見出し画像

愛せる化粧をさがして、あるいは愛せるわたしをさがして

※この記事は昨年6月に書いたものです! そうなった経緯や公開した理由は記事の終盤で書いています。

まえがき

化粧のことがほんとうにきらいで、ちかごろはほとんどすっぴんで過ごしてきた。

もともとは、

・社会的な振る舞いを求める相手と会うとき
・客席とステージが遠い会場でライブをするとき
・その他まあやってもいいかなという気持ちになったとき

の三パターンのみ化粧をしていたが、あるときとつぜん「いや、こんなに化粧がきらいなのだから、わたしまで化粧派(?)に与して、同じ気持ちでいるひとの肩身をさらに狭くすることはない! わたしは化粧をせずにいてみよう!」と思い立ち、それすらもやめた期間が、一年ほど、つづいた。ライブにも就職の面接にもすっぴんで行った。男はいつもそうなんだからいいじゃん、という反発の気持ちもあった。

画像1

▲日ごろのわたし(はちゃめちゃにすっぴん)

基本的に、装うことはわたしにとっては鬼門で、おしゃれすることもあまり好きじゃない。服は好きと言えば好きだけど、それは色が好きなだけで、服飾が好きなわけではない。色が好きな気持ちと、それを身に付けたいという気持ちとがかさならない。

おそらくそこには、規範に対する違和感やジェンダーバイアスに対する違和感や自己に対する違和感やらがかさなっていたのだと思うんだけど、さいきん #anoneで診断してみた というジェンダー診断(リンク)をやったことで、若干それが氷解した。

わたし、これまで自分のことを身体精神ともに女性であると思ってきたが、わたしの性自認はXジェンダーだったらしい。

画像2

Xジェンダーというのは男性でも女性でもない性のことで、あいだにあったり、日によって変わったりするという。この「日によって変わる」というのが、「そうそう、そうなんだよー!」だった。そうそう、猛烈に男装がしたい日と、まあスカートくらい履いてやってもいいかなの日があるんだよ。そういえば一人称も「わたし」「ぼく」「おれ」などのあいだで定まらない。性自認とべつに「表現したい性」というのもあって、こちらもXジェンダーだった。わかる!

そうか、わたし、女性でいようとしなくてもよかったのか、というのがすなおな感想だった。
女性らしくするのは苦手だけど、トランスジェンダーというわけではないし、たぶん単に社会に不適合なだけなんだろうな……と思っていたが、そうか、わたしのもジェンダーの問題だったのか。
そして、外部から女性らしさを押し付けられることをあんなに嫌っていたのに、自分もどこかで自分自身にそう強要していたのか。

そして思う、では「Xジェンダーらしさ」とはなんだろう? いや、ちがう、それもまたある種の類型になってしまうかもしれない。こう問うべきだ。

「“わたし固有のジェンダー”らしさ」とはなんだろう?

それでだ。
最近、「高校生の男の子に着古しのスカートをあげる」というめずらしい機会があった。「べつに女装とかじゃなくてスカートが履きたいだけです」とその子はいう。でも買うのは親の目が気になるというのであげた。よろこんで着ていたが、実際べつに女装という意識はないようだ。( #anoneで診断してみた をやってもらったら、彼の性自認は男性、表現したい性がXジェンダーだった)

で、思った。
わたしも男性だったら、いま男装してみたいと思っているのと同じように、スカートを履いてみたいと思ったにちがいない。

わたしは「女性らしさ」のことがとても苦手で接しづらく思っているが、だからと言ってべつに「男性らしさ」を踏襲する気にもなれない。わたしの要請は、「どっちつかずでいたい」ということだけなのだ。

そして、化粧も同様ではないか。
もともと、化粧のなにがきらいだったかといえば、化粧をすると顔が他人のように見えること、そして、化粧のマニュアルに「女性らしさの類型」みたいなものが見え隠れすること。目をはっきりと、肌をきれいに、くちびるに艶を。わたしは化粧をしている女性のことを心からうつくしいと思うし尊敬するけれど、自分自身がそうなりたいとは思えない。アイラインを引くとき、自分がなりたい像を書き換えてしまうようで、いやだった。

でも、もし男性に生まれていたら、たぶん化粧をしてみたかっただろう。あまのじゃくだからかもしれないけれど、化粧をする女性にはなりたくなくても、化粧をする男性にはなってみたい!

そう思うと、なにも化粧のすべてがきらいなわけではないような気がしてきた。
そこで、わたしのなかにある化粧したくなさと化粧したさを、一度分解して整理してみる。

するとこうなる。

化粧したくなさ
・既存の女性らしさをなぞること
・顔が派手に、他人のようになること
・顔一面に何かを濃く塗ること(皮膚呼吸ができなくなる感じがする)
・毎日のルーティンに工程が加わること(ルーティンが変わるのが苦手)
・化粧をする工程で他人の視線を強く意識すること
化粧したさ
・顔に好きな色を塗ること(色とお絵かきは好き)
・化粧品を所持すること(化粧品は魔法の道具みたいでかわいいという気持ちはある)
・今後化粧によって自分の容姿を好きになれる可能性を感じること

もし、この要件を満たす化粧があるとしたら、わたしが化粧と和解する日も近いのではないだろうか。できるなら、してみたい。このんで化粧をしている女性たちはみな楽しそうで、うつくしく、わたしはそこにはとてもあこがれを持っているのだ。

と、いうことで、慎重に、自分と化粧とのそれぞれにちいさく声をかけるように、すこしずつ化粧を試行し、二週間まいにち写真とともに記録をつけていくことにした。
以下はその記録である。

わたしがこの一年ほど化粧をしないでいてみたのは、それが化粧がきらいで過ごしづらく感じている女性を元気づけることになればいいなあと思ったからだったが、ベクトルのちがうこの試みもまた、そうなればいいなあと思っている。
わたしのばあい、化粧をしたいと思えないことが、自信を奪ったり、人に会いづらくさせたりすることもあった。ばかにされたこともあったし、むりやり化粧をしてみたけれど、自分の顔を見ているのがつらくて、トイレで泣きながら落としたこともあった。
そしていまは、化粧をするかどうかはじぶんが選びとってよい、そこに気後れを感じることは一切ないのだと思っている、でも、だからこそ、じぶんが好きになれる化粧を見つけてみたい。
女性が足を痛めながらヒールを履かないといけない、という風潮は、すこしずつゆるんできているらしい。またりゅうちぇるさんをはじめ、男性がメイクをすることも増えてきているようだ。
そのように、ジェンダーにかぎらず、(わたし自身もふくめ)化粧でしんどい思いをするひとがすこしでも減ればいいなあと思っている。これは、化粧をしていなくても、してみても、かわらない。

–––––

2019/6/1(土)

記録をはじめる。
上記の「したくない・したい化粧」の条件から見て、

・顔の全部分に塗らない
・好きな色を塗る
・女性らしい魅力をめざさない

化粧ならいけるのでは? という仮定から、顔の各パーツにただただ金色を塗っている。
(というか、じつは金色のアイライナーと口紅を見つけて「これなら塗ってみたい……」と思ったことがこの記事の発端になっている)(わたしは金色がめちゃくちゃ好きである)

結果がこれだ。

画像3

・アイライン(金)
・口紅(金)

のみ。
いいわすれていたけれどわたしはほんとうに自撮りが苦手なのでみょうにアップだし居心地が悪そうな顔をしている。
所感としては、不快ではなかったけれど、これならべつに化粧をしなくてもよい。くちびるが金色になった瞬間のみうれしい。


2019/6/2(日)

この日は社会的な振る舞いが必要とされる日だったこともあり、考える材料にするためにも、ためしにじぶんがこれまでにおぼえた通常の化粧をしてみた。

画像4

・化粧下地
・ファンデーション
・アイライン(焦げ茶)
・アイシャドー(茶)
・アイブロウ(茶)
・口紅(赤)

をつけている。とはいえたぶん世間一般に比べれば薄化粧だと思う。あと伸ばしっぱなしだった眉毛にアイブロウを塗ったら大変なことになりそうだったのでハサミでととのえた。自分ではこの顔のことを、眉毛は濃いわくちびるは赤いわ、大袈裟できもちわるいと感じる。

2019/6/3(月)

三日目にしてサボり、すっぴんで出かけてしまった。すいません。一般的な常識とは逆かもしれないけれど、この日はセミナー登壇の仕事で大人数の前に出ることがわかっており、また逆に日頃すっぴんでよく会うひとたちに会う予定もあったので、その双方がそれぞれ障壁となり、化粧をする精神的なハードルを越えられなかった。それぞれべつの恥ずかしさがあることをわかっていただけるだろうか。「化粧をしていない」というとまるで人目を気にしていないかのようにいわれることがあるが、まったくそんなことはないのだ。

2019/6/4(火)

6/2の方向性がいやだったので、6/1の「ただただ好きな色を塗る」にプラスする向きで考えてみる。特にいやだったのは濃いファンデーション、濃いアイライン、濃いアイシャドー。皮膚呼吸を妨げるものと顔を派手にするもの。とはいえ6/1に金色のみを塗ったときはうれしいだけでうつくしくはなかった(このふたつを切り分けていることわれながらとてもえらいと思う)。

画像5

というわけで

・化粧下地
・アイライン(オレンジ+金)
・アイブロウ(茶)
・口紅(オレンジ+金)

をつけている。想定を超えた「化粧をした感」が出たため悲しげな顔をしている。ただ金色という色はたいへんかわいい。化粧下地とアイブロウはむずかしく「つけてんだかつけてないんだかわからん」と「つけすぎました、もう終わりです」の二段階しかないと感じる。この日はともに前者。

2019/6/4(水)〜6/7(金)

怖れていたことが起き、夜「化粧を落とす」という動作にどうしても移れず、深夜二時まで起きていてしまった。その結果朝起きるのが遅くなって体調を崩し、そのまま三日間だめになってしまった。なんたること。
あと三年に一度レベルで肌が荒れ、ウワーッとなった。うちは一家そろって肌が弱いのだ。「化粧したくなさ(したさ)」のことばかり考えていたが、そもそも「化粧できなさ」があることを思い出す。
いちおう「化粧とうまく付き合う」みたいなことを目指していたはずだが、こういう日に「できない自分」を受け入れるのと、ちょっと無理矢理でもがんばってみるのとでは、どちらが「うまく付き合う」に近いんだろう? このチャレンジのスタンスが問われる。

2019/6/8(土)

どうにか体調不良から復活。三日やすんだので肌荒れも許容範囲に。
この日はライブ。

画像6

わたしは(お察しのとおり)化粧品に明るくないのだが、フローフシというメーカーにだけは好感を抱いている。

https://flowfushi.com/sp/

フローフシは化粧品の売り文句があまり「かわいさ」とか「異性の視線を獲得」みたいな方向性でないのがよい。じぶんの唇を何色にしたいのかぜんぜんわからない状態のわたしに、「いいから38度に見える色にすればよいんだよ!」といってくれる。フェイスマスクをする曜日も水・日と勝手に決めてくれる。自主性がない者にとってたいへんありがたいメーカーなのだ。
そのフローフシがあたらしいブランドを立ち上げ、そこでいろんな色のアイライナーを売っていたので、よろこんでピンクを買った。これもまた、「顔に好きな色を塗る」というわたしの「化粧したさ」にかなり近い。
ということで、

・化粧下地
・アイライナー(ピンク)
・リップグロス(38度)

をつけている。
この日はけっこううれしかった。

2019/6/9(日)

画像7

突然女装の機運に。そういう日もある。

・化粧下地
・ファンデーション
・アイブロウ
・アイシャドー(茶色)(初)
・アイライン(茶色)
・リップグロス(ピンク)

たいへん意欲的になりあるものをぜんぶ塗った。「ぜんぶをうす〜く塗れば、いやにならずに女装ができるのでは?」というあさはかな試みをし、そこそこの満足を得る。
前述したように、わたしには女性らしい装いをしたい日と男性らしい装いをしたい日とそうでない日がそれぞれあるのだが、わりにその日に会う相手に左右されている気がする。
平野啓一郎の著書『私とは何か』のなかでは、「個人のなかにはさらに細かい人格がたくさんあり、わたしたちはそれを会う相手やコミュニティによって使い分けている」という「分人主義」が提唱される。わたしのばあい、この「分人」に、男性性と女性性があるのだろうか。
おまえには絶対に女性性を見せたくないぞという相手というのがいて、思えばそれが結構多い。

2019/6/10(月)

月曜は出勤日なので、四時半に起きて五時に家を出なければならず、化粧下地だけを塗り、自撮りをしわすれた。化粧下地を塗っていることを会社のだれにも気付かれずほっとした。
なんのために化粧をしているんだ。

2019/6/11(火)

画像8

前述の「UZU(フローフシのブランド)」のアイライナー、ピンクだけを買っていたが、ほかに白を買い足す。
女装の機運は稀有でありもう終わってしまった。好きな色(金、ピンク、白)を塗っているときがいちばんうれしいなと思いそれだけにしてみる。

・アイライン(茶)
・アイライン(白)

をすこしずつ塗っている。ほぼすっぴんなのだがかなり化粧してやったぜ感があり、もうこれでいいのでは。

2019/6/12(火)

昨日の「もうこれでいいのでは」を信じている。

画像9

とはいえ自分が許せる化粧の範囲は広げていきたい。唇ならいけるのではと判断する。というわけで

・アイライン(白)
・口紅(ピンク)

でこれ、唇がピンクになるだけでかなり写真の感じがちがう。抵抗感もないので塗ったほうがいい。
この日会った人に「いま化粧チャレンジ中なんですけど、目が白いのへんじゃないですか?」と聞いたら、「へんじゃないけど、若干ファンデーションが溜まっているようにも見える。ピンクとか赤の方が似合いそう」と言われた。そのあとに会ったべつの人と、コミュニケーションの様式の問題の話をする。

2019/6/13(木)

画像10

・アイライン(ピンク)
・口紅(オレンジ)

「ピンクとか赤の方が似合いそう」を鵜呑みにしたが白のほうがお絵描き感があってかわいくないですか? たぶん、化粧にもとめている「かわいさ」の種類がちがう。

2019/6/14(金)

画像11

2019/6/15(土)

画像12

・アイライン(茶)
・アイライン(ピンク)
・アイライン(白)

両日、目に線を書くという行為が楽しい、というだけの状態。期間を二週間としていたのでいちおうの最終日だったが、とくべつなにもそれを意識したことはしなかった。


2020/10/26(月)

あれっ?

びっくりするほど時間が経ってしまった。じつは、二週間の実験をやり遂げ、この記事もここまで書けたにもかかわらず、十数枚の自撮りをまとめてインターネットに公開することへの抵抗感から、この記事はお蔵入りになってしまったのでした。

この挑戦のあと、反動でなにがなんでもすっぴんの期間を設けた。化粧チャレンジとその記録はそれなりに楽しくやっていたものの、たった二週間にもかかわらず、一度止めてしまうとすっぴんのなんと心地いいこと。とくに生活上のメリットが大きい。朝はギリギリまで寝ていてもいいし、夜に化粧を落とさなければいけないというあの最悪の焦燥感もなくなる。そのまま、化粧の習慣とはあっけなく離れてしまった。ダイエットのあとに反動で甘いものを食べまくってリバウンドしたようなものである。

くわえて、上記の日記のなかでときどき会社に行っていることを書いているが、なんとわたしはこのあとにその会社をクビになり、そのこともまたすっぴんぐらしに拍車をかけた。


それでも、化粧はときどきするようになった。一番最近の化粧がこれだ。

画像13

は? と思われたかもしれない。いやいや、これでも、化粧チャレンジの二週間で学んだことをわたしはしっかり活かしているのです。あと一年半経ったので髪が伸びました。

わかったこと。まず、わたしは気分にかなり波があり、毎日化粧をしなければならないというマストの関係で化粧と付き合うのはどうしてもがまんがならないということ。けれどもこれは裏返して言えば、ときどきだったら化粧をしてみたい気分の日もある、ということでもある。それからわたしのばあい、化粧をしている顔を見られるのは、すっぴんを見られるよりもはるかに人目が気になってしんどいということ。
そして、金色や白を顔に塗るのはたいへん気持ちよく、よいことだということだ。

なので、気が向いたときには、家でひとりで化粧をすることにした。はじめはまじめに化粧の練習のつもりではじめるのだが、誰にも見せないと思うとどんどん気が大きくなる。自分のためだけに化粧をするのだから、好きな色を好きなところに塗っていいし、べつに化粧らしくならなくてもいい。そう思うと、パーツ周辺以外の頬やおでこの余白の広さがキャンバスに思えてきて、気づくとこうなっている。

画像14

とても楽しい。はたしてこれが化粧との正しい付き合い方なのか?

noteの #熟成下書き というお題を見てこの記事を公開することにしたけれど、一年半前の自分から見て今のこの地点が正解かはまったくわからない。いや、そういうことじゃないんだよな、と言われそうな気もする。

でも、2019年のわたし、この化粧をしているときは、あんなに苦手だった自撮りも悪い気はしないですよ。

この記事が参加している募集

熟成下書き

いただいたサポートは国語教室の運営費用に充てさせていただきます。