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『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』 …肉食主義とは何か

『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』
メラニー・ジョイ著 玉木麻子訳 青土社

★ 1 ★

肉を食べたいと思うことは少なくなりました。木綿豆腐や厚揚げでも満足することが多くなりました。それでも唐揚げも好きだし、刺身も好きだし、バターや卵の入ったお菓子も好きです。なぜ豆腐や豆料理だけでは満足できないのでしょう。ヴィーガンメニューは、他のメニューと比べれば旨味や香りに物足りなさを感じてしまうのは正直なところです。でも、動物性の食材を美味しいと感じることが自然なことなのかはわかりません。体調が悪いとき、肉を食べたくないことがあります。だとしたら、肉を食べることパワーがいるのかもしれません。生まれながらにヴィーガンだったならば、味覚はどうなっているのでしょう。肉を食べることについて、よくわからないまま深く考えることをせずに過ごしているのが現時点のぼくだと思います。

ぼくはヴィーガンでないですが、抱くイメージはずいぶん変わってきました。ヴィーガンという考え方にはなかなか馴染めませんでした。食べ物も身近ではなかったのと、美味しいと思えるものにもあまり出会えなかったからです。一部で盛り上がっている、すごくラディカルな考え方だと思っていたのです。とくにエシカルという観点でのヴィーガンを語られることには抵抗があったと思います。殺生なしに生きていくことは難しいじゃないか、と思っていたからです。でも、ここ数年でNetflixのドキュメンタリー『Cowspiracy』や『Seaspiracy』を観て、経済優先のために酪農や漁業の多くの不条理が隠されており、とくにそこで発生する環境負荷が酷いことを知りました。酪農による温暖化ガスの排出は、自動車によるそれをも上回るのです。環境問題からヴィーガンを考えると腑に落ちました。ドキュメンタリー『ゲームチェンジャー』では、肉を食べないアスリートが紹介され、植物性タンパク質のみで成果が出せることを知りました。肉=元気という幻想から覚醒させてくれたのです。

『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』を読む前のぼくについて言えば、工業的な食肉や畜産食品を大量生産し、大量消費を煽っていく在り方は良くないし、持続的ではなく思っていました。エシカルの側面では、人間は狩猟採集をしてきた歴史を考えるとある程度自然と考えていました。革製品については、食用として捌かれた後に残った皮を革に鞣して使うことは、生き物の全てを使い切るという意味では良いだろうと思っていました。そもそも食肉のために育てられる牛は多過ぎるので、その点で革製品の全てを肯定することはできません。ただ古来から皮や毛皮を身に纏ってきた歴史を考えると、適正な量ならば、石油由来の合皮を造るよりはマシなのではないか、とも思っていたのです。

まずはこの本をまとめながら、最後にもう一歩進めて考えてみようと思います。

★ 2 ★

この本を読み終えた今もうまく整理できないでいます。ぼくは肉を食べるマジョリティの側におり、食肉や畜産業の現状どう理解し、どう変えていくべきかがうまく言葉にできません。今から変えることに難しさを感じたり、それを表明することで受けるかもしれない抵抗を予想してしまっているのだと思います。われわれは動物由来の肉や食品の摂取を拒否するマイノリティのことをヴィーガンと読んでいます。マジョリティの側は普通の人々と解されるため名付けられることはないですが、著者メラニー・ジョイは肉食するわれわれを「肉食主義(カーニズム)」と呼びます。食肉がが当たり前という世界を信じているぼくらはカーニズムというイデオロギーを信じているのです。

カーニズムを当たり前と考える読者に向けて彼女が提示するのが第3章「カーニズムの現実」と第4章「巻き添え被害 カーニズムによる二次的な被害者たち」です。スーパーで綺麗に陳列された肉ですが、それらを牛や豚や鶏の死体と見る人は少ないでしょう。食肉工場の多くは窓もなく、外部から閉ざされいます。ぼくは第3章をまともに読むことができませんでした。狭い場所で早く成長させられ、ミルクや卵を必要以上に促され、その機能が低下してくれば用済みにされる。食肉工場に運ばれた動物たちは生命を宿している生き物として扱われず、物としてみられます。食肉工場は、コンベアで運ばれていく動物たちを大量虐殺していく工場です。人間が動物を捌いていくわけですが、この景色は人間同士でも行われたことがあるわけです。そう考えると、人間社会のヒエラルキーの延長線上にこの残酷な光景が広がっているとしか思えなくなります。

第4章では食肉工場に従事する人々を襲う心身のストレスを扱っています。労働者は間髪を開けずに流れてくる牛や豚を片っ端から切り付けていきます。なかなか殺せないと苛立ち、必要以上に刺したりする。ぶら下がっている肉体は物でしかなく、倫理的なたがが外れてしまうのです。刃物を振り回すわけですから、誤って自分を傷つけてしまう事故も起きます。ケガをしてもコンベアが停止されることはありません。労働者よりもコンベア状の商品の方が大切なのです。そんな状況下で働いている者がPTSDになることも少なくありません。そんな環境下で性格は変わり、家族に怒りをぶつけたり、残忍な光景から逃避するためにアルコールに逃げる者も多い。

わざわざ輸入されてくるにも関わらず、国産よりも安い輸入肉の背後にはこう言った背景が隠されているのです。だからといって日本の食肉産業の方が倫理的なのかはわかりません。倫理的と書きましたが、畜産業界で倫理的とはどんなことがあり得るのでしょうか。もっと動き回れるところで育てて、薬物を含まない餌を与えていたら、それは倫理的なこと良いことなのでしょうか。カーニズムの側にいる人にはそれ以上に問いを深めることは難しいと思います。

表紙をめくると

★ 3 ★

著者はカーニズムが正当化される要因として3つのNを掲げます。一つ目はNormal:普通です。普通を普通たらしめることは従来から守られてきた社会規範です。社会規範に沿っていれば普通でいられます。社会規範を疑いなが生活したらり、抗いながら生きることはとても面倒です。会合で肉のメニューが出てくるのは当然で、出されたものに手をつけないことは難しいのです。

行動様式の規範は、慣習や伝統と同様に日常の構造にも反映されます。もし振る舞いが習慣化・伝統化しているならば、そのシステムを保ってきた歴史とその役割のお陰で、振る舞いが疑問視される可能性は低く、またされたとしてもそれを正当化するのはとても簡単です。

P.164

次はNatural、自然です。狩猟採取で生活していた人類の歴史を考えれば、肉を食べることは当たり前に思えます。それは長く続いてきた歴史的な事実であるとしても、狩りをするのと食べるために育てるのでは方法が違うし、ましてや工業的にそれを処理するのでは次元が違います。けれどそんなことは関係なしに、イデオロギーの生物学的な根拠とされ、拡大解釈に疑念が寄せられることはありません。

一部の人間の集団による生物学的結生における信条が、何世紀にもわたって暴力を正当化するのに利用されてきました。アフリカの人々は「生まれつき」奴隷に適しており、ユダヤの人々は「生まれつき」邪悪で、根絶しなければ、ドイツを破滅に追いやられると考えられ、女性は「生まれつき」男性の所有物になるために生を受け、動物は「生まれつき」人間に食べられるために存在する、といったようにです。

P.166

最後はNecessary、必要です。ひとつは健康のために必要というものです。肉からタンパク質を摂取することは健康に欠かせないというものです。医学的にも豆類などで十分なタンパク源となり筋肉の生成に役立つことがわかっています。それでも、タンパク質といえば肉というイメージはいまだに強いのです。もう一つは経済的に必要というものです。これだけ大きくなった畜産業界を崩すことはできないというものです。倫理的に問題がある殺戮行為であったとしても、経済構想の一部としてもはや不可欠だというわけです。

メラニー・ジョイは第3章や第4章で書いたような、まず隠された事実に目を向けることが大切だといいます。残酷な現実から目を背けずに事実の証人になりましょうと言います。そして、映画Matrixで描かれるような本当の構造に気づき、その外に踏み出そうと説きます。

★ 4 ★

本書を読もうと思ったのは『さよなら、男社会』を読み終えたあとに、社会の構造について考えたいと思ったからでした。肉食主義と男社会には、なにかしらの共通点があるのではないかと思ったのです。男社会やフェミニズムの問題は人間社会の問題ですが、カーニズムは生態系の問題です。ただそこに見えてくる構図は人間社会での問題と似ていると思いました。人間が人間同士に向ける視線と動物に向ける視線はどう違うのでしょう。本書を読んで気づいたのは、なにも変わらないということです。動物にしていることとが人間社会でも起きていて、上層にいる側はその問題に気づかなかったり気づかぬふりをします。戦場で人を殺した人がPTSDになるように、食肉工場の労働者たちもそうなります。生き物を殺すことはかなり難しく、殺すのであればそれなりの道理が求められることを人間はわかっているのだと思います。。

3つのNは男社会についても同じです。長らく積み重ねられてきた男社会の規範は疑う余地のないNormal普通とされます。力のある男性が働き、子供を産む女性は子育てをするのはNatural自然です。それに加え、経済性を考えたら働き続けることができる男性がNecessary必要で、男性を優位に置かなければ経済や社会が回らなくなる。そのようにしてこの構造が維持されていくのです。

先日観た、ジョーダン・ピール監督の映画『NOPE』では、テレビシリーズでレギュラー出演していたチンパンジーが暴れ人を襲うシーンが描かれていました。監督はチンパンジーを差別される側のメタファーとして描いていると思うのです。食物連鎖の頂点にいると考える人間は、他の生物に対して驕りを抱いているでしょう。それは身分相応なのだと思っていのです。襲ってくるなら殺してよい、食べるためには殺してよいと考えるのです。ですが、その考えは簡単に人間にも向けられることを忘れていけないと思います。

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