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平成でSNSを辞めた理由

人に誘われたので、2000年代中頃にSNSを始めた。
そんなに興味はなかったが、書くことはあったのでそれなりに面白かった。
反応が付けば尚更面白い。

2000年代と言えば情報革命の後で、デバイスも小型になったし、インターネット環境を外に持ち出せるようになった。
どこにいても、世界中に自分の情報を発信できることに便利さを感じた。
発信することさえあれば、SNSの世界では、生きていけるのだ。

2010年代になって、テキストだけではなく、写真や動画、あらゆるものがSNSに格納できるようになり、発信者にはさらに便利になった。データを入れておけば、検索の利便性はともかくとしてアーカイブにもなる。便利だ。

その便利さに2015年くらいから、疑問を感じた。
そもそも現実の人間関係で誘われて始めたので、知り合いとSNSを共有している。そこで行きついた現実は、私は自分が書くことには興味があるが、別に他人のSNS記事には興味がないのである。知り合いならなおの事、お茶だの食事だのした方が遥かに楽しい。やってみて分かったことが、現実の計画なら立てても、SNSで情報を共有したい気持ちが全くなかったのである。

おまけに夜は寝たい。
私は自分の知り合いには21:00を過ぎたら返信もしない。
本体の電源も切っている。
もちろん、電話にも出ない。家族であっても出ない。
家族には、「緊急時は電報をよこせ」と言っている。いつの時代だ。
じゃあ、21:00を過ぎたら岡崎かびは何をしているんだ、と聞かれたら、「書いている」と答える。
noteにも書いているが、オフラインでも書いている。日記も書いている。
そうやって自分のデータを見直しながら毎日生きている。
そう言う事が楽しい性分なので、苦にはならない。
そうして、「おっと、これは世界に公開だ!」と確信に至ったことをこっそりとnoteにupする。そういうやり方があっている。

平成が終わるとき、何かを辞めようと思った。
さて、何を辞めようかと思った時に真っ先に思いついたのが、SNSを辞める事だった。
本当に全て辞めた。
岡崎かびのTwitterアカウントはあるが、それは更新されることはない。
何故なら、張本人の私が書かないからだ。

そろそろSNSを辞めてみて一か月が経とうとしているが、大変気分が良い。
面倒なチェックもないし、通知もない。
外にいる時間は周りの物事に目配りする時間もたっぷりあるし、日記を書く量も増えた。スマホを見ている人を見ると、「あー、あの目線の下に岡崎かびのエッセイを読んでくれている人がいたら嬉しいなあ」と思いを馳せてしまう。
何よりも、会ってもいないのに会ったような気になって疎遠になっている人達を一括整理できたことが一番の収穫だ。
実はそんなに幅広い人間関係なんていらないのではないのか。
社会人の1時間は貴重だ。
自分ひとりだけの1時間は貴重だ。
知っているんだか知らないんだか分からない他人の言動に感情を使って疲弊しても同じ人生の一時なら、生身の人間と交流している方が遥かに楽しい。

そんな、アナログな原始時代に戻って、こうやってnoteを書くのだから、文章を書くという趣味は一生ものだと思う。
誰に依頼された訳でもないのに文章を書いてしまう人、作品を作ってしまう人にはnoteって良い場所だなと思う。
なので、令和はnoteを書きます。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。サポートいただくと、また一編のお話にアウトプットします。体験から書くタイプです。