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かみぶくろの女たち

銀座の高層階のホテルの窓辺で、夜の街のイルミネーションを眺めながら湊八生(みなとやよい)はうっとりしていた。八生はシーツを引っ張って、身体に巻き付けながら、ソファーに座って、残っていたシャンパンを傾けた。足を組み替えたので、シーツの中にあったはずの八生の白い腿が露わになった。さっきまでその奥の中に僕、高田義孝(たかだよしたか)は居たのだった。八生の肌は陶器のようにすこしひんやりとして気持ちよく、僕と重ねあったところ全てが愛おしく、その最中はこの上ない多幸感に包まれていた。すこしだけ、その時を思い出して、また下半身に血の塊が落ちていくのを感じた。八生はさっきまでのベッドでの格好と同じく、身体には一糸まとわぬままであり、その頭には紙袋ほどの袋が被さっていて、目のところと、口のところに穴が開いていた。その隙間から見える瞳や、口元には今の彼女の年齢と同じぐらいの若さがにじみ出ていた。ときおり、器用にその開いた口元にグラスを運び、シャンパンを身体に流し込んでいた。それらすべての仕草を見ていて、やはり最愛の人だと思った。ただ、その頭の袋がガラスに反射していたので、僕の方からは銀座の街並みに白い四角い物体が、まるでクラゲのように漂っているようにも見えた。

「八生、何を見ているの?」
「え?うーん。向こうに東京タワーが見えて、ちょっと見惚れてたの。」
確かに、窓の傍までいけばビルの隙間から東京タワーがのぞけるかもしれない。
「そうか、こっちに戻って来ない?」
なるべく甘い声を出してみたが、八生はこっちを見て、少しはにかんだような(実際は表情は見えないのだが)顔をしてまた向こうを見てしまった。言外に、そばにいてほしいなら私のところへおいでと言っているような気もした。
「そういえば、その『かみぶくろ』、可愛いよね。新しくしたんだよね?」
女性たちは、みな『かみぶくろ』を被るようになった。化粧と美人という概念を手放したのだ、彼女らは。最初の『かみぶくろ』は美容のものだったという。もちろん自宅での使用がメインだったのだが、ある日、女子高生たちが、面倒だからとそのまま電車に乗り込むようになった。早朝のガラ空きの電車で横一列シートに3名の女子高生が『かみぶくろ』を被ったまま座っているところをインスタグラムに投稿したら、たちまち世界で話題になった。その後、徐々に通学での市民権を得始めたころに、世界的に有名な日本の電機メーカーが次世代機を出した。美容と快適とITデバイスを一つの機器で叶えてしまったのだ。それは次世代電子デバイスの誕生の瞬間でもあった。あたまからすっぽりかぶるということは、ウェアラブル機器としてUIデザインに優れていたのだ。以降、徐々に一般の女性にも波及し、だんだんと普段から付けるようになった。その後、フランスの女性誌でそれを被ったまま有名モデルがファッション誌に掲載されるようになり、さらにジェンダー運動に後押しされたりして、『かみぶくろ』はほとんどの女性の頭に常につけれるものへと変異していった。
「えへ、だよねー可愛い。S―504。買ってすぐに気に入ちゃった。」
八生は自分の『かみぶくろ』をなでた。白色の生地に斜めにディアスキンが施されている。ディアスキンは薄いピンク色に染められているので、遠目からも奇抜なデザインとすぐわかる。それに、フォトジェニックなものでもある。いくつかの流行ラインがあるのだが、基本はかわいい系、かっこいい系、かなり奇天烈系かになると思う。八生がつけているS-504は可愛い系と言えるだろう。
「あー、さっきは汗かいたから、除湿と保湿を同時にしてくれてる。ほんとこの子頭いいな。」
頭いいなというのは、どうにも聞いている側はしっくりこなかったが、つけている本人がそう言うのだからそうなのだろう。つけているだけで美顔になるらしい。肌もつやつやになるとのことだが、その成果を見る男はいない。
「ねえ、面白いよ。こないだ入れたアプリで、今日のカロリー出るんだけど、義くん頑張ったね、100kcalだって」
そう言って、八生はコロコロと笑った。ふと、不思議なことだなと僕は思った。彼女らはきっと美人というものを捨てたんだと思っていたのに、いまだにその艶めかしい身躯は僕らを魅了するし、そのうえ、やはり美顔は気にするのだ。ただ、ある意味本当のジェンダーレスに近づいたかもしれない。『かみぶくろ』を着用するようになって、周囲からの目線を気にしないようになり、美人と美人じゃないが判別がつかなくなり、非常に優秀な人は優秀だと純粋に判断されるようになった。世界的にも女性の地位が低かった日本だったが、みるみると回復し、非常に平等な社会に成り代わった。あまりの変わり方に、世界は驚愕した。また内需は一気に高まり、年収も女性男性に限らないようになったおかげで、すべてのパイが広がったといえる。実際八生は部長代理で、僕はまだ課長だ。彼女の方が年収も数百万高い。だからと言って恋愛にそれが影響するわけではない。男性が持っていた変な自尊心がへし折られて、つまり女性より収入が高くないと男性らしくないというのはなくなった。純粋に一緒にいることが出来る人、そして、セックスの相性がいいことが求められる。これは不思議なのだが、比較的不細工と言われていた男性にも女性が交際を求めるようになった。顔面による差別は男性にもなぜかなくなったのだ。清潔感があれば、普通にどんな女性とも話をできるし、付き合うことが出来るようになった。まあ、おかげで女性アイドル、男性アイドルは廃業に追い込まれたが。人が人の中身だけで判断されるような世界へと、『かみぶくろ』を被った女性たちによってどんどんと改革されていったのだった。
「ねえ、八生。こっちへおいでよ。」僕がもう一度そう言うと、今度は八生はシーツをつかまずに、こちらに来てくれた。乳房があらわになり、鬱蒼とした彼女の陰部はうっすら光っているように見えた。ゆるりと近づき、僕のあごに人差し指をあて、唇を重ね合わせた。僕は彼女の手を引き、ベットへ呼び込み、二度目の情事にふけたのだ。『かみぶくろ』を被った八生は官能的に高くて可愛い声を何度も発してくれた。その間も無表情な『かみぶくろ』は上下した。

★★

ホテルで熱いシャワーを浴びてまだ眠気の残る頭を起こした。八生より僕の方が出社時間が早いので、素早く背広に着替えた。八生はまだ寝ころんでいて、ガウンを着たままゴロゴロとしていた。可愛いかったので、『かみぶくろ』を撫でて、そこに口づけをして、でかける合図とした。まだもう少し一緒にまどろんでいたかった。

電車は比較的空いている。職場が自宅近くになる人が増えたからだ。数年前からカフェがあらゆる企業と提携しシェアオフィスを始めた。確かアメリカの有名なコーヒー店が最初に行い、似たようなサービスの会社がこぞってそれに参加することになったような気がする。カフェではドリップコーヒーであれば無料で利用できるが、毎回社員証をかざすことになる。その社員証には電子マネーのロジックが組まれており、企業があとで使用料と一緒に重量費を払うことになっている。そんな快適な空間で、しかも家の近くであるのであれば、わざわざ遠くのオフィスに行く人は自然と減っていくことになった。確かこのアイディアは国が進めたのだが、その政治家も女性だったと思うし、それを快諾した大手企業の社長たちも半分ぐらいが女性だったと思う。日本の女性は進めるのが早いうえに、超派閥が軽々と行われる。やりたいことに皆が素直になったのだ。コミュニケーションが早くなり、敬語が減ったと思う。正しい礼儀ではなく、正しいことに焦点が置かれていったのだと。その女性の政治家は「地球のどんなところにいても、私たちは繋がっていられるのです。そして、もちろん月に行っていたとしてもね。その一歩がこういう身近なところからの解放だと思います。」と高らかに謳っていた。これにより職場の概念が擦り減り、会議もいまや、VRでしたり自宅やシェアオフィスですることがほとんどだ。そういえば、女性の『かみぶくろ』はVR空間にもなるらしい。便利なものだと思うのだが、こればかりは僕が着けることには憚れる。もはや女性のアイデンティのひとつなのだ。
「もしもし、うん今、電車で向かっているところよ」迎えに座っていた女性が話し始めた。女性はスマートフォンから解放されている。ほとんどのことは『かみぶくろ』で代替できる。肩こりが減ったと会社の同僚が言っていた。「うん、じゃそのまま会議室に切り替えて。あちょっと待ってマナーモードにするから」そう言うと彼女の声は聞こえなくなった。

★★

改札を抜けて駅前に出たら乾いた青空が広がっていた。肌を刺すような冬の風と、からからと揺れる枯葉の木。それら以外特に何もない郊外の駅だった。平日は利用客が少なく、うすさびれた商店街が目の前に黒い大きな口を開けて待っているようにみえた。商店街はところどころシャッターが閉まっていて、すでに数か月も過ぎたキャンペーンの飾りが電柱に張り出されていた。閉店セールをここ数年している靴屋が、ビジネスシューズを地べたに並べ、奥では店員が煙草をふかしている。商店街のアーチ型の天井はところどころビニールがはがれていたし、埃と周りの排ガスのせいか、黒い砂のような汚れで元の色味が分からなくなっていた。僕はこの商店街を抜けた先の角にある西村病院へ向かっている。僕の仕事は零細企業を顧客にした会計システムの営業である。先日、後輩の山下が西村病院に新システム導入をしたのだが、決定的な要件確認の間違いのため、システムがうまく作動しなくなった。数日がかりで、エンジニアと一緒に仕組みを組みなおしてようやく病院でうまく稼働した。そのため、今日は稼働後の様子お伺いと、クレームの対応のため顔を見せに行く。

西村病院は内科と心療内科を複合した病院である。医院長の西村先生は内科で、心療内科は近くの先生が出張で週に3回で来ているスケジュールだ。西村病院は茶色のタイル仕立ての二階建ての建物で、病院は一階になっており、住居スペースが二階にある。歴史のある病院らしく、西村先生は三代目とのことだ。西村先生の祖父が開院して、今の西村先生があとを継いだそうだ。その割に稼ぎが悪いのか、外装は随分と手入れをされていない。西村病院の看板は小さく白いプラスチックの箱で掲げられているが、中の電飾は二つとも外されている。保守をするほどの余裕がないのかもしれない。あるいは別の意味があるのかもしれないが。
「おはようございます。S社の高田です。」呼び鈴を鳴らし、家主に問いかけた。まだ病院を開ける前の時間にお邪魔した。開院前の方が西村先生も助かるとのことだ。「どうぞ」と電子マイク音から西村先生の声が聞こえ、目の前の扉のロックが外れる音が聞こえた。
中に入ると、電気は消えていて、レースのカーテン越しの陽光だけが部屋の中を照らしていた為、周囲は薄暗かった。待合室は誰も座っていない壁際の茶色いビニールのベンチと、空白の受付と、人が居なくても動くインフルエンザ予防のポスターだけであったため人気がより一層無く感じられた。僕はそのまま進み、スタッフ用の扉を開けて裏にある2階につながる階段を上った。階上にある、昔ながらの蛍光灯の線がブラブラと揺れていた。
「おはようございます。西村先生、お時間いただきありがとうございます。」今日が実際に会うのは初めての顔合わせでもあったので、僕は西村先生の性別を知らずに来ていた。「かまわないよ」と『かみぶくろ』越しに彼女は言った。実際に足を運ぶようなことはほとんど減ったこともあり、こういうことがよくある。それにしても、西村先生は異様な姿である。まずだいぶ恰幅がいい、いや太っていると言うべきだ。女性の殆どが、サプリメントや食生活、適度な運動を『かみぶくろ』にコントロールさせて痩せることができる今の時代に、ここまで太っている人は珍しい。さらに、頭に着けている『かみぶくろ』が、茶色いクラフト用紙の本当の紙袋に見えるのだ。そこに目と、口のところだけを繰りぬいている。文字どおりの紙袋を被る人にしかみえない。まあ、だからと言ってこういう型式のものも流通しているのかもしれないし、不思議な趣味なのかもしれない。ただそのせいで、見慣れた『かみぶくろ』姿の女性には見えなくなっていた。
「さあ、そこに座りなさい。今コーヒーを淹れてあげるから。」
「いえ、お構いなしに。それよりもご迷惑をおかけしたこと、大変申し訳ございませんでした。こちら、気持ちばかりではございますがお口に合えばと思いお持ちいたしました。」
「ほう、君、高田君か。いいね。この時代に白鷺宝(はくろほう)なんて。久しく食べていないよ、こういうものは。でも差し出す女性によってはこういう甘いものは怒られるよ。」
「すみません。」
そう言って、西村先生は「お茶の方がいいか、どっか奥にあったかな」とつぶやきながら、奥のキッチンへ向かっていった。僕は少し恐縮しながら、ソファーに腰を下ろし、ジャケットを置かせてもらった。非常に質のいいソファーで座り心地がよかったが、年季の入ったものでところどころの皮がすこし剥げていた。テーブルはめずらしい座卓のようなサイズで、無垢の一枚板のテーブルだった。その上に紙で印刷された資料が雑多と積み重ねられていた。それらの資料にはボールペンのメモがあらゆるところに書き記されていた。部屋全体が雑多としているが、それぞれどこにものがあるかのを把握しているような置き方にも見えた。
「先生、その後問題なく稼働しておりますでしょうか?」待っていて、あまりじろじろと家の中を見るのも悪いと思い、先生に今の状況を尋ねた。「ああ、うごいているよ。しっかりとね。」とお茶を淹れて戻ってきながら西村先生は言った。テーブルの上の資料を、片手でぐぐっと端へ寄せて、目の前にお茶を置いてくれた。「こんなにあっても食べきれないからね」と白鷺宝も一つくれた。
「美味しいねえ。それにしても、わざわざこんな辺境まで来なくていいのに。まじめだねえ。」
「いや、西村先生にとってもご相談しやすいかと思いました。やはり、いろいろと稼働してみると出てくる質問等もありますから。実地でご説明したほうが分かりやすいと思いまして。」
「ふーん。ま、じゃあさ、聞きたいことをリスト化しているから見てもらっていい?」と言い、西村先生は手書きのメモのリストをくれた。字は汚いが、質問の要点はかなりまとまっている。非常に頭の柔らかい人なんだなという印象を持った。持ってきたPCで先生のクライアントサーバーにアクセスして、実地で操作の説明をしたら、丁寧に質問とメモを繰り返した。こうやって、年齢を重ねても自分の頭で整理をする人なのだと思った。
「あとは、弊社でもチャット式の質問のページをご用意しております。QRコードさえかざしていただければ、お使いのコミュニケーションツールのどれでも対応したアシスタントが立ち上がりますので、24時間お使いください。」
「あー、はいはい。分かった。でも苦手なんだよ。あの手のチャットのものは。」
見たところアプリ全般に弱い人でもないのに、苦手ということはあまり考えにくいと思っていたら、西村先生は続けて言った。
「ほら、こっちの癖が学習されてしまうしね。あんまり気持ちのいいことではないよ。」
AIの学習機能のことだろうか?当社の個人情報ポリシーは学習内容を商用利用しないと明記していたはずだ。
「いえ、大丈夫です。うちでは、」とマニュアル通りの回答をしようとしたら、西村先生が顔を近づけて(いや正確には紙袋を近づけて)目の前で小さな声で言った。口の周りの紙袋がお茶で濡れて色が変わっていた。
「高田君、知らないことは簡単に思い込まないことだね。君の会社が経営者によってコントロールされているとは限らないわけだからね。」
そのあと座りなおして、音をたてながらお茶をすすった。どういうことだろうか、と不思議がっていると
「株がトークン化され情報の精度と速さが上がった今や、信託会社のほとんどはAIがコントロールしている。ネットワークのAIが完成したいまでは、『判断』という機能さえも人間より高い確率でベストを出せるようになった。つまり、経営にその範囲が及んでいないとは言い切れないわけだよ、高田君。普通に生きてる限りはその恩恵を受けることが出来るが、そうでない生き方を選んだ場合は、『そういう』ものに敏感になるのさ。」
と僕の顔を読み取って解説をつけてくれた。それでも西村先生が言っていることがにわかには信じられなかった。
すると、電話が鳴り、スマートフォンで西村先生は応えた。『かみぶくろ』に電話の機能が付いていないのだろう。
付いていないだって。どういうことだろう。いくら古き良き時代の雰囲気を醸すために紙袋に似せたとしても、電子デバイスとしての機能は付けるべきだ。ということは、西村先生が被っている『かみぶくろ』は本当の紙袋ということになる。彼女はなぜ、そんなものを被っているのだ。電話を切り終えた、西村先生は不敵に微笑んだ(と思われる)。
「高田君、理解すべきことと、そうでないものを分けなさい。今目の前にいる、私は君が“理解すべき”ことではないし、さっき話したことも“理解すべき”ではないんだよ。」
奥のキッチンの戸棚は先生が閉め忘れていたせいで、少し隙間が開いていた。
「先生は、なぜそんなものを被っているのですか?」
その隙間からは、クラフト用紙の紙袋が折りたたまれて積み重なっているのが見えた。それは、業者が仕入れている量だった。
「その質問は答えられない。なぜなら、君が聞こうと思っている前提がおかしいからね。“先生はなぜそんなものを被らねばならないのですか?”ならば答えることもできるだろうね。」
そう言って、僕の飲みかけの湯飲みを下げてしまった。
「さあ、ソフトは順調に動いているし、私は怒っていない。会社に戻って、いつもの日常に帰りなさい。生活なんてのは別になにもかも知っておかなければならないとは限らないのだから。」
僕は追い出されるようにその場を立ち、西村病院から駅へ戻ることになった。外に出て振り返って見た西村病院に、古びていると当初思った印象とは別のものを感じた。彼女は時間の針を一人で止めているのかもしれない。あの昔の映画に出てくるスーパーの茶色いクラフト用紙の紙袋を被って。

◆◆◆◆
会社に戻って、デスクに着いた。オフィスフロアーを見回すと人はまばらでそこかしこでVRや『かみぶくろ』で商談や打ち合わせをしていた。オフィスの窓は大きく広げられ、外光が入ってきて気持ちがいい。オフィスで後輩の山下と今日の共有をしていたら、「高田課長」と奥の部長が僕を呼んだ。
部長の部屋はガラスで囲まれていて、入ると一瞬でガラスが不透明になって、外からの可視性を遮った。部長が操作しているわけでもなく、僕が中に入ると勝手になるらしい。
「どうだった、納入先のクライアントは?満足してくれた?」と僕にデスクの前の椅子をすすめながら部長が聞いてきた。「はい、多分問題ないですよ」と答えたら、すぐに話を変えて、僕らのチームの今期の見込み数字や、残りのリソースをどれくらいどの地域に割くべきかを議論した。部長は非常に頭の回転の速い方で、はた目から見ても優秀と言える。「今日行ったあの辺は実はいくつかのクライアント候補があるな。山下だっけ?いいところに足をのばしたな、これを皮切りに周辺をあたってもらおうよ。あと高田課長もさ、このへん頼むよ。残りの月で多分半分当たれば目標は超えると思うよ。」地図のアプリと営業成績をリンクさせた画面を見ながら部長と議論した。月に数度はこのようにチームごとの状況をみて部長から指示や教示がでる。谷中愛美(やなかまなみ)、それが部長の名前だ。彼女は32歳で僕より4つ上である。彼女はほかの会社で既にキャリアを積んだ後にやってきた。この会社では4年目である。営業職というのは商材の勉強をこなせば、あとはどんな会社でも行うことは一緒である。また営業の戦略も似ているのが常である。部長は戦略を立てチームをどのように動かすかということが職務であるので、別に一つの会社で経験を積む必要がないのだ。労働市場は流動的になり、かなり人が行き来するようになった。前職の成績はクラウドに貯まっていき、また顧客のフィードバックも記載され採用や人事、昇給や給与に利用される。透明な社会になったのだ、ともいえるし、監視される目が増えたような気もするとも言える。
谷中愛美は少し身長の小さい女性で、すこしだけ猫背である。声音はちょっと高いが、しっかりと芯をもった発話が多くて、聞き取りやすい。上司としても人間としてもとてもサバサバしていて、接しやすい。誰にも同じように接しているのでとても公平に感じられる。彼女はよくチームを鼓舞するし、叱責もする。対応策を冷静に話してくれるし、事後の処理も早い。本部とのいいパイプにもなるし、ダメなときはしっかりと主張もする。彼女が赴任してから、売り上げも着実に伸びている。
「そういえば、西村先生お元気だった?」と谷中部長は一通りの話を終えて一息ついたときに急にモードが切り替わったように尋ねてきた。さっきクライアントと呼んでいたのに、距離感が近いなと感じた。
「谷中部長のお知合の方だったんですか?」
「あ、うん。ちょっとね。西村先生には私がコミュニティの時によく診断してもらったからさ。私、出身があの辺なんだよね。元気だったかなって。」
「へえ。谷中部長はあの辺の出身なんですね。先生はお元気でしたよ。それにすごくあたまのいい人だと思いましたし、非常に好感を持てる人でした。あ、でも変な人というか、紙袋のせいかもしれませんが。」
「へえ、『かみぶくろ』のせい?」
「あ、いや、所謂『かみぶくろ』じゃなくて、昔の映画にでてくる、本当にペーパーでできた紙袋を被っているんですよ。それに、“理解すべきではないこと”として自分を定義づけていて、なんだか奇妙というか、不安感を覚えてしまいました。」
「ふーん、やっぱり、あのままの西村先生か。まだ、抵抗してるんだ。」とつぶやいた。抵抗という言葉に引っ掛かりを感じたのだが、谷中部長はすぐに仕事の話に戻し、僕をけむに巻いてしまった。そのあと谷中部長がこの話に触れることはなかった。まるで鉄でできたようなカーテンを閉められたように感じたし、僕がこれ以上入り込むことを毅然として拒否していた。
「じゃあ、クライアントのフォローをよろしくね。」
そう言って、彼女はノートPCを立ち上げた。会社の貸与PCではない方の。

◆◆◆◆

「はい!みんなあっちに向かってダッシュね。誰が一番かな?」
「わー僕が一番だぞ!」
「あたしが一番!!になるもん」
何人かの大人に、複数のこどもたちが居た。こどもたちはすべて裸である。『かみぶくろ』はない。しろい、しろい、おおきな箱の中に、起伏がいくつかあり、砂のように足をとられる場所がある。一斉に駆け出す子供たち。この明るい箱には光源がどこにあるのかわからない。外の世界から閉じられており、窓は一切ない。はだしの子供たちが駆け出して一番を目指した。何もない世界に赤い点が宙に浮き、子供たちはそれを目指していた。大人たちはみな『かみぶくろ』を着用していた。皆、同じような声音で、それは母性にあふれていた。全ての子供たちに同じような愛情が音となって降り注いでいた。この部屋は愛であふれている。
僕らは生まれたらすぐに親元を離れる。全ての人が同じである。
義務教育ではなく、義務保育となったったのだ。生後1か月よりコミュニティに預けられる。コミュニティではあらゆるプロフェッショナルがいる。保育、教育、栄養学。いったん生まれれば、子供は国家の管理下に置かれる。平等にすべての人間の能力を自由に国家で使うためには、人間から母という機能を分離する必要性がでてきたのだ。だから、家族ということをもう少し大きな範囲にして自由度を持つ必要がでてきた。愛情は共有化され、分散された。義務保育は中学3年まで続き、その後、親と一緒に過ごすかそのコミュニティで働くかを選べる。親は足繁く通わないと子供に見放されてしまい、戻ってきてはくれない。ただ情操教育もしっかりしてくれるので家族の概念は非常に豊かである。小学生までは『かみぶくろ』は着用せずにいる。だが、中学生以降は女性と男性は別々になるため、そのあとのことは実はどんな教育課程なのかわからない。
僕はコミュニティの時代の沢井優樹菜(さわいゆきな)という女の子が印象に残っている。僕と彼女は運動神経の数値が高く、彼女とよく競っていた。足の速さは変わらないほどであった。障害物がはいるときは彼女の機敏性が有利になり、力の数値が入るものは僕がすこしだけ有利になった。沢井優樹菜は足が長く、すらっとしていた。筋肉の筋が非常にほそく、俊敏性に優れた筋肉だと褒めらていた。僕らはよく食べ、良く話し、良く動いた。それこそ、人の何倍も動いた。コミュニティが形成される大きな運動場は白い箱上になっている。ただし、起伏や、その素材は自在に変えられる。その日は選抜運動プログラムで砂漠のような状況にされた。気温湿度、風景、地面の素材すべてが砂漠になっていた。僕と優樹菜以外はすべて上級生だったので、かなり厳しいモードでの運動プログラムだったと言える。箱自体の大きさは変わらないはずなのに、360°すべて風景に置き換えられたことにより、心理的にも厳しく感じた。ポイントは全部で15か所あり、そのポイントを直線距離に置くと約30㎞あった。ポイントを取るごとに風景が変わるので、本当に地球上の実地距離を歩いている気がする。太陽が昇り完全に天井にあるとき(映像の太陽なのだが)、口を閉じていないと暑さにのどが焼けるようであった。水分は水筒一本である。太陽の位置と時間で方角を見定めて、自分の位置と次のポイントの位置を把握しないとたちまち遭難する。ぼくは26個目のポイントで遭難した。水筒の水は随分前に無くなってしまい、身体の水分という水分がすべてでてしまったようだった。方角を見定めて動こうにも目の前が揺れ始め、視界が急に白くなったと思ったら、そのまま倒れてしまった。すぐにコミュニティの大人たちが僕を助けてくれた。このポイントをすべて突破したのは上級生の2名と優樹菜だけだった。当時彼女と僕は10歳だった。
「おつかれ。もうちょっとだったのにね。」
「ありがとう、優樹菜は全部クリアしたって?すごいじゃないか。」
僕の寝ている寝室に彼女が来て、ベッドに腰かけながら話をした。僕はというとまだ横になっているようにと、安静を指示されていた。
「当然よ、こんなのお遊びよ。世界はこんな簡単じゃない。」
「どういうこと?僕は随分と苦しんだよ?」
「でも、誰かが助けてくれたでしょう?つまりそういうことよ。」
「あたりまえじゃないか、死ぬほどのことをすべきではないよ?」
「別にそういうことを言ってるわけじゃないのよ。『常に誰かが』見守っているなんて、世界はそんなものじゃないと思うのよ。それって世界とは言えないわ。昔の小説にある、あらゆる世界ってそんなものだった?問いかけてごらんよ、自分に。ただ、私はそう思うだけよ。」
「でもこの安心感が、無理をできる理由じゃないの?」
「いいえ、私は違うの。その安心感よりも、危機感が私を前に進めてくれたわ。、だから。いいえ、いいわ。」
そうして、優樹菜は僕の額に左手を置いた。昔、かけっこをしていたときに、滑って転んだ優樹菜の手の甲を僕が思いっきり踏んでしまったことがある。そのとき、彼女の手の甲の骨は折れてしまった。すっかり治っているが、その時の手術の痕が少し残っている。彼女の左手は僕にとって重要なものに感じた。その手術痕を見るたびに、身体の奥が重くなる。それを僕の額に乗せられると、なんだか落ち着いた。彼女は僕にそれ以上を考えないでほしいみたいに、ほんの少し泣きそうな表情で僕を見つめていた。その肉声は、耳の奥であったかい蝋燭のようにゆらゆらと揺れた。

そのあと、彼女とは会っていない。ずっと。

夕方のニュースを見るまでは。

◆◆◆◆

「本日、渋谷のセンター街で『かみぶくろ』を被らない女性が現れ、警察に“保護”されました。名前は沢井優樹菜さん28歳。非常に衰弱しているように見えたのですぐに“保護”されました。現在渋谷警察署にいるそうです。」
ニュースというのはいつも聞き流す程度なのに、知っている人の名前が入ると急に現実味が肌に伝わり、それは恐ろしいものに変貌した。センター街の上空カメラが交差点の中央にいる沢井優樹菜を映していた。沢井優樹菜は艶やかで真っ赤なワンピースをまとい、入念に手入れされた長い髪の毛がストレートに伸びて腰近くで揺れていた。高いヒールをはいて、鍛え抜かれたあの綺麗な脚を前進させていった。彼女のそれはさながらランウェイを歩くモデルのように、見えない、聞こえない称賛を浴びているようにさえ僕には見えた。しかし、周りの人はあまりにも見慣れない異様な状況のせいで、モーゼの翳した手に促された葦の海のように人波が割れていった。人の異形にたいする恐怖や不安によって表現されたそのキャットウォークをまっすぐと彼女は歩いていき、そのまま渋谷駅に入ろうとしたところで、警察に“保護”されて、かみぶくろを頭から被らさせられていた。ニュースでは彼女の顔にモザイクが掛けられていた。
「あら、かわいそうに、きっと疲れていたんだね。」
ニュースに見入っていた僕の肩を突然谷中部長が叩きながらそう言った。疲れていたのだと。何に?だ。何も事情を知らないはずの谷中部長はそう言った。彼女のことを知る由もないのに分かったような言葉に子供みたいに反発心が沸々と沸き上がった。
「高田課長も今日はもう良いよ。明日また頑張って。」
眼だけが繰りぬかれた『かみぶくろ』はまるで僕の攻撃色を察知したかのように僕の言葉を制し、僕の思考に蓋を閉めた。まるでこれ以上の言葉や思考をしてほしくないように、もっと言うとこのオフィスから追い出すように。
「でも、良いわ、気にしないで。ね。」
谷中愛美は声音は急に変わり、僕に言葉を発した。それはさっきの『かみぶくろ』の声ではなく、多分僕に向けられた、僅かな優しさであったのだろう。彼女のそのような甘ったるい声は聴いたことがなかったし、その声が僕を包み込んだ。僕はそれ以上の考えを持てなくなっていた。僕は無言で彼女に頭を下げて、帰り支度をした。
電車に乗って渋谷の警察署に行こうか迷っていたら、次のニュースがタイムラインに流れてきて、沢井優樹菜はそのまま都内の病院に搬送されたと記載されていた。もう、僕に彼女を見つけるのは困難だ。都内の病院はいくつもあるし、警察が個人情報を渡してくれるわけがない。それに、病院を出るころには『かみぶくろ』を被っているだろうから、彼女を特定するすべは、普段から一緒にいる人以外にできない。親交があったわけでもない、彼女を僕はこの都会の中で完全に見失ってしまった。
電車の窓に写る僕の顔は、年齢通りの顔であった。疲れているようにも見えたし、若々しくも見えた。顔に悲しさが写っているように思えたし、不安を覚えているような気もしたし、だから、無理やり笑顔を作ろうとしたら、それができなかった。すると、目の前の座っていた女性が、僕に席を譲ってくれた。お礼を言ったら、彼女は「お気になさらずに」と、谷中部長のようにそう言った。
「次は渋谷」と車内アナウンスが流れ、僕には何もできることがないと分かっていたくせに降りてしまった。彼女がここにいるわけじゃない。渋谷のハチ公前では雑多とした群集の『かみぶくろ』がそこかしこにあった。いくつもの『かみぶくろ』たちで話していたり、大学生や社会人一年目ぐらいの『かみぶくろ』たちが集まっている場所もある。多分高校生ぐらいの『かみぶくろ』もいたし、制服を着てダンスの練習のようなものをしていた。群集の頭の半分が白やら赤やらピンクやらの『かみぶくろ』で、それがゆらゆらと揺れていた。蛍光のネオンが店の販売促進のために光り輝いていた。逆光のように見える人の姿に、うっすら光る『かみぶくろ』たち。電子的なそれらは、ただの暗闇に溶けるようなことはしなく、それぞれがしっかりと自己主張をしているように見えた。僕がその場で見た女性たちはだれもが笑っているような気もしたし、だれも笑っていないような気もした。彼女たちの声は聞こえない。無音ではないのに、どれがどの女の人の声か僕には聞き分けることが出来ない。口もとが隠れ、目線のみが浮かんでいるのだ。誰が誰かなんて知らない人には特定などできない。この中に、ひとり沢井優樹菜は『かみぶくろ』を着用せずに歩いたのだ。それは異様だったのだろうか。彼女の目線はいったい何をみていたのだろうか?沢井優樹菜のことだ、きっと前のみを見ていたのだろう。そして、すこし泣いているような顔をしていたのだろう。そのことを想像していたら、自分の身体の奥に重いものを感じた。彼女の顔を想像するために小学校のころの記憶をさぐったが、もやがかかり彼女の顔が思い出せなかった。ただ、額に置かれた左手の温もりだけは思い出せた。そうして、僕は交差点の真ん中で前に進めなくなった。赤信号で人と『かみぶくろ』が散れ渡り、僕がひとり交差点の真ん中で止まっていたら、車のクラクションで怒られて、しらない若い男の人に引っ張られて反対側の交通の岸に連れて行ってくれた。彼女はここに何をしに来たのだろう。

◆◆◆◆

沢井優樹菜が保護されてから僕はしばらく会社を休むことにした。なんだか、力が出ない日々が続き、谷中部長が気遣って休みを勧めてくれた。あの日以来、谷中部長は時折僕に話しかけてくれていた。優しさにも感じられたし、監視にも感じられた。休みを取ることにしたと八生に伝えたら「それはいいことね。今のあなたには休みが必要よ。私は休みを合わせられないからどこか一人で遠くに出かけることもいいんじゃないの?」と言った。彼女に沢井優樹菜のことは伝えていない。「まるで会社の上司のようだ。」と僕が少し感傷的に言ったら「あ、ごめん。モードが切り替わってなかったみたい。うん。休んだ方がいいと思うよ。」と八生が慌てて言った。
彼女ら二人はまるで“おなじ”であるかのように、僕に慈愛を持って接してくれた。
鞄をひとつ背負って僕は南の和歌山に出かけることにした。飛行機に乗って関西空港について、その足でそのまま電車の特急くろしおに乗って和歌山市駅を目指した。和歌山に行きたくなった理由は無く、なぜそこへ向かったのか僕にはわからなかった。きっと自分の血縁者の誰かが和歌山の出身だったのかもしれない。
駅を降り立つと、背の低い建物だらけで、ミニチュアの世界に着いたのかと思った。東京がいかにも都会的に建物を狭い範囲で上に上に伸ばしていくしかないことが分かった。上に空いた空間は贅沢にすべて空になっていた。そのまま僕は市営バスに乗り、田ノ浦漁港を目指した。海に行きたかったから、目の付くバスの行き先に漁港とついているところを探しただけの目的地だった。バスに乗ると女子高生たちや、女性たちは『かみぶくろ』を被っていたが、年老いた人はみな『かみぶくろ』を着用していなかった。バスの一番後ろの席に座っていたが、バスに揺られているのは『かみぶくろ』8個に、頭髪が白い頭が2つであった。みな同じようにバスの揺れに合わせて揺れていた。街中の景色が後ろへ後ろへと流れていった。昼間の日差しがこの町に降り注いでいるのに、どうしてもすべての色味が色あせるような景色であった。あらゆるものが時間と一緒に劣化していき、新しいものを作り出す力が無いのであろう。だから、太陽の力は生命へとは変換されずに、どんどんと風化への後押しになっていったのだ。次第に建物も減り、磯の香りがしてきた。バスは河川から海へと向かい、うねうねと岬の道を上り始めた。

田ノ浦の漁港には何もない。観光客が求めるものがだ。だから、漁港の時間が終わる午後から夜までは何一つ人が動いていないような気がする。時折、僕のようなバスから降りてくる人がいるか、数人の若者たちが自転車ではしゃぎながらくるかぐらいの人気であった。
港の先のテトラポットのふ頭の向こうまで歩くと、数人が釣りをしていた。海の上をかもめが飛翔し、海水の中の見えないいわしを狙っていたのと同様に、そこのひとびとも釣り竿を投げ入れて、いわしがえさを咥えるのを待っていた。僕は釣り竿と同じようにヘリに座った。海は暗くて綺麗とは言い難く、太陽は雲の中へ消えてしまい、反射する水面などなく淀んだ水と人間が捨てたごみが浮遊していた。丁度自分から見える海の端のたまり場に数個の捨てられた『かみぶくろ』が波にゆられていた。目があるはずの黒い穴が空をみたり、海の中をのぞき込んだり、そのうちの一つが僕の方を見ていた。見られていると、僕は思った。いや、そんなはずはないのはわかるのだが、どうしても、どうしても。胴体のない海に浮いた、ただの『かみぶくろ』のはずなのに、僕はどうしようもなく“みられている”と感じた。胴体のない『かみぶくろ』は僕に問いかけける「なぜ沢井のことを諦めた?」「なぜ、聞こうとしなかった、彼女の本当の言葉を」「探すことが出来ないと言い訳だけを用意していたのだろう」「そうだ、分かっているはずだ、この時代本気で探そうと思えばいくらでも手が打てただろう」「何かを怖がったのだろう」「お前が」「お前が」「お前の」「お前の」「普段の生活を壊したくなくて」「彼女の声を聴くよりも大事にしたのだろう」「ただ、自分が大事だっただけだろう?」
僕はそのとき水のない海の底に潜ってしまっていた。

気づくと、海は凪いでいて、カモメは居なくなっていた。多分、海面下のいわしの群れは居なくなり、暗い海底にでも逃げたのだろう。釣り人はいつの間にかその場を離れており、釣り竿だけが虚空を刺していた。スマートフォンには着信が3件、ひとつは谷中部長、ひとつは八生、最後は西村先生だった。谷中部長と八生の着信はほぼ同時だった。僕は迷って西村先生に電話をかけた。
「やあ、すまないね、会社にかけたら休暇中と聞いたのだが、どうしてもシステムが動かないので確認したいことがあったのだよ。」
「いえ、構いません、そういうための携帯ですので。」
「便利なのかそうじゃないのか、わからない機械だな。あ、いや君のところシステムじゃないよ、携帯のことだ。そうだ、聞きたいというのはだな・・・」
それから10分ほど西村先生の質問を回答したら、無事にシステムは起動しなおした。
「ありがとう、助かったよ。すまないな、チャットで聞けばわかる範囲だったな。つい電話をしてしまう。すまないな。」
「あ、いえ、でもなんか助かりました。ちゃんと僕がしゃべれると分かりました。なんだか酷く落ち込んでいるみたいで、でもちょっと分からなくて。」
電話の向こうで、西村先生は頭をかいた。ガサゴソとあのクラフト用紙が音を鳴らしていた。
「ああ、そうだな、人間の心はそこまで簡単じゃない。だから落ち込んでも別に不思議じゃないんだよ。そのまま落ち込んでおけ、またこれが不思議でふっとしたころに元に戻っている。」
波がテトラポットに当たり、チャポチャポと少しだけ間抜けな音を出した。捨てられた『かみぶくろ』には電源が入っていない。
「先生、あの。先生はなぜ『かみぶくろ』を被らないのですか?」
「いくつかあるが、高田君に話せるとしたら、"私が医者だから"ということだ。私が人の身体を診る限りは、まだ人間である必要がある。そうじゃなきゃ、人の身体のことなどわからなくなってしまう。そういうことだ。」
「君に何があったか知らないが、君は君らしくあればいいよ。もしもこちら側に来ようというのなら、それはそれで苦しいことだ。いま苦しんでいること以上にね。正しいことがこの世にあるわけじゃない。あるのは命の営みだけだ。」
そう言って、西村先生は唐突に電話を切った。潮が少しだけ満ち始めていた。夕方を迎え始め、太陽が落ち込みそうであった。雲の向こうで光の玉が僕の目線でぼやけていた。ほほに風が当たり始めているのに気づいた。熱が動いているのだ。地熱と海熱の差が出始めている。地球は永劫のようにおなじことをずっとずっとずっと続けている。多分僕らが何かを失敗しない限り、永遠に。いや宇宙の大きな何かが起こるまで。でも人間は毎日、毎回、すこしずつ違うことをしようとしている。それを連綿とだが、しかしすごく急にでもあった。地球と人間の間には大きな海溝が横たわっていて、同じ大地にいるとは思えなかった。一瞬、風が僕を後ろから押した。

東京に帰る飛行機の中で時間が余っていたのでネットニュースを読んでいた。フィンランドの小さな街で数名の男性が陰茎を切り取る手術をしたそうだ。なんでも大人になれば不要であることに気づいたとのことだ。女性のジャーナリストが「性行為そのものがジェンダーを定義してしまっていたのかもしれません。このような事柄が男性からの"声で"・”行為”で示されたことは一つの大きな進歩かもしれません。実際、我々はジェンダーに限らず、卵子と精子さえあれば、子を営み、家族を共有できるわけです。であれば文化として進化として、そういう道もあり得るでしょう!」と謳っていた。
小さくない記事はそのまま上に流れていたが、いくつかのハートマークがリアルタイムで数字を伸ばし始めていた。僕は電源を落として目を閉じた。
帰京すると東京は今まで観測されことが無いくらいの濃霧に囲まれていた。背の高い建物がそれでもその霧の上から相も変わらず生えていた。地球の上ににょきにょきと生えていた。





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3/12 加筆

表紙 作も!さとねこと🌟3/1〜3/10国分寺マルイ@butanekoto
私募 かめ様文学賞 応募作品かめさま@やさぐれ読書日常垢@ksaikamone0120

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