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私がわたしである理由5

[ 前回の話 ]

第四章 壮行の宴席(1)


『ピピピピピ…ピピピピピ…ピピピピ…』

枕元に置いたスマートフォンが大きな電子音を発した。
潤治は目を覚まし、大慌てでスマートフォンを取り上げ、布団の中に引き込み、潜り込んで音を止めた。日頃から朝の執筆を習慣とする潤治は、ついいつも通りスマートフォンのアラームを朝6時に設定して就寝してしまっていたのだ。

恐る恐る布団から顔を覗かせ、周囲を伺う…隣の部屋とは襖一枚でしか仕切られていない。デジタル化どころか電化すらそれほど進んでいない時代なのだ。幸い、暫く経っても誰かがこの部屋に向かって近付いて来る気配はなさそうだった。
身の回りで電子音を鳴らすことは恐ろしく怪しい行為であることを肝に命じなければならない。暫くはパソコンもスマートフォンも使用しない方が身の為なのだろう。

取り敢えず、いつもの様に熱いコーヒーが飲みたかったが、勿論この時代にそんなものがある筈もない。
一階に降り、洗面を済ませると潤治は炊事場に赴く。
もう早々に起きて朝食の支度を初めていた女将に熱い茶を一杯求めた。


「おや、お早うございます。ゆっくりお休みになられましたか?お寒かったでしょう。火鉢の炭も少ししか用意出来ませんから…ハコベの薄いお茶しかありませんけど、それでいいかしら…ハコベ、お嫌いだったらお白湯さゆの方がいいですか?」
「じゃあ、出来たらお茶の方で…」
「はいはい、じゃ今すぐお入れしますから…昨日は本当に助かりました。ほら、お米。お一人であんなに収めて頂けるお客さんは近頃いませんからねえ。て言っても、旅館に泊まるお客さん自体がもうあんまりいませんけど…うふふ…今日は朝からお粥にしましたのよ。皆さんきっとお喜びよ。後でお部屋にお持ちしますから」
「あの…お泊まりになってる方は何人位いらっしゃるんですか?」
「お客さん入れて、お3人だけです。それでも、ここ最近じゃ多い方なんですよ。このご時世、旅館なんてねえ…旅行される方もめっきり減りましたし…」
「僕の部屋の隣にもどなたか滞在されてるんですか?」
「いえいえ、お客さんが少ないですから、お部屋はお隣同士にはしてません。ほら、その方がみなさんごゆっくり出来ますでしょ。そうそう、お客さんの一つ向こうのお部屋の方は明日御入隊なんですってよ。ほら、去年の、えーと11月だったかしら、荏原えばらで大きな空襲がありましたでしょう?あの時家と奥様とお子さんも亡くされて、お1人で疎開されてらっしゃったのが、赤紙がね…はい、お茶です。どうぞ…」女将は入れたばかりの熱いお茶を潤治に差し出す。

「あ、どうも、有難うございます」
「でね、もう家も身寄りもいないんで、思い切り戦えますなんてね、笑って仰ってましたけど…お目出度いことなのにこんなこと言っちゃあ何ですけど、何だかお気の毒で…」
「あの…僕の方は構いませんので、昨日のお米、その方の今日の夕飯に使って差し上げて貰うことは出来ませんか?せめてお米のご飯だけでもたっぷり召し上がって頂いて…僕の方は、滞在中も贅沢は言いませんから…」
「本当ですか?よろしいんですか?喜ばれるわあ、きっと…そうだわっ、じゃあ、今夜は下のお座敷で皆さんご一緒しません?私たちと…ね。お見送りして差し上げましょうよ。そうねえ…7時位、如何ですか?あたしもなるべく材料を集めてご馳走にしますから」
「いいですねえ…では、それまでには僕も戻るようにします」


潤治は部屋に戻ると念のため充電しておいたパソコンとスマートフォンのコード類をソケットから外し、急ぎ全てを鞄の中に仕舞った。代わりに愛用している小振りの取材メモ帳とボールペンを引っ張り出し、卓袱台の上で昨日からの経験で得たこの時代の生活状況を項目化し書き出しておく…外食券、運賃、服装、髪型、徴兵、宿賃、電話、ソケットと通常のアンペア容量、燃料、灯火管制…等々、僅かに二晩の間に注意すべき点が山のように挙げられる。

そこまで書き出して、潤治は手に持ったボールペンに気が付いた。ボールペンやシャープペンは戦後の筆記用具だ。これもまずい。せめて何処かで鉛筆を手に入れなければならない。いや、それ以上に何処か安心してパソコンを使用出来る場所があればもっと良い。潤治のパソコンと小さな外付けのデバイスには、ここ十数年に及ぶ執筆作業で集めたあらゆる分野の情報ファイルが蓄積されている。

ずっと気になっていたのだが、東京はいつどの地域が空襲で爆撃されてゆくのか…その詳細の資料も何処かに保存されている筈なのだ。出来るだけ早く検索し、確認しておかなければならない重要な情報だ。ただし、この世界ではプライバシーの概念がまだ全く育っていない。誰にも邪魔されない一人きりの空間を確保するのは現状ではほぼ不可能なのだ。

「失礼します。ご朝食ですよ…」女将が襖を開いた。
「あ、どうも…」潤治は急ぎメモ帳とボールペンを鞄の中に仕舞った。

卓袱台に湯気を登らせた芋粥に味噌汁、沢庵と青物の漬物、小さな煮干、そしてお茶の急須が並べられる…
「お陰様で、今日は朝食らしい朝食が用意出来ましたよ。どうぞ…」
「あ、どうも…いただきます…」潤治は箸を取る。
「先程ね、お客さんからのお話、主人に話しましたらね、主人も凄く喜んで、それなら早速築地界隈の闇屋回って、尾頭付き探して来るって、張り切っちゃって…ふふ…まあ、流石に鯛は無理でしょうけど…何だかあたしも浮き浮きしちゃってね。こんな心持ちになったのは久しぶりなんですよ。でもねえ…肝心のお酒が少ししかなくて、すいませんねえ。ご本人にちょっと召し上がって頂くのが精一杯で…」
「いや、構いませんよ。こんな時節なんだから、美味しいお料理で送って差し上げられれば、いいじゃないですか。でも闇屋っていうと、高くつくんじゃないですか?」
「いいんですよ。うちにだって蓄えが全然ない訳じゃないんですから」
「大変な時代ですねえ…」
「本当にねえ、ここだけの話、嫌な時代ですよ…お客さんは、朝からお仕事されてたんですの?」女将は潤治の脇に置かれた鞄に目を移した。
「え?あ、ああ、ちょっと。私、文筆業なもんで、ちょっと取材の準備を…」
「まあ、作家さんですの?道理でハイカラな雰囲気だと思いました」
「いえ、作家と言われるほど大したもんじゃないんですけど…あ、そうだ。もうお一人、お泊まりの方がいらっしゃるんですよねえ」
「ええ、戦前からのご常連で、年に2度位ですか、もうお年の方で、静岡からご学友を訪ねていらっしゃるんですよ。そちらも是非参加させて頂きますって…何か、楽しみだわ…あらいけない、すっかり長居しちゃって、どうも、お邪魔しました。ごゆっくりどうぞ…」


朝食後潤治は宿を出た。外気は相当に底冷えしていたので、鞄の隅に入れてあったライトダウンのアウターを出して着ることにした。外見上はレーヨンの綿わた入れジャンパーに見えるので、コーデュロイの細身の上着よりは目立たないかも知れない。上着は昨夜手洗いした下着類と一緒に部屋に残してきた。

午前中は目黒駅周辺から恵比寿駅前までを歩いてみた。恵比寿駅前の商店街にはずらりと商店が並び、この時勢でも閉店している店は殆どなかったが店頭に置いてある日用品は陶器や木や布を使った質素な代用品ばかり。やかんや鍋、スプーンやしゃもじ、アイロンに至るまで金属製品は殆ど見当たらない。乾物や食料品、八百屋や肉屋、魚屋などは店頭に次の配給日と時刻が表記されているだけだった。それでも、物を求める多くの男女が通りを行き来している。

文房具店もあった。鉛筆や消しゴム、できれば鉛筆を削る切り出しナイフも欲しかったが、全ての物品は統制下に置かれているらしく、値札には金額と一緒に配給切符の点数が記されている。商品を物色しながら買い物客と店員とのやりとりを伺っていると、必ず点数券の付いた切符を見せ、店員はそこから必要な点数分の券を切り取り、はじめて購入することが出来るのらしい。つまり、潤治がこの世界でまともに購入できるものは何もないのだ。


渋谷に向かう途中の小さな食堂で潤治は昼食にすいとんを食べた。小麦粉にふすまを混ぜているのだろう、もそもそとした食感でとても美味いとは言えないが、それでも他の飲食店よりもずっと安価なので店内は賑わい、注文は殺到している。相席になった婦人客や背中越しの中年男性の話に耳を傾ける…
「やんなっちゃうわ。こないだのスフの子供服、もう破けちゃったのよ」
「配給品は駄目よ。うちの近くで買えるわよ。紹介しようか?」
「闇はお高いでしょ?うちには無理だわよ」
「そうねえ、どんどん高くなるわよねえ…」
「ちきしょう、どっかで酒、手に入えらねえかなあ…」
「こないだ闇屋に聞いたらよ、特級だと1合5円だってよ…」
「あー、そら無理だ…」
闇ルートでなければ買えない物の話で持ちきりだった。どうやら、配給点数で購入できる範囲では庶民の日常の生活は維持出来ないようだ。

食後、潤治は道玄坂やその裏道をくまなく歩き、闇店舗なるものを探したが、その断片すら見出すことは出来なかった。当たり前の話だ。闇屋が日の当たる場所に出て闇市化したのは終戦後のことだ。官憲による統制の取締りの厳しい戦時下に表立って闇屋を名乗る者は誰もいない筈だ。これは潤治がずっと後になって聞いた話だが、普通の店舗で点数切符を持っていない旨や、配給外の良い商品を探していることを店主に伝えれば良いのらしい。店主が店の奥に連れて行き、商品を見せてくれるということだ。勿論値段は統制価格の数倍で、一元客には応じてくれない。

一日中街を歩き回ってみて、これといった収穫物は何も無かったが、潤治にとって、この時代の人々の生活感や社会通念を学び取るには役に立つ有益な体験だった。1日も早くこの時代に慣れ、溶け込むことが彼にとっては最も大きな課題だからだ。


山手線を使って潤治が目黒駅に戻ってきたのは、5時少し前だった。既に改札口の近くに誠治は待っていた。誠治の傍らには国民服姿の男性が1人並んで立っている。誠治は潤治が旅館方向からやって来るものと改札口に背を向けて立っていたので、直ぐそばに近づくまで気が付いていない様子だ。

「誠治さん、すいません、お待たせして…」
「あ、潤治さん。何処かに行かれてたんですね」
「おう、潤さん。大事無かったかい?」振り返った隣の男は、何と昨日別れたばかりの正雄だった。
「あれ?正雄さん。何で正雄さんが誠治さんと一緒に?…」
「何だよ潤さん、水臭えなあ。誠治さんから話は全部聞いたぜ。何であん時相談してくれなかったんだよ。俺も一肌脱ごうと思ってよ、5時にここで会えるって言うから付いて来た訳よ」
「全部聞いたって…正雄さん、それ信じてくれたんですか?」
「まあ、ここじゃ何だからよ、駅の向こう側の裏に俺の知り合いがやってる喫茶店があんだ。そこで少し話そうぜ。ま、喫茶店って言ったって、今はもう席貸すだけの開店休業状態だけどよ」


つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを描き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…


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