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大切な友人が亡くなったつらさを乗り越えたお話。

とても親しい友人を病で亡くしたことがある。享年37歳。独身で、見た目も中身も20代でも通用するほど若々しい人だった。彼女はマッサージのセラピスト。私は客として知り合ったのだが気が合って、とても親しく頼りにしているお姉さんのような存在だった。亡くなった後はとにかく寂しくて寂しくて、喪失感に苛まれた。何度も泣いて、ご家族に挨拶をして、電車で一時間のお墓にも何度も足を運んだ。闘病中、できるかぎりメッセージや写真を送って元気付けたつもりだったけれど、もっと優しくできたんじゃないか、私はいつも甘えてばかりだった、大切にできただろうかと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。生前、余命はおろか、乳がんという病名さえ打ち明けてもらえなかった私は、死ぬまで間際まで彼女に「姉」の役割をさせてしまったと、自分を責めた。

一年半後。会社のランチ時間に一人で近所の定食屋にいたときだった。開いたスマホから、カザフスタンのフィギュアスケーター、デニス・テンが事件に巻き込まれて亡くなった、というニュースが流れてきた。私はフィギュアスケートは周りの影響もあってけっこう見ていて、また、例の友人の喪失の傷が癒えていなかった時期だったので「また素敵な人がいなくなった」と恐ろしく、不安になった。

しかし気づいた。私はテンの演技はテレビでも何度も見ているはずなのに、どんなプログラムだったか思い出せない。生のアイスショーも数回行ったのに、それにテンが出場していたかさえ思い出せなかった。私は亡くなったら悲しむくせに、いるときには全然享受せず、感謝していなかったのだ。

突如閃いて、腑に落ちた。「いなくて寂しい」の逆は「ありがたい」。「ありがとう」は「有難う」、つまり有るなんて難しい。無くて当たり前なのに、有るなんて素晴らしい。そうだ、死んでから寂しい寂しいと嘆く代わりに、生きていたことに、生きていることに感謝すればいいんだ。

私はデニス・テンに、「生きている間にフィギュア界を盛り上げて楽しませてくれてありがとう。ゆっくりお休みください。」と心の中でお礼を言った。そして、亡くなった彼女にも。いるときから感謝はたくさん伝えていたつもりだったけど、所詮つもりで、全然心から言えてなかったから。一緒にいてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。すごく嬉しかった。会えてよかった。

それからも、彼女を思い出すたび、いなくて寂しい、甘えてばかりでごめんなさいの代わりに、感謝を念じた。続けていたら段々思い出すことが辛くなくなって、ちょっと辛いんだけど、それでも、「一緒にいられて嬉しかったなぁ。次の人生楽しんでるかなぁ。」と自然に思える時間になった。

命だけでなく、人も物も何もかも。あることは当り前じゃない。普段からきちんと感謝していたら、いなくなっても悲しくなんかない。彼女は人生を終えるついでに、不肖の妹にそれを教えてくれたのだった。

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