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【読書メモ】『ものがわかるということ』養老孟司⑤最終章 自然の中で育つ 自然と共鳴する

写真では外していますが、本の帯にあった、絵本作家ヨシタケシンスケさんのかわいいイラストとオススメの言葉に吸い寄せられて購入した『ものがわかるということ』。

発売3ヶ月ですでに8万部突破とあるので、色んな方が書評は書いていると思いますが、こちらでは相変わらず私的な感想⑤最終章を残したいと思います。

第一章 ものがわかるということ
第二章 「自分がわかる」のウソ
第三章 世間や他人とどうつき合うか
第四章 常識やデータを疑ってみる
第五章 自然の中で育つ 自然と共鳴する

『ものがわかるということ』目次


第5章 自然の中で育つ 自然と共鳴する

◆身体に力が入っていると虫の姿が見えない
面白いことが書いてありました。
虫好きと集まってZOOM会議をしているときに聞いた話として、

夜中に森の中に入った時、身体のどこかに力が入っていると虫が見えないと。完全に力が向けていると見えるといいます。どこかに力が入っていると虫は逃げるとも言っていました。これは禅で言う無心の境地です。
手仕事で器を作っている人も同じようなことを言う。身体を使って、何かと関わっているときにはそういう境地があるのです。

『ものがわかるということ』p.195

面白いですよね。「無心」にならないと虫が見えない。
「考えるな、感じろ。」みたいなものでしょうか。

セミ捕りの時、鳴き声は近くでするのに本体が見つからない、という経験を思い出しました。(変ですね。家の中のゴ○ブリの場合は、彼らが立てるかすかな音や動きにも過剰なまでに反応できるのですが。)

養老さんはこうも言っています。
虫がどこにいて何をしているのか、自分の脳がすべて把握できるわけではない。相手を自分の脳を超えたものとして認め、できるだけ相手のルールを知ろうとする。それが自然との付き合い方である、と。

養老さんはこの章の別の個所で、「手入れ」ということについて話をしていますが、その中で自然との付き合い方について次のようなことも言っています。

自然と付き合っていくには地道な努力と、予測ができないことを我慢する忍耐力が求められる。分からないことを空白のままにして、心に余白を持ってとりあえずつき合う。そういう辛抱が必要になる。

これって、自然だけではなく、対人関係についても言えますよね。たぶん。
相手は自分のコントロールできる存在ではない。自分の脳を超えた存在であると認めて、相手のルールを知ろうとする。
そして、もし分からないことが多少あっても、「ま、いいか。」と適度にあきらめて、分からないことを空白のままにして、とりあえずつき合う。

これ、心の余白が足りなくなると、とたんに難しくなりますが。
相手の存在を認め、心に余白を持って相手に接する。このへん、私にとってはかなり修行に近いイメージです。(笑)

自然に向き合う


◆「わかる」の根本にあるもの

養老さんは、自然の中にじっと身を置いていると、徐々に自分が自然と同一化していくのが分かる。これが、とても心地いいのです、と話します。

自然の中に身を置いていると、その自然のルールに自分の体の中の自然のルールが共鳴し、頭で考えてもわからないことが、わかってくるといいます。

自然が分かる。生物が分かる。その「わかる」の根本は共鳴だと私は思います。人間同士もそうでしょう。なんだか共鳴する。「どこが好きなんですか」と聞かれても、よくわからない。理屈で人と仲良くなることはできません。

『ものがわかるということ』p.201

暑いときに冷水に触れて「気持ちいい」という感覚が皮膚を通して入ってくる。それを感じることが共鳴であり、共鳴は身体や感覚で感じるものである。

自然の中でのキャンプの時に、そこで学べる一番のことは身体性であり、人間にとって自分の身体性は最も身近な自然だと養老さんは話します。

私は都市化した社会の中で、身体性をだいぶ閉ざして生きている気がします。その身体性を学ぶには、熱い、冷たい、ざらざらする、すべすべする、そういった ”感じる” という感覚を開いて共鳴を起こす。そういった体験が必要なんですよね。

最後の「あとがき」で、養老さんは八十歳の半ばを超えるまで自然と呼ばれる世界を理解したかった。若いときから、そのままでいるだけだ、と書いています。トガリネズミもゾウムシも容易に「わかる」相手ではなく、本当にわかるとすれば、共鳴しかない、と。

共鳴とは、二つの固体の固有振動数がたまたま一致したときに生じる、日常的には一見不思議な現象です。

『ものがわかるということ』p.211

養老さんは同じく「あとがき」で、「トガリネズミを調べて、本当に理解するとしたら、共鳴しかありえない」という趣旨のことを科学雑誌に書いたときに、研究分野のまったく異なる恩師が、そこに下線を引いて共感してくださったエピソードを書いています。弟子でありながら自分の研究とまったく違うことをしているのに理解してくださった。そのことについて今でも涙が出そうになる、と。

生きるフィールドが違う人間が起こす「共鳴」。
それはとても輝いて見えますよね。

別の記事で書きましたが、NHK「SWITCHインタビュー坂本龍一×福岡伸一」での、教授こと坂本龍一氏と、ハカセこと福田伸一氏の対談の様子は、分野が異なる二人が存分に共鳴しあっていたからこそ、あのような空間が生まれたのだと思いました。あのような教授の破顔や、楽しそうな二人の様子がとても伝わってきてこちらまで幸せな気持ちになりました。

音楽で言うセッションも、即興で共鳴しあえばしあうほど、とても楽しそうで輝いて見えます。2021年6月の「ブルーノート東京」での角野隼人さんと小曽根真さんの即興セッションも、神でした。見ているだけでワクワク、どきどき、ニヤニヤでした。

・・・ちょっと話が脱線しました。
「ものがわかるということ」は「共鳴」が大きなキーワードになるのかな、と思いました。
他にもここに書ききれなかった養老さんならではの面白い話が満載です。
ぜひ読んでみてください。

今日もここまで読んでいただきありがとうございました。
みなさんに良い一日がありますように。

みなさんも読書で
リラックスタイムをどうぞ


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