あさりの死に際

あさり。二枚貝である。
ボンゴレに入っているあれである。
酒蒸しにすると美味しいあれである。
味噌汁にも定番のあれである。
私は、あのあさりが大好きなのだ。

私は、ときどきスーパーであさりを買う。
時々、と言うのは、調理に少々の手間がかかるからである。
さっと調理したい時に、あさりは向かない。肉の方が遥かに楽に調理できる。何と言っても、あさりは「砂抜き」をしなければいけない。あさりはあんなにポピュラーな貝なのに、下準備の必要な食材なのだ。

ちょっと暇があるとき、スーパーの鮮魚コーナーに行ってあさりを見つけると、「さて、調理するかな」と意気込むことになる。水に浸かっているパック包装もあれば、そのままトレイに入れられてラップでくるまれていたりもする。時間によっては半額になっていたりもする。
あさりであれば包装にはこだわらない。腹に入ってしまえば大体のものは同じである。

スーパーで買ったあさりを家に連れて帰り、まずは冷蔵庫へ入ってもらう。彼らも海辺からやってきて売られているのだから、少々疲れているであろう。一休みの時間を与えるのだ。そして、頃合いを見計らって、ボウルに水を張り、塩を一つまみ。疑似海水の出来上がりだ。そこにごそっとあさりを入れる。台所の電気を消して、暗い中でしばらく過ごしてもらう。私が他の部屋で別の事をしているうちに、あさりも束の間の一息である。
「おーい、気分はどうだい?」
忘れた頃に台所に行き、ボウルを見ると、管と足を伸ばして、すっかり寛いでいるあさりの姿がある。なんなら、貝が開いているものもいる。この管、二つあるらしいが、なんとなく目に見える。足は足らしいが、カタツムリのそれにも似ている。なにかこう、生命の躍動のようなものを地味に感じ取ることが出来る。
「さて、そろそろやろうかね」
おもむろに鍋を温める。今日は酒蒸しにしてやろう。簡単だけど、なんとも美味い。だんだんと鍋から湯気が立ち上がる。油を敷き、ザルにあげておいたあさりを投入!ぱっと酒をふり、鍋の蓋を被せる。
「来るのか、またあの瞬間が来るのか」
私はそう思う。
鍋がゴトゴトと音を立てる。蒸気に押されて、蓋も持ち上がって来る。立ち上って来る匂い、吹きあがって来る蒸気、まるで鍋の鼓動である。
「来た!」
思う間もなく、第一声が飛び込んでくる。
「パカッ!」
つい先ほどまで、疑似海水で寛いでいたあさりの死に際である。
その音はいかにも「ああ、もうだめです」、「熱いです」、「ここはどこですか?」、「なにが起きたんですか?」というあさりの混沌とした声のようなのだ。そこに続いて「パカパカパカパカ!」と次々、声があがる。
「ああー、ごめんなさい!」
別に誰に責められているわけでもないのに、誰かに謝りたい気分になる。何も悪いことをしているわけではないのに、なんとなく身悶えしてしまう。まるで、自分が鍋で煮られているかのような気分だ。ちょっとでもあさりに報いようと「なんまいだー、なんまいだー」なとど、仏教徒でもないのに両手を揃えて念仏を唱えてしまったりもする。なんとも居心地の悪い瞬間である。
「そろそろ良いかな」
蓋を開けると、広がる湯気と共に、ふんわりとした香りに包まれる。あさり、昇天。申し訳なかったよ、さっきは。

こうして、生き物から食べ物に変わったあさりは、椀に盛られる。青ネギなんか乗せちゃって、一品出来上がりである。
「いただきまーす!」
私は、こういう、あさりとの生き死にの会話を時たましながら、美味しく頂いているのである。また、あさりを買おう。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。サポートいただくと、また一編のお話にアウトプットします。体験から書くタイプです。