「おっさんずラブ」に教わったこと

このドラマに教わったことは、数え切れないほど多くある。その中でも強く感じたのは“幸せは誰かが決めるものではない”ということ。だから、“幸せとはいろんな形があるのが当たり前なんだ”ということ。

このドラマは同性愛という形を取っているが、テーマはそこではなく“人が人を心から愛する”というところに尽きる。“性別の垣根を超えた”とかどうとか、そういうことを言うのも野暮ったく感じるくらい、ただただ相手のことが好き。このドラマに出てくる人物は、そういう人たちばかりだ。

とはいえ、やはりそこは男性同士なので、特有の問題も出てくる。

孫の顔が見たいと言う春田母の言葉を聞き、一方的に別れを告げてしまった牧。1年を経て春田から告白を受けても、「俺と居たら春田さんは幸せになれませんよ」と言ってしまう。
それに対して春田は「お前はいつもさ、そうやって勝手に決めんなよ!!」と言い放ち、「俺はお前と一緒にいたい。だから俺と結婚してください!!」とプロポーズ。
やっと正直になれた牧は「ただいま」と返事をし、春田も「おかえり」と言って強く抱きしめ、ハッピーエンドを迎える。

(ずっと、春田の元に戻りたかったんだね。素直になれてよかったね。)
そう思うと同時に、『ただいま』『おかえり』という日常のあたりまえな言葉が、磨けばこんなに輝く言葉だったのだということを知った。

牧は、好きだからこそ春田の幸せを思って別れるという選択をした。
“普通”に結婚して家庭を築くことが幸せなのだと思ったのだろうが、春田にとっては“牧とずっと一緒にいること”の方が幸せだったわけで。
やっぱり何が幸せかは本人にしか決められないことであり、大袈裟ではなく、人の数だけそれぞれの“幸せの形”があるのだ。

そして、春田に振られた黒澤部長、牧に振られた武川主任。

部長は、あのまま押し切って結婚しちゃう手だってあったはず。それ以前に、結婚式をむかえる前にキスやら何やらしてしまっても良かったはず。でもそれをしなかった。
武川主任だって、牧にも春田にも何も言わずに、春田が上海に旅立って弱ったところにつけこむこともできたはず。でもそれをしなかった。

二人は、“自分の愛する人”が“誰を愛しているのか”をよく知っていたから。だから、自分の幸せより、相手の幸せを選んだ。
“どっかのラブソングかよ”って言ってる本人がそうしちゃうのだから、凄すぎる。

相手の幸せを望むことは尊いことだけれど、それを自分の物差しで決めてはいけない。一緒に悩んで、痛みも喜びも悲しみも分かち合って、二人だけの幸せの形を作り上げて行って欲しい。

こうして書いてみると、わりとありふれた、綺麗事を並べているみたいになってしまった。現実はそんなに上手く行かないなんてことは、よくわかってる。
けど、心にもない綺麗事は言ってはいけないと思うけど、心から伝えたい綺麗事なら言ったって良いじゃない。
それこそ、他人の目を気にして誤魔化す必要なんてないんだと思う。

どんなに真心を込めても、それが伝わるか伝わらないかは、受け取る人次第。大事なのは、“どうせ伝わらないならいいや”って匙を投げてしまわないことだと思うから。

ここまでいろいろ語って来たけれど、結婚はおろか片想いすらもう何年もしていない私。
もちろん、一人には一人の幸せの形があるだろう。でも、それはあくまでも自分に正直に生きた結果ならOKという話だ。

私は、決して一人で生きていきたいと思っている訳じゃない。ただ、恋をすることを恐れているから、一人でも生きていけると強がっているだけだ。
このドラマが教えてくれたことを、歪曲させて言い訳に使うなんて、絶対に絶対にしちゃいけない。

さて、未来の私はどうなっているのだろう。想像もつかない。でもそれで良いし、それが正解だ。

ラストシーンの牧のように、とびきりの笑顔で笑っていられたらいいな。


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