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仙の道 8

第四章・散(1)


あれ以来、戸枝は春田家の食卓に度々訪れるようになった。
戸枝と3人で囲む夕食は、毎回変わらず楽しかった。戸枝が一緒にいてくれるだけで、礼司も昌美も何故か気持が落ち着くのだ。それは、戸枝にとっても同じだった。
一方、中川は礼司のことを戸枝に任せきりにしておくのは、どうやら不安らしく、時々礼司と戸枝を食事に誘った。しかし、いつも中川の会話は的外れで、贅沢と威圧ばかりが盛られた食卓には、彼の寂しさだけが漂っていた。

中川から受け取った現金の封筒には300万円が入っていた。礼司はすぐに伯父伯母と勤め先の店長早川に用立てて貰った全額を返済した。残金は、戸枝の助言もあって全て昌美の治療用に貯金した。

店での仕事も順調だった。店長の早川は、礼司の借金問題が丸く収まったことを事の他喜んでいたし、在庫の管理やチェーン本部への報告など、次々に仕事の要領を覚えてゆく礼司に期待を掛けてくれていた。

昌美は、戸枝の伝手で依存症の診察を受け始め、医療施設への入院が3月初旬と決まった。場所は静岡だった。依存症専門の医療施設で、知合いの何人かがここで更生したと戸枝は言っていた。


昌美の入院の日、戸枝は静岡の病院まで礼司たちに同行してくれた。海辺に近い近代的な病院だった。主治医の勧めもあって、3か月間の入院と、同じ敷地にある断酒寮に9か月入寮する1年間の断酒療養プログラムを受けることとなった。
昌美は折角不安のなくなった小さな生活と離れ、1人治療に専念することに寸前まで不安を訴えていたが、戸枝から「旦那さんもお嬢さんも、みんな今は1人で頑張ってるんですから、お母様も頑張らなきゃ。すぐに皆一緒に暮らせる日が来ますから、そん時までに治しとかなきゃ駄目ですよ。俺も礼司くんもお母様が元気になって帰ってくるの、待ってますから…」と言われ、ようやく納得したようだった。


「ちょっと暫く、寂しくなっちゃうな…」静岡から戻る電車の中で、戸枝が礼司に話しかけた。
「そうですね…お母さん…大丈夫かなあ?」
「大丈夫だよ、奥さん、結構明るい性格だからさ…ま、こっから先は本人次第だから、こっちで気を揉んだって、始まらねえよ…それより、病院の支払いは大丈夫なの?もし足んなきゃ、いくらでも親父に掛け合ってやるぞ」
「暫くは大丈夫です。戸枝さんが言った通り、この間のお金、手え付けてませんから…」
「ほんとに礼司くんは、家族思いだよなあ…」
「そういえば…戸枝さんの家族の話って、聞いたことないけど…」
「俺の家族?」
「ええ…いたんでしょ?」
「一応な、ガキの頃はな…」
「どんなご家族だったんですか?」
「ご家族…なんてもんじゃねえけどよ、お袋は水商売で、親父は極道でお袋のヒモだ。家に居る時は2人とも優しかったな…お袋はよく近所のパーラーでケーキとかパフェとか食わせてくれてよ、親父は馬鹿の一つ覚えみてえにキャッチボールだな…でも2人とも殆ど家にいなかったからよ、俺はいっつも1人でさ…いつ帰ってくんのかなあって、待ってたっけなあ…」
「へえ、で、御両親はどうされたんですか?」
「ガキの内に2人とも死んじゃったよ。親父は出入りで刺し殺されて…お袋は、俺が中学卒業の前に癌で…あっという間だったな」
「じゃあ、戸枝さんはずっと1人だったんですか?」
「10歳くらいの頃からだったかなあ…すぐ近所にゼンさんっていうじいさんが越してきて…よく俺の面倒みてくれたんだよ。不思議なじいさんでさ、何も仕事してねえんだよ。いっつもぶらぶらしててさ、近所の人達が何か困ってると助けてくれるんだ。歳のくせに結構達者でさ、力仕事も嫌がらねえし、手先も器用だし、色んなこと良く知っててさ、いざこざが起きると仲裁に入ったりもしてな、ゼンさんが間に入ると何だか不思議と丸く収まっちゃうんだよな。あ、俺がお袋の入院費払えなくて困ってた時もさ、金用立ててくれんだよ。ゼンさんだってきったねえボロアパートに住んでんだよ。でも…どっかからか、金引っぱってくるんだよなあ…で、貸すんじゃないんだよ。くれちゃうんだよな。どうせ、俺は金なんていらないとか言っちゃってさ…で、お袋が死んでからも、ずっとうちの家賃とか俺の高校の学費とか払ってくれてさ…結局、高校卒業して、今の仕事に就くまでずっと傍に居てくれたんだ。いつだったか、何でゼンさんはいつも傍に居てくれるんだ、って訊いたことがあるんだ。そしたらさ、お前の面倒をみる為にここに来たんだって、お前はいずれ大切な仕事をすることになるからって…言うんだよ。ま、嘘でも子供の俺には励みになったな…俺にとっちゃ、一人きりの家族って感じだなあ…」
「その、ゼンさんっていう人も、亡くなったんですか?」
「いや、まだ元気だよ。ぴんぴんしてる。今でも、年に2、3回は会ってるかな…」
「だって…戸枝さんが10歳の時にはもうおじいさんだったって…今お幾つ位なんですか?」
「それが、良く分かんねえんだよな…そうだよ…あれからもう、30…5年…か、最初はなから結構な歳だったような気もするんだけど、殆ど今も見た目は変わんないなあ…そうそう、いつだったか、俺が子供の頃さ、ほら親が殆ど居なかっただろう?俺のね、誕生日だったんだよ。学校の友達とかはよ、誕生日って親から祝ってもらったりしてるのに、何で俺は誕生日誰も祝ってくれないんだろうって…で、落ち込んでたんだろうな。ゼンさんがさ、どっかから飛行機の模型とケーキ買ってきてくれて、近所のガキたちも誘ってさ、祝ってくれたんだよ。嬉しかったなあ…そん時にね、ゼンさんの誕生日はいつなのって聞いたら、そんなものはとっくに忘れたって、で、じゃ何歳なのって訊いたら、それもよく覚えてねえって笑ってたなあ…そうだよなあ…一体幾つなんだろうなあ…まあ、不思議なじいさんだから、百越えてたって、俺は別に驚かねえけど…」
「で、その、ゼンさんって人は、今はどこにいるんですか?」
「ああ、今は川越の俺の知合いのね土木会社に住み込んでるな。ちょっと訳ありの会社で、まあ言って見ればこっち側と繋がりのあるとこなんだけどね…」
「川越かあ…お父さんも川越だなあ…」
「そうか、川越のムショなんだ…」
「僕も、そのゼンさんって人に会ってみたいなあ…」
「おう、いいよ。今度会いに行く時、連れてってやるよ」
「へえ…楽しみだなあ…」
「そうか?…へへ…」戸枝は、礼司が自分の身内に興味を持ってくれたことを喜んでいる様だった。


4月に入り、礼司が1人暮らしにようやく少し慣れ始めたある晩、突然戸枝がアパートを訪ねてきた。

「いらっしゃい、戸枝さん…ここ何日か連絡ないから、どうしたのかなって思ってたんですよ。ま、上がってよ」
「おう、ちょっとごたごたしててな…また、寿司買ってきたけど…礼司くん、夕飯まだだろ?」
「お、やった!ご飯作んの面倒だなあ、って思ってたとこだったんだ…」
「だろう…どう?一人暮らしは慣れた?」
「お母さん、家に居てもお酒ばっか飲んでると思ってたけど…いなくなってみると、結構いろいろやっててくれてたんですよね…でも、大分慣れました…あ、今お茶入れますね」
「はは…そりゃそうだよ…何たって母親だもんな。ところで、奥さん、あれから、どう?」
「うん、昨日電話したら、元気そうでしたよ。でも、まだもう少し面会は駄目なんだって」
「そうか…まあ、元気なら良かったじゃねえか…」

戸枝はいつもと同じように陽気に振舞ってはいたが、どことなく落ち着かない様子で、何か大切なことを話すきっかけを伺っているようだった。
「どうしたの?戸枝さん…仕事で、何かありました?」
「ああ…ちょっとね…今日は実はちょっと、礼司くんに話があってさ…」
「何ですか?」
「いや、ちょっと、俺、もしかすると、暫く旅に出るかも知れねえんだ…」
「へえ…旅って…遠くへですか?」
「いや、ちょっとね、仕事のことで…ちょっと、ややこしい取り立てがあってさ…暫く礼司くんとも会えないかも知れないから…」
「え?暫くって…どの位ですか?」
「あ、ああ…そうだなあ…行くとなると、ちょっと、当分の間だなあ…」
「当分って…一体何処に行くんですか?」
「いや…それは…とにかく、落ち着き先が決まったら、必ず連絡するから…そうそう、それでさ…これ…渡しとこうと思ってよ…」戸枝は上着の胸のポケットから分厚い封筒を出して、礼司に差し出した。
「何ですか?これ…」
「300万入ってる。奥さんの治療費の足しにと思ってさ…まだまだ掛かるだろ?で、奥さん帰ってきたら、娘さんも呼び戻してさ、また3人で暮らしていけるだろ…な、奥さんと面会できるようになったらさ、宜しく言っといてくれよ…いつかその内、また会えるかも知れねえけど…」
「それって…どういうことですか?」
「いや…ま、その…うーん…あんまり、詳しいことは、言えねえんだ。な、そういうことだから…」
「もしかして、戸枝さん…何か、危ない仕事するんですか?」
「……」どうやら、質問は的中したようだった。

「浅川さんとこと関係のあること?」
「いや…はは…俺たちの仕事はさ、多少荒っぽいことはつきものなんだよ。君ん時だって、そうだっただろう?な、素人さんに言っても、分かって貰えることじゃねえんだ。…な、これ以上は訊かないでくれよ」

礼司は、納得出来なかった。戸枝には、このまま行きずりの関係で終わらせてはいけない何か深い絆を感じていたからだ。

「戸枝さん……」
「ん?」
「何をすんのか知らないけど…僕、戸枝さんは、もう家族だと思っているんです」
「そうか…それは、有り難いけどよ…」
「お母さんや、姉ちゃんを守らなきゃいけないのとおんなじように、戸枝さんが危ないことするの、黙って見ている訳にはいきませんから…僕に、その仕事、手伝わせて下さいよ」
「駄目だよっ!そんなこと…させられる訳ねえだろ」
「戸枝さん、僕のこと知ってるでしょ?僕は絶対に怪我もしないし、一緒にいれば、戸枝さんを守れますから…」
「それは無理だよ。礼司くん…だいたい、君、暴力は嫌いなんだろ?」
「嫌いです。喧嘩はしませんし、するつもりもありません。でも、取り立ての仕事なんですよね?貸したお金を返して貰うってことなんじゃないんですか?それとも何か違うことするんですか?」
「い、いや…まあ、取り立てって言や、取り立てなんだけどさ…うーん…参ったなあ…」

勿論、戸枝はなかなか承知しなかった。それでも何とか、取り敢えず、翌日の朝、浅川と中川に会わせて貰うことだけは納得して貰った。ただし、2人に礼司たち家族の先行きを託すだけの話に留めると戸枝には念を押された。

「第一お前、まだ未成年だしな…」
「戸枝さん…明日はね、僕の誕生日なんです。僕明日、20歳になるんです…」
「そうか…明日成人すんのか…」


翌朝、市内にある浅川組の事務所には、組長の浅川、若頭の浅川の息子、中川と数人の若い衆が戸枝と礼司の到着を迎えた。

「申し訳ありませんが、今日は、春田くんがどうしても叔父貴と親父さんに会わせて欲しいって言うんで…お連れしたんですけど…」
「いやあ、久し振りだね、春田さん。お母様、無事治療を受け始めたそうじゃない。良かったねえ」浅川が笑顔で話しかけた。
「はい、お陰様で…有り難うございます」
「いや、戸枝くんがいろいろ親身になってやってくれてるみたいで、安心してますよ」
「春田さん、すいませんが、ちょっと込み入った話なんで、少しあちらで待ってて貰えますかね?」いつになく中川が丁重に切り出した。
「いえ、僕もここに居させて下さい。すいませんけど…」
「ふーん…ま、いいじゃねえか、春田さんも、戸枝のことが心配なんだろう…」
「トエ、お前え、春田さんに事情話したのか?」中川が戸枝に訊ねた。
「いえ、何も…ただ、暫く会えなくなるかも知れないって…それだけです」
「まあまあ…中川から昨夜大体のことは聞いたよ…トエちゃんが行ったって行かなくったって、どうせ戦争になんのは目に見えてるんだぞ」
「そんなことは、分かってます。でも、叔父貴の面子は守れますから…」
「君は本当に、見事な判断力だよねえ…俺も感心したよ。でも…だから、私はトエちゃんをこんなことでみすみす失いたくないんだけどねえ…なあ、中川…」中川は大きな身体を緊張で小さく縮め、表情を強ばらせていた。
「すいません…私が…」
「もう、いいよ。お前が行ったら、余計話がややこしくなりそうだからな…はは…ったく…舎弟に尻拭いさせて、情けねえよな」
「すいません…」
「どっちにしたって、俺もお前も早かれ遅かれ的になるんだ。じゃなきゃ、収まりがつかねえだろう…覚悟しとけよ。おい、和夫、後のことは任せたからな。組潰すんじゃねえぞ」
「はい…」浅川の隣で息子が膝の上に乗せた拳を握りしめた。30前後だろうか、浅川をそのまま若くしたような風貌だった。

「トエちゃん、本当にそれでいいのか?君が死ぬこたあねえんだぞ」
「で、叔父貴…俺に何かあったら、春田くん家族のこと、宜しくお願いします…」
「おい和夫、トエが言うように春田さんは大切な方だから、お前が面倒みて差し上げてくれ」
「はい…分かりました。初めまして、息子の和夫と申します。宜しくお願いします」浅川の息子が深々と頭を下げた。

「あの…僕…浅川さんたちに、お願いがあるんですけど…」
「おい、礼司くんっ!」戸枝が慌てて止めようとしたが、礼司は構わず話を続けた…
「何があったのか、詳しいことは僕、知りませんけど…あの…戸枝さんと一緒に行かせて貰いたいんですけど…」
「そりゃあ、無理な話だ。いくら春田さんが強えからって、素人の方を巻き込むことは出来ねえよ…取り立てったって、殆どやくざの出入りみたいな話だからな…」浅川が一笑に付した。
「じゃ、何で戸枝さんが行くんですか?何で浅川さんたちがやらないんですか?」
「耳が痛えな…確かに春田さんのおっしゃる通りだ…実は、俺もそう思う」浅川が真顔で答えた。
「春田くん…そんな単純なことじゃないんだよ…」戸枝が割って入った。

「さっきから話を聞いてると、なんだか深刻そうですけど…相手からお金を奪う訳じゃないんでしょう?貸してあるお金を回収するだけなんですよね。それが危ない事なんだったら、僕が一緒に行きますから、手伝わせてください。お願いします」
「これは、俺の仕事なんだよ…叔父貴に用意してもらった金を、親父が…いや、うちが騙されて押さえられちゃったんだ。だからまず、俺が取り戻しに行かないとなんないんだよ」戸枝が諌めた。
「騙されたって…誰が騙したんですか?」
「成和会の連中だ…あいつら、おやっさんの顔潰して…最初はなっからうちの組に喧嘩売るつもりなんだ…」浅川の息子が呟いた。

「こらカズ、素人さんに余計な話すんじゃねえっ!」
「すいません…」父親に窘められ、息子は口をつぐんだ。

「いずれにしろ、春田さんとは関係のないことです…心配してくれるのは有り難いけどねえ…そんなつもりで、この間手打ちしたんじゃないんですよ…」
「あの…これは、僕と戸枝さんの問題なんです。僕はただ、戸枝さんを助けたいだけですから。別に浅川さんたちがどこと喧嘩になって、どうなろうと、僕には興味ないんです。浅川さんが許してくれなくても、僕は行きますから…すいません…失礼なこと言っちゃって…」
「……そうか…君はトエちゃんが好きなんだねえ…じゃあ、春田さんの好きにしてください。ただ…相手は相当荒っぽいから…ああ、春田さんはそういうの、大丈夫だったんだよね」
「はい」
「そうか……じゃあ、私から春田さんに、一つお願いしていいですか…」
「はい…なんですか?」
「どうか…どうか、戸枝くんを無事に帰してやってください。お願いします!」浅川は深々と頭を下げた。
「分かりました…そのつもりです」

第9話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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