」が、ある種の守護霊であり、それはふつう動物で、人は生まれたときに獲得したその守護霊と生涯にわたって密接なつながりをもちつづけるとされている。また「ナワール」は、呪術師が変身すると言われている動物、あるいはそのような変身をとげる呪術師にたいして用いられる呼び名である。

人類学者であるカスタネダは「トナール」と「ナワール」についての知識をこのように語る。これは概ねこれまで僕が理解していたこととほぼ同じだ。しかし、これに対してドン・ファンは「それは、まったくのナンセンスだ。」と切り捨てる。まだ見習い呪術師である僕は、それを理解するためにこれまで聞いたすべてのことを無視しなければならない。

ドン・ファンによると、すべての人間には生まれたときから働きはじめる二つの側面、二つの異なった存在、対応する二つのものがあるという。その一方が「トナール」で、もう一方が「ナワール」だという。

僕はドン・ファンの言葉をどんどんサンプリングしていく。

「トナール」とは社会的人格である。
「トナール」は世界のオルガナイザーだ。

その途方もない働きを言いあらわす最良の方法は、その肩に世界の混乱に秩序を与える課題を担っているということ。「トナール」は、ドゥルーズがいうところの「私たちの内部に侵入してくる諸力にたいするゲリラ線」を展開している。つまり哲学の働きを担っている。僕らが人間として知りかつ行うすべてのことは「トナール」の働きだ。「トナール」は僕らのあり方のすべてだ。そして、言葉であらわせるこの世界の「事」、僕らが知っているすべての「事」もまた、みな「トナール」なのだ。

僕らが一般的に「世界」と呼んでいるものは存在しない。「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエルは不意に僕らの前に姿を現し、なにか大事なことを語る。マルクス・ガブリエルはドン・ファン。哲学者はシャーマンだ。「世界」というものは存在しないのに僕らはそれがあると思っている。僕はその「世界」を「匿名の次元」と呼ぶことにしている。「世界」なんてものはない。あるのはただ僕らが見ることを学び、当然のものとして受け入れるようになった世界を記述する言葉だけ。つまり「空」だ。「トナール」は、僕らの知っているすべてのことである。しかも、そこには人間としての僕らでなく、僕らの世界のすべてが含まれている。「トナール」は、目に入るすべてのものだと言うこともできる。

「トナール」は島であり、レストランに並ぶテーブルだ。テーブルの上に世界があり、そのテーブルが無数に並ぶレストランもまた世界だ。レストランのテーブルは、同じかたちで、同じような特徴があらわれているが、これらはいずれもおたがいに異なっている。
僕らはひとりひとりに、個人的な「トナール」がある。それらの集合的な「トナール」が、この世界の「トナール」であり、その時代の「トナール」を形成する。つまり「匿名の次元」だ。「匿名の次元」はレストランのすべてのテーブルを、ある秩序のもとに似たものにするのと同じように、僕らを似た存在にする。それでも、個々のテーブルはそれぞれ個別のものだ。「自分自身」と「世界」について知っているすべてのことは、すでにテーブルの上にある。すべては「トナールの島」の上にある。

では「ナワール」とは何なのか。

「ナワール」は僕らのうちにあって、僕らがまったく関与しない部分。言葉では言い表せない部分だ。

僕らは「ナワール」にたいして、言葉も名前も感情も知識もない。僕らは「ナワール」を理解しようとして、心、魂、思想、概念、精霊、神、宇宙、エネルギー、涅槃、智慧、真理、などと「名」をつけてみる。それらは「名」を持った瞬間に、すべてテーブルの上にあるもの「トナールの島」の上の「事」となる。「ナワール」は「名」によって縛られない「印」のみがある。僕が「すべて」と言えるのは、僕が考えうる限りの「すべて」であり、それはどこまでいっても「すべて」ではない。「ナワール」は、常にそのすべてを含む外側の力のたむろするところにある。

僕らは誕生し、はじめて空気を吸い込んだ瞬間に「トナール」にも力を吹き込む。だから人間の「トナール」はその誕生と密接につながっていると同時に、死をもって終わる。僕らは呼吸することで「トナール」に力を吹き込んでいる。ただし、僕らは誕生からしばらくのあいだは「ナワール」そのものだ。僕らは欠けた核を補うように、もう一つの側面である「トナール」を育てていく。やがてそれらの集合体が「匿名の次元」を形づくり「ナワール」の影そのものを薄めていく。僕らは欠けた核を埋めようとする。その欠けた核を埋めるものを「トナールの島」の中に探す。魂と肉体、生と死、心と物質、野生と理性、善と悪、男と女、デジタルとアナログ、オアシスとブラー、それらは、ただ「トナールの島」の上にあるものを組み合わせているにすぎないということに気づかない。僕らは我を忘れ、狂気の中で自分がまったく正常だと信じている。人は善と悪のあいだでうごめいているのではない。人が本当に動くのは、否定性と肯定性のあいだなのだ。

ドン・ファンは「お前のトナールで、彼らのトナールを見きわめろ。」と言う。道徳的観点や「匿名の次元」の風にもてあそばれることなく、世界というものを見定める。「匿名の次元」というものは判断と選択を迫りすぎる。「匿名の次元」に生きる人間は、その判断ひとつが命取りのような強迫観念に追い立てられ武装する。「トナール」は傷つきやすく臆病だからだ。あるがまま。リラックス。流れるように観察する対象に没入していく。ただそれだけ。観察にたいして「ナワール」は経験か?直感か?無意識か?先験的自我か?それらはすべて「トナールの島」の上の話だ。「ナワール」はその内でも外でもない力の漂うところ。効果であり作用だ。交差するところに力がたまる。南方曼荼羅における「翠点」だ。創造性というものは「ナワール」に起因する。「トナール」をあと押しすることによってのみ、「ナワール」はあらわれうる。

「ナワール」に接しているとき、僕らは決してそれをまっすぐにのぞきこんではならない。「吹き」とばされてしまう。これは比喩ではない。事実だ。「ナワール」を見る唯一の方法は、ごくあたりまえのものに目を向けるようにさりげなく見ること。その時僕の目は「トナール」の目だ。観察という訓練により、僕の目は「トナール」の目となる。「トナール」は僕の目を必要とし、その目を手放そうとはしない。「トナール」がその目を手放したとき、僕の「ナワール」は勝利する。僕らは世界を「トナール」の法則にしたがって整理しようとしてしまう。だから、「ナワール」と対峙するたびに、敵対的な態度を取るというジレンマが起こる。その窓の前を通り過ぎる別の世界があるということを「トナール」にさとらせる必要がある。僕は僕の目を自由にする。「トナール」の目が「トナールの世界」にのみ向けられているかぎり、僕は塀の完全な外側にいる。「トナール」の目の門の向こう側では、風が吹き荒れている。それは地上のあらゆるものを「吹き」とばす風だ。ナワールの風。僕は思考のダブミックスにより立ち上げる空間に流れる風と音楽の源をたどる。すべての創造性の空間に流れる風の源流はナワールの風のなかにある。

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