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青木美希 『地図から消される街』 講談社現代新書、『いないことにされる私たち』 朝日新聞出版、『なぜ日本は原発を止められないのか?』 文春新書

正月に新潟柏崎のツレの実家に帰省していたとき、地震に遭った。何度も繰り返し揺れたが、柏崎での一番大きな揺れは震度5強(1月1日16:10)だった。程なく自治体の防災放送が街角の拡声器から流れてきた。当然、地震の状況や津波への警戒・避難を呼びかけるものだが、柏崎特有のものとして柏崎刈羽原発の状況説明がある。現時点で営業運転はしていないが、設備や施設に損傷があれば、場合によっては地震や津波以外の深刻な理由で避難しなければならない。今回の地震では、より震度が大きな地域に複数原発が立地しており、そちらも含め、今や地震と原発のリスクは切っても切れない。

柏崎からは予定通り2日に帰京したが、信越本線が地震で運休していたので、義弟が運転する車で長岡まで送ってもらった。途中、県道73号線から進行方向左手に柏崎刈羽原発が見えた。もちろん、発電所の建物は見えない。建屋を覆い隠すように設けられた土手に囲われているからだ。見えるのは、その土手から突き出している複数の煙突と避雷塔、土手の向こうから歌舞伎や能の蜘蛛の糸のように伸びる多数の高圧電線だ。柏崎刈羽は7基の原子炉を有する発電能力において世界最大規模の原発だ。この原発から県道の間は5-6kmほどだが、見渡す限り平地が広がっており、主に田圃になっている。福島のようなことがあればここはどうなるのだろう。

たまたま昨年末に標記の3冊を読んだ。著者は新聞社に勤務する記者職の人で、著作の刊行に際して勤務先から圧力を受けたという話を聞いた。その圧力を受けて勤務先等の情報を伏せて刊行したのが『なぜ日本は原発を止められないのか?』(2023年11月20日第1刷発行)だ。これには前段となる著作があり、それが『いないことにされる私たち』(2021年4月30日第1刷発行)と『地図から消される街』(2018年3月20日第1刷発行)だ。「圧力」に興味を覚えて読んでみたのだが、3冊いずれも驚くような内容ではなく、圧力云々は現役の与党議員の名前が複数登場する所為ではないかと感じた。

ただ、『なぜ日本は原発を止められないのか?』に「そういうことか」と思った箇所があった。東海村JCO臨界事故についての記述の中で被曝して亡くなった作業員の死体についての記述だ。

 大内さんは、高線量被曝による染色体破壊で新たな細胞が生成できない状態となってしまい、白血球が作れない状況に陥った。推定被曝線量は16-20シーベルトだった。全身被曝の致死量である7シーベルトの倍以上だ。その後、大内さんは呼吸不全や腎不全などを併発し、事故から83日目の1999年12月に死亡した。
 同病院に出入りする葬儀会社に勤めていた玉井昭彦さん(76)は、今でも当時のことが忘れられない。検死台は別棟にあり、玉井さんは大内さんの遺体を病棟から寝台車で運び、ストレッチャーに乗せ替え、検死台まで行った。ステンレス製の検死台に乗せる時は2人がかりで抱き上げなければ乗せられないほどの重さがあったが、解剖で臓器が取り除かれると、遺体は1人で抱えられるほどの軽さになっていた。
 霊安室で玉井さんは、血の滲む包帯に巻かれた遺体に仏衣を着せ、両指を合掌させた。大内さんの皮膚がポロポロ、ガサガサと剥がれ落ちた。

『なぜ日本は原発を止められないのか?』94頁

人間の身体は約37兆の細胞でできているという説があるが、誰も数えたわけではないので本当のところは不明なのだそうだ。莫大な数であることには違いがなく、それらの細胞の殆どが生成死滅のサイクルを繰り返し、成人であれば数年でほぼ全ての細胞が入れ替わるらしい。その生成は染色体が持つ設計図のようなものに拠って行われる。被曝によって染色体が破壊されると細胞の生成が行われなくなってしまう。つまり、死滅した細胞に置き換わるはずの新たな細胞が生成されず、身体は細胞が死滅する一方になってしまう。「ポロポロ、ガサガサと剥がれ落ち」るのは皮膚に限ったことではないということなのだ。今まで被曝すると具体的にどうなるのかというイメージを持っていなかったのだが、この箇所の記述を読んで腑に落ちた気がした。

原発のことに興味を持つきっかけになったのは、学生時代にゼミの仲間から「畑仕事を手伝って欲しい」と頼まれたことだ。なんとなく「畑仕事」に興味を覚えて、手の空いている時に手伝うようになった。その「畑」は農薬や化学肥料を使わずに作物を栽培することを主眼にしたもので、畑仕事の実施主体はエコロジー研究会(通称:エコ研)というサークルだった。

東京駅から東海道新幹線に乗ると、列車は間も無く多摩川を渡り最初のトンネルに入る。このトンネルの真上は慶應義塾体育会アメリカンフットボール部の練習グランドだ。そのグランドの周囲の笹藪の一画を開墾して畑にした。笹藪なので根が複雑に繁茂して開墾に難渋した。笹藪の周囲は木が茂っていて日当たりが悪く、農地としての条件は良好とは言い難かった。しかも、農作業は素人の片手間だ。何ができるのか推してしるべしだ。それでもジャガイモ、トマト、胡瓜、茄子などをわずかばかり収穫できた。葉物野菜は手入れが行き届かずうまくいかなかった。肥料は馬術部の厩舎から調達した。新幹線の高架の下の方に厩舎があり、リヤカーに馬糞を積んで急な坂を上がって畑の一画に設けた穴に埋め、適当に発酵させたものを肥料として畑で使った。エコ研の活動は有機農法による農作物の栽培とエネルギー問題の研究(反原発運動)だった。

当時は彼らがなぜ原発に反対するのか理解できなかった。尤も、彼らもそれほど深い考えがあって反原発を謳っていたわけではないようで、私の同期の卒業後の進路は日本IBM、NEC、西武百貨店、税理士といった穏当なものだった。卒業後も原発反対運動に関わっていた奴がいるという話は聞いたことがない。私も特に考えがあって彼らと付き合っていたわけではない。それでも、その畑仕事を通じて原発については多少の関心は払うようにはなった。

社会人になってからは、仕事以外でエネルギー問題に関心を払うことはないまま過ごしていたが、たまたま2001年9月に仕事で六ヶ所村の使用済核燃料再処理工場を見学し、そこから少しだけ関心が盛り返した。その2年前のJCO臨界事故では、当時の勤務先であった米系の投資会社の米国本社の動揺に驚かされた。「えーっ、そんなタイヘン?」とこちらが当惑するほどだった。そういう下地もあっての2001年9月の見学だった。2011年3月当時は別の米系の会社の日本法人に勤務していたが、日本国内発の情報よりも先に米本国や駐日米国大使館からの情報や退避案内が伝えられる状況に愕然とした。

2013年に再婚した相手がたまたま柏崎の出身で、原発は自分自身の問題にもなった。また、大学時代のエコ研とは別のサークルの仲間が東京電力に勤務していて東日本の時は福島第二原発の広報部にいた。その彼に誘われ、2016年にJヴィレッジなど原発周辺を案内してもらった。そんなこんなで折りに触れて原発のことが身近になって現在に至っている。原発のことを知れば知るほど、いつか必ず取り返しのつかないことが起こると思うようになった。

新年早々、地震に肝を冷やしたが、この国の立地を見れば地震と共に生きていかざるを得ないことは明らかだ。どういうわけでこんなになってしまったのか知らないが、地震という点だけを取り上げても、ああいう物騒なものの立地には最も不適な国土だ。科学とか技術とかいうものは、どれほど頼りになるものか知らないが、世間は一様にやれ進んだとか遅れているとか喧しい。まだ先があると思っている人は、もうちょっと真剣に考えて行動をしないといけないのではないかと思う。

数年前、東京駅前のKITTEにあるインターメデイアテクの売店で購入したクリアファイル
世界地図に地震の震源が震度と規模に応じ色と大きさを変えてプロットされている
地震の頻度において日本が世界の中で特異な存在であることが明らかだ

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