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小学生の給与明細

母は労働に対価を支払う人間であった。
母の方針では高校生になるまでは、おこづかいはいらない。小学生のうちはおもちゃはクリスマスとお誕生日だけ。他、必要なものは交渉で買うか買われないかが決まった。

小学校の3年生ごろだったか、私は母について街に出た時、雑貨売り場に飾ってあったポシェットに胸を射貫かれた。いわゆる一目ぼれである。少し自我の出る年齢なのか、自分で選んだものを身に着けたかった。
「お母さん、これ買って」
「鞄ならいくつか持っているでしょ」
「こんな、赤くて丸いポシェットは持ってない。うさぎの絵も描いてある」
「いくらなの?」
「うーんと、1980円」
母は品定めをしながら、「ダメ」と答えた。
小学3年生なので、外でじたばたすることはないが、一度欲しくなったポシェットをすぐに諦める気にもならなかった。
そのポシェットを下げてお出かけする自分を想像した。

数日経っても私は母に「あのポシェットやっぱり欲しい」と言い続けた。自分自身がお金を持ったことがないので、1980円が高いのか安いのか想像もつかない。しかし、母がすぐに首を縦に振らないのだから、そんなに気軽な値段でもないのだろう。
「なんとかあのポシェットを買えないだろうか」私は思案した。クリスマスも遠いし、誕生日は終わったばかりだ。早くしないと、売れてしまうかもしれない。
しかし、「欲しい」という以外に交渉する術を知らない。とりあえず、一週間くらいひたすら言い続けた。
その場の「欲しい」で済むかと思ったらしい母は、言い続ける私にさすがに根負けしたのか、一つの提案をしてきた。
「かびちゃん、そんなに欲しいなら働きなさい」
「子供だから働けない」
「違うわよ。お手伝いをしたらお金をあげるから、それを貯めて買いなさい」
すると、母は無地のわら半紙を一枚差し出した。
「お手伝い一つにつき、値段をつけなさい。一つにつき、上限200円よ」

私はさっそくテーブルにわら半紙を広げ、母の家事を思い返した。
「お風呂そうじとお手洗いのそうじは、いつも大変そうだな。200円。あ、でもお手洗いの方が汚いから、これが200円。じゃ、お風呂そうじは180円」。
「洗濯物は、洗濯機がやってくれるから干すだけ、簡単かな。150円。夕ご飯のお料理を運ぶのもお手伝いかな。50円。掃除機はかけられるかな。でも掃除機は重いから大変、150円」。
「水槽の水を替えるのもそうかな。でも、あの水槽は私のだから、あれはお手伝いじゃない。お母さんがやってるけど」。
そうして、しばらくののちに「お手伝い料金表」が完成した。
母に見せるとざっと目を通し、「まあこれでいいでしょう」とGOサインが出た。やる気になった私は、折り紙を半分に切り、「母上様。お手伝いしました。お風呂掃除です。180円。〇月〇日”かび ”」と請求書まで作ってしまった。

実際にお手伝いのスタートである。お風呂掃除をすれば、頭のてっぺんからつま先までびしょぬれになった。お手洗い掃除をすれば便器に小物を落とし、掃除機は重くて一部屋しかかけられない。夕ご飯はまともに運べたが、水槽の水は相変わらず母に任せきりであった。全くもって、お手伝いなのか、母の仕事を増やしているだけなのか、判別できない。それでも私は目標額の1980円にたどり着こうと、お手伝いを繰り返し、母に着々と請求書を渡していた。そうして、自由帳にお金の足し算をしながら、「よし、後、これとこれをやったら1980円だ!ポシェットめ、待ってろよ!」と鼻息を荒くしていた。頭の中はすっかりポシェット一色であり、もう手に入れたも同然のような気さえした。売れているかもしれないのに。

そうして、いよいよ目標額に到達した時、私は母に「ねえ、そろそろじゃない?」ともじもじしながら言った。給与前は嬉しいものなのだ。
母は「はいはい、用意してあるわよ」と頷いて、茶封筒を持ってきた。
「はい、お疲れさまでした。お給料です」
私は「ははーっ」と賞状をもらうかのごとくに大袈裟に振る舞い、封筒を開けた。
「?」
沈黙が流れる。テーブルの上には千円札と小銭が出てきたが、どう見ても足りないのだ。何回数えても、1980円ではない。そんなはずはない、自由帳にも請求書の記録があるではないか。
「お母さん、お金間違えてる!1980円じゃない!」
すると母は、しれっと笑いながら、「封筒の中をよく見なさい」と言った。
封筒の中には、一枚の紙が入っていた。
ー給与明細ー
そこには、見慣れぬ文字がある。
「お母さん、これなに?」
母に問うと、母はまた笑いながら、「所得税よ、しょ・と・く・ぜ・い」といたずらっぽく言った。
「所得税?」
私がぽかんと聞き返すと、「そうよー。働いたらお金が全部もらえるわけじゃないのよ。そこから税金が引かれるのよ。みんなそうよ。働いている人はみんなそうよ」。
私があっけにとられていると、「いやあねー、1980円は額面でしょ。そこにあるのは手取り。それが、その額よ」と母は満足そうに言った。
「うわあああん(泣)」。
頭の中ではすっかり手に入れたはずのポシェットは、すっかり遠いところに行ってしまった。私はがっくりと肩を落としながら、「まだ、あきらめないもん」と母に闘志を燃やし、また請求書をきりながらお手伝いを続けた。その甲斐あって、人生初の労働で手に入れたポシェットだが、なにかこう、素晴らしい満足感ではなく、本当に血と汗と涙の味がする品物になったのだった。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。サポートいただくと、また一編のお話にアウトプットします。体験から書くタイプです。