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性と恋愛、ジェンダーの(不)自然?

『IWAKAN volume 05 (不)自然』REING

前号04で初めて購入した『IWAKAN 』、内容とデザインに圧倒され、05も購入しました。どの記事も写真も好きですが、今号ですごく揺さぶられたのが関根麻里恵さんのコラム『Love? Friendship? What the fuck!!』と、それに続く関根さんと中村香住さんの対談『わたしたちの「クワロマンティック宣言」』でした。ぼくのジェンダー感をアップデートしてくれました。

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性的指向と恋愛指向は別々に考えることについての書かれているのですが、これが考えば考えるほど腑に落ちるのです。アセクシャル、アロマンティック、クワロマンティックについても書かれています。アセクシャルについてはNHKドラマ『恋せぬふたり』で話題になったことで知っていましたが、「アロマンティック」「クワロマンティック」は初対面です。アセクシャルは誰も性的な対象と考えられないことで、アロマンティックは誰も恋愛対象と思わないことです。クワロマンティックは「自分が感じる魅力の違いを区別できない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分には関係がないと思う人」だそうです。まだ咀嚼しきれていないですが、性的指向の有無と恋愛指向の有無がわからない人のことです。有無といった二項対立で考えては多様ではないし、その人を無理やり分類することになります。だからクワロマンティックという言葉を知り、すごく当たり前のことがやっと言葉になったんだなと思いました。

性的指向と恋愛指向を分けて考えることを自分なりに噛み砕いていくと、長年抱いていた違和感を言葉にできそうな気がしてきました。自分なりの仮説に過ぎませんが、書き留めておこうと思います。

性的指向と恋愛指向を分けて考えるってどういうことなのでしょう。考えるほどになんで分けてこなかったのか、思い込んで疑えなかった自分の固定概念と社会通念が浮かび上がってきました。恋愛の延長線上に結婚があったり、恋愛の延長線上に性的な関係性があったり、結婚相手とのみ性的関係を継続すべきで、それは愛の絆を示すためにセックスレスではいけない。性的指向と恋愛指向はセットで、当然のように両方を満たす相手を求めなければいけない。これが常識で、そうなってない人たちを糾弾する光景がよくみられます。でも実際は、セフレや不倫、性的な面を充足する関係性は公にはされないにくいもののよく聞く話です。恋愛指向についても、話していてこの人好きだな、みたいなことは実感としてあるのではないでしょうか。その人と性的な関係性がなくとも心地よく居られる関係性だってあります。

恋愛して結婚した夫婦は、出産や子育てしていくことを良しとされてきました。女性が子供を産むことを生産性といった議員もいます。人間の存在意義はそれだけではない、どんなジェンダーであっても個人の自由は尊重されるべきだと言える流れにはなってきました。でも、生物は遺伝子を継承していくことを使命としていると言われるとうまく反論できません。まだ建前でしかあらゆるジェンダーを公平に扱えてない状況を解体するためにも、生物学的な根拠も大切に思います。『IWAKAN volume05』を読みながら、生物学的にも説明ができるのではないかと思いました。以下は荒唐無稽な仮説です。

不自然な存在で何が悪い?

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ジャレドダイアモンドの『セックスはなぜ楽しいか』(Why is sex fun?)やクリストファー・ライアンとカシルダ・ジェタの『性の進化論』で、かつての人間のセックスがについて書かれています。ひとことでいえば乱婚型で、我々の祖先は集団で生活し、不特定多数の相手と番っていました。なぜわかるかというと、人間の睾丸やペニスのサイズによって、生殖活動がどのくらいの頻度だったかがわかるからです。霊長類の睾丸やペニスは身体の大きさに比例しません。巨体をもつゴリラのそれは人間に比べて遥かに小さい。それは生殖活動の頻度がとても少ないことにからと言われています。人間とボノボのそ睾丸とペニスは同じくらいの大きさで霊長類の中でも最も大きい部類に入ります。そのボノボは挨拶のように、さまざまな相手と性交します。そこから導かれたのが人間は乱婚型だったということでした。

人間は二足歩行なため、メスの発情期が分かりにくいことも特徴です。すると複数のオスと番っているため、父親を特定できません。オスも自分の子を特定できません。そうなると他の霊長類で起きるような、自分の子供を可愛がり他の子供を殺したり排除するすること減り、大切にしていこうとします。

霊長類研者・古市剛史さんが『人が「ボノボ」から学ぶこと』という記事で、争いが激しいチンパンジーとボノボが比較されています。チンパンジーのメスが性交渉を持てるのが5〜6年に一度です。機会が少ないためにメスを巡ってオス同士で殺し合しあう。その結果、オスの比率は極端に少なくなり、メスの1/3〜1/4しかいません。一方のボノボのメスが本当の性交渉をもてるのは4年に一度くらいです。でもボノボの場合、出産して1年後にはニセ発情期が訪れて性交渉をします。すると群れの4割くらいのメスが同時に発情していることとなり、ボス的存在がメスを独占することもできず、メスを巡る争いも減ります。その結果ボノボの群れはオスとメスの比率は半々になっています。

性的指向と恋愛指向

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『IWAKAN volme05』の関根さんと中村さんの記事を読みながら、性的指向と恋愛指向を分けて考えるのは当然のことなのではないかと思いました。ボノボからわかるのは性交渉が身体的なコミュニケーションにもなっているということです。こういったコミュニケーションは性的指向の強いものにとって重要で、そもそも性的指向の弱いものもいるでしょう。だから恋愛とセックスがセットである必要はないのだと思います。すると恋愛指向とは何だろう?という疑問が湧いてきます。

最果タヒさん『愛は全部キモい』というWeb連載があります。『竹取物語』や『風と共に去りぬ』などの作品に描かれる愛に対して、キモさ表明していきます。相槌を打ちながら読んでいます。愛という概念に抱いていた違和感が言葉にしてくれている感じがするのです。自分も相手も諸行無常な存在ですから、好きの度合いが変化するだろうし、嫌いになるかもしれないのは当然です。なぜ好きから愛に転じなければいけないのか、ぼくには決意を表明を促しているように思えるのです。恋愛の延長線上に見る愛は確かに魅力的にも見えますけど、長期にわたって互いに好意的な関係であるなら、わざわざ愛という言葉に転化させる必要はあるのでしょうか。愛という言葉が強ければ強いほど、それは重さを増していく。愛し合うは人間関係における完璧な概念であると同時に、人為的なものな気がします。好きではダメで、愛を表明させて、結婚を一つのゴールとする。改めて考えてみれば恋愛結婚という言葉も、人間関係のことと社会制度のことが融合した言葉だと思います。重さを軽減させながら制度を美化するための言葉に過ぎないと思うのです。

クワロマンティック宣言

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先の乱婚型の話でジェンダーについても思ったことがあります。ぼくは最初、乱婚型を多夫多妻と理解していました。なぜなら一夫一婦制を基準に乱婚型を理解しようとしたからです。現代の社会からに対比させる形で考えてしまったのでした。乱婚型の場合、恋愛という軸を差し引いた場合にどんな関係性が生まれるのだろう、と想像を巡らせたくなります。母と子の関係性は明らかとして、夫婦という考え方は存在しない。夫婦という考え方が存在しなければ、男女という性別の分け方も曖昧になってくる気がします。オスとメスを組み合わせて、子供もが生まれ家族のような関係もはなくなるわけです。誰の子かということはお大きな問題ではなくなり、群れの子供をみなで育てる。そうなった時にいわゆる男性性や女性性のような意識は抑制されるのではないでしょうか。男性性や女性性は社会のシステムとして複数の要因が絡み合って生み出すものなのですから一概には言えません。ただオスとしてメスとして生きねばと駆り立てられることも抑制されるのではないかと思いました。自分の子供がいる/いないではなく、みなの子供はいつもいるものなのになると思います。だから性的指向をもたないもの、強くないもの、アセクシャルであっても役割があって居やすいるのかもしれません。

もともと霊長類はメスが発情期に陰部が赤らんだり膨らみ、それを認識したオスは発情するという仕組みを持っていました。二足歩行によってメスの発情サインが見えにくくなたったことが、性的な想像力を高めたという説があるそうです。言葉が生まれ、恋愛への想像力がそれに付随しながら肥大していったのだと思います。そういった意味では性的指向と恋愛指向のルーツは同じかもしれません。そこに社会制度が融合させられることで、型にはめられたり、過剰なキモさが生まれたりしたのでしょう。

学者でもないぼくが何かを証明できるわけではないですが、ひとつ言えるのは性的なものと恋愛的なものを一直線に結びつけ社会へ組み込んできたことです。それを性的指向と恋愛指向に分けたり、一夫一婦制ではなかった頃の状況を想像してみることで、今の社会に感じるジェンダーにまつわるストレスや違和感を表明しやすくなるかもしれないということです。

表紙デザインも毎号ステキ☆

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