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右手の小指を骨折した。。。🦴

今回はGWに右手の小指を怪我した記録です。個人的には今回の怪我で多くの学びがあったのでそれを書きたいと思います。(怪我はもうしたくないけど。。。)
【怪我に関する痛い描写】がありますので、痛みに弱い方は薄目で見ていただくなどご留意いただければ幸いです。


ボールが飛んできた!

GWに友達とキャンプに来て、近くの広場で遊んでいたときのこと。飛んできたボールに手を出してしまった。「痛っ」と思ったのは一瞬で、そのボールは子供が遊ぶような柔らかいボールではなく、グローブでキャッチボールするような軟式野球のボールだったことに気づく。「小さな子供も遊ぶような場所で、こんなボールでキャッチボールなんてするなよ。しかもボールを後ろにそらすような下手くそがよ!(怒)」と思ったが、友達もいたのでその場は何もせず。
気づけばみるみる右手の小指が腫れてきて、指が曲がらない。とりあえず保冷用に買った「凍ったアクエリアス」を指に当てて様子を見る。痛くて指を曲げ伸ばしするのは辛いが、少しは動かせるし、痛みもなんとか我慢できるぐらいなので、たぶん骨折はしていないだろうと推測。その日はキャンプ場に泊まる予定だったので予定通りBBQをしたり、人狼ゲームしたり。GW明けたら病院に行こうと思っていた。
翌日、キャンプ場の片付け。右手が使えないとだいぶ不便だが手伝ったもらいながら片付けを進める。ふとした時に小指にモノが触れると激痛が走り、声が出る。。。この手では外で遊んだりはできないし、GWで渋滞も心配だったこともあり、午前中にはキャンプ場を出発して帰宅することに。右手の小指を怪我したことで運転できるか心配だったが、ハンドルは親指と人差指でオッケーサイン👌の要領で掴むことができ、運転に不自由することはなかった。(ウィンカーレバーも左側についているのでそれも功を奏した。ありがとうアルファロメオ✝🐍😍)

というわけで、「小指が使えないことで全くできないこと」というのは意外にも少なかったが、ただ握力が激減することに気づいた。手に力が入らない。例えばシートベルトを引っ張れない、ペットボトルを開けられない、など。握力を発揮するために小指が重要な役割を果たしているようだ。調べてみると同様の情報があった。

<小指の大きな役割>
小指は「しっかり指を使える」ようにする鍵を握っています。分かりやすいように手の小指で、いくつか例を挙げます。
テニスではラケットを持つときに、小指をしっかり握るようにすると自然とグリップが強くなる。(野球でもゴルフでもそうですね)や⚪︎ざの方が足を洗う際、小指を落とすのは「ドス」を握るときに力が入らないようにするため、とも言われています。また握力を測る時も、小指を離して測るのと小指をつけて測るのとでは大きな差が出ます。

足整体 高坂Webサイトより

小指は手の5本の指の中で最も小さく、一見するとあまり重要ではないかのように思えるかもしれませんが、実際の役割はとても大きいです。特に握力と手の安定性において、小指は主要な役割を果たしています。
私たちが物をつかむとき、小指は手の他の部分を補完し、安定した握力を作り出す役割を果たします。(中略) また、小指は手の協調動作にも大いに貢献します。例えば、筆記や絵を描く際、小指は手の他の部分と連携して、細かく、正確な動きを可能にします。

アソビプラスWebサイトより

なるほど、小指の重要性が身にしみる。(地味に毎日の歯磨きもしんどい、往復するたびに痛む。。。🪥)

とりあえず病院へ

次の日、まだGW中ではあったがやはり痛みが引かないのでダメ元で近所の病院に救急で診てもらえないか相談してみたところ、なんとか診てもらえることに。(感謝感謝) ここで小指を怪我して以来最大の「できないこと」が発覚!それは問診票に文字を書くこと📝 文字を書く時は小指で紙との距離を絶妙に測っていたことを知る。ありがとう小指。仕方ないので習字のように手を空中に浮かせて文字を書くことに。下手すぎる。
先生に診ていただいたところ、ものすごく腫れていることからひどい突き指じゃないかとのこと。念の為レントゲン🩻を撮ることに。レントゲンは正面(手の甲側)と、側面(指の横から)を撮影。正面の写真は「あれ?もしかしてヒビ入っている?」ぐらいだったが、側面の写真が「ポッキリいってる!素人でも分かる!」という状態。レントゲン写真を見た瞬間背中がモゾモゾ、なんだか指も痛くなってきた気分。それにしてもすごい状態、翌2日間兵器だったな。。。

というわけで痛いのが大丈夫な人は私の書いた手書きのイラストをご覧ください↓

第二関節の下側が折れてズレちゃってる

お医者さんには触診もされたが、指をつままれてもあんまり痛くない。なんなら「痛いっ」って声を出す準備してたけど「あれ?意外に痛くない」ってなった。指の感触はある、故に神経は通っているし、血も流れてる。指は死んでない。こんなにポッキリいってるのにすごいな人体。

その日はGW中だったので手術はできないが、ズレたままだとまずい(そのまま固まってしまう?)ので、折れた部分を元に戻すことにチャレンジ。(イラスト赤い矢印)
まず指に麻酔をかけ、大人二人がかりで指を引っ張って戻す!(もうこれを書いているだけで痛い。。。) これがめちゃくちゃ痛くて流石に声が出た。
普段、採血や献血などの痛みには慣れているつもりで、なんなら注射しているところを見ても平気なのだが、今回は指を引っ張っている箇所を見ることもできず、目を覆って声を出すしかできなかった。3回ぐらい引っ張った後、もう一度レントゲンを撮って、ちゃんと戻っているか確認することに。指がどんな状態にいなっているのか分からなかったが、痛みがほとんどなくなっていて「あれ?もはや治ったのでは?」と思ったが、さっきの麻酔が効いていただけであった。(←アホです。骨折がそんなことで治るわけない。)
レントゲンを撮って確認した結果、状況は変わらず、骨はズレたまま。先生の好意(?)で、再度指ひっぱりにチャレンジすることに。もうこうなったら抵抗するまい「えーい、ままよ!」。心を無にして耐えようとするもやっぱり痛い。普通に痛い。しっかり声が出た。2回目のチャレンジ後に再度レントゲンを撮って確認するも結局今回も元には戻らず。今回は諦めてギブスをして翌日また通院することに。それでも自分の指の状況が分かっただけでもずいぶん気分が楽になった。
帰ってきて、関係各所に連絡。リスケや欠席、オンライン対応への変更など、ご迷惑をかけしてすいません。ありがとうございます🙇

手術について

翌日も診察していただいたところで、手術をすることが決定。手術は2日後の午後。手術の準備として胸のレントゲンを撮影したり、CTで指の詳細を確認したり、採血をしたりという検査でほぼ半日かかる。やっぱり手術って大変なことなんだなーと妙に実感。ちなみに採血のときも注射をしたが、小指が痛すぎて、逆に注射は全く痛くなかった。痛みはある程度相対的なものでもあるのか?いや絶対的な痛みのレベルもあるやろ、とか色々考えてしまった。
手術までの期間は痛み止めを飲みながら大人しく過ごしたが、多少の不便はありつつもなんとか生活できていた。ほんとに骨折してるのか?と思うレベル。(指は相変わらず動かないんだけど)

そして2日後の手術の日は脱ぎ着しやすい服で病院へ。ここで保育士の長女に教えてもらった「脱健着患(だっけんちゃっかん)」という言葉。

「脱健着患」とは、「(衣服を)脱ぐときは問題のない健康なほう(健側)から、着るときは病気や怪我、麻痺などのあるほう(患側)から」という意味。どうしても動きが制限される着替えのタイミングで、高齢者にできる限り負荷をかけないためです。介護職員・看護職員にとっては基本的な原則として知られています。 患側を着るときには、うまく動かせないほうから袖を通す。脱ぐときには、健康な側から袖を抜いていく。

さがしっくすWebサイトより

なるほどな〜と妙に納得。 怪我してみて初めて知る言葉。学びが多い。

病院へ着くと早速手術用の服装に着替え。ここでも脱健着患とひとりつぶやく。 手術室へつくと、そこは「ザ・手術室」。天井には大きなライトが2つあり、 脈拍をモニターする機械、血圧を定期的に測る機械、壁にはレントゲン写真を映しているモニター、手術室には5人ぐらいの看護師さん。てきぱきと脈拍系などをセットしていく。
ジタバタしないように 足をベッドに固定。体には重いエプロンのようなものをかけられる。おそらくこれはレントゲンを撮るときの鉛のエプロンだと思われるが、その時はなぜ?と思っていた。手術室にはOEC 3Dという機械があり、後から分かったことだがこれはレントゲン撮影しながら手術するための機械で、そのX線の被曝を防ぐための鉛のエプロンを被せられたのだった。(それにしても手術中にX線(レントゲン)を用いて透視画像を撮影できるって凄すぎる。。。学びが多い。)

そうこうしているうちに先生が「タイムアウトします!」とやや大きな声で言い、その瞬間(え?タイムアウト?もう手術始まってた?そのうえでタイムアウト?監督どこ???)とか思っていましたが、医療現場における「タイムアウト」はぜんぜん違う意味で。。。

医療現場におけるタイムアウトという言葉は、手術の際に使われます。執刀する直前に、医師や看護師などその場にいるスタッフが一斉に手を止めて、患者、手術法と手術部位の最終確認を行うといった意味になります。

医療コミュニティ つぼみクラブより

たぶん私はスラムダンクの観すぎ。。。🏀 とは言え、学びが多い。

まずは部分麻酔。指の付け根、第二関節、第一関節の横側、の3箇所に打ったのですが、それがめちゃくちゃ痛い!!まじで痛い!!本当に痛い!手術全部通してもこれが一番痛かった!!が、すぐに何も感じなくなった。麻酔すげぇ。でも手を持たれているとか、指を開いたとか、そういうことは分かる。
その後はドリルっぽい音(キュイーン。。。)がして色々と施術しているようで、「こっちこっち」
「あげて」
「もっと、もっと下」

などの声から想像するしかなかったのですが、ふと見上げると先程のOEC 3Dのモニタに何やら映っているではありませんか。うわーこれもしかして自分の右手。そして針金突き刺さってる!っていうかホネホネロックみたい,
もしくはDAFT PUNKのAround the worldみたいに動いてる!すごい!!

DAFT PUNKのAround the world MVより

針金を2本差し込んでそれを抜けないように折り曲げて手術終了。今回は幸い指を切ったりすること無く終了しました。この針金を付けたまま3〜4週間骨がくっつくのを待ち、針金を抜いて終了とのことです。

「何もできない」と、申し訳なく感じる

今回の怪我を通じて感じたのは「人はいつでも、誰でも、簡単に、死なない程度に役に立たなくなることがある」ということ。そしてそれは一時的かもしれないし、生きている間ずっとかもしれないし、役に立たないレベルがどんどん進行するかもしれない。それでも人は生きていくし、そのとき少しでも健やかに生きていければと思う。

今回のような怪我は”運要素”が大きい。たまたま自分だったけど公園には他の人もたくさんいたし、キャンプ場に行く途中であっても事故に合う可能性はゼロではないはずだ。ただそういったリスクを完璧に避けていたらそもそも生活なんてできないだろう。今自分が元気に過ごせているのは、自分の努力だけではなく運の要素が大きいのだ。たまたま運が良かっただけだ。

ではリスクが現実になったときどうするか?人にお願いをしたり、お金を払って賄うことになるだろう。今回であれば、キャンプ道具の片付けや、病院での治療、そしてそういった薬や機械を開発する人によって支えられている。その時頼る人がいなかったら?持ち合わせのお金がなかったら?やっぱりこれも運要素が大きい気がする。

改めて「自分はひとりで生きているのではなく、社会に、他者に生かされている」と感じた。一応まがりなりにも毎月必要なお金を稼ぎ、衣食住を満たしてはいるが、それができるのは働く環境としての会社があってお客様がいて、ご飯を食べるためのレストランや食材を買うためのスーパーがあり、その食材は世の中の誰かが作ってくれて、社会インフラとして道路や上下水道などは世の中の誰かによって整えられている。それは決して自分ひとりで成し得るものではなく、社会集団の中で実現するものである。
そう考えると、社会全体でようやく実現しているこの便利さや快適さは、限られた個人のみが享受するのではなく、社会全体で享受すべきである、と強く感じる。

先日聞いた「國分功一郎×斎藤幸平 哲学は危機の時代にどう立ち向かうか」で、このようなことを言っていた。

今の世の中は「社会の中で他の奴らが沈んでも自分だけはどう生き残るか?」みたいなことをみんなで必死に考えている。そういう時に私たちに欠落しているのは、「この今私たちがいろいろ享受しているもが過去の世代から引き受けたもの」であるという意識。そしてそれは次の世代に残していくべきものと言う意識。
その連続性を意識する想像力を私たちは失っている。ゆえに「他者」と言うものが想像できない。ここで言う「他者」とは、同じ社会の中で過ごす自分以外の人であり、パレスチナの人であり、私たちの子孫である未来に生きる人である。そういう人たちを想像できていない。
その想像力を取り戻すのが哲学かもしれない。

國分功一郎×斎藤幸平 哲学は危機の時代にどう立ち向かうか

今回自分が怪我をしてみて、ようやく他者を想像するキッカケを掴んだかもしれない。

社会の真の価値は、そのなかのもっとも弱いメンバーをいかに守るかによって決まる

ペーター ヴォールレーベン「樹木たちの知られざる生活」

もうひとつ感じたのは、今までできていたことができなくなりそれを他者にお願いするときの精神的な負担である。今回は右手が自由に動かせなくなったので、ペットボトルを開けるとか、荷物を持ってもらうということを他者にお願いすることが増えた。お願いする都度「申し訳ない」「ごめんねー」という精神的な負担を感じた。もちろんこれは感謝とほぼ同義であるし、今回であれば一時的なものなので相手も「仕方ないな〜」という感じで対応してくれていると思う。
しかしこれが永続的にお願いしなければいけないとしたらどうだろうか。お願いする側の精神的な負担は相当なものだろう。この負担を感じないようにするためお願いを諦めることもあるかもしれない。
この「お願いするときの精神的な負担」は、価値交換のサイクルで考えると「価値提供 ⇔ 精神的負債」と表現できる。この精神的負債を軽減するためにお金を支払う、すなわち「価値提供 ⇔ 対価の支払」とすることもあるだろう。

ここで前述の「この便利さや快適さは自分ひとりで享受するものではなく、社会全体で享受すべきである」に立ち返ると、お金の有無が便利さや快適さを享受する条件になっていることが分かる。社会の中で自分一人ではお金を稼ぐことはできないはずなのに、それを享受するときに「その個人がお金を持っているかどうか」が条件になってしまうのはなぜだろうか。もっというと「その個人がその時お金を持っているかどうか」が条件になってしまうのはなぜだろうか?

「精神的負債」を減らし、「その時お金を持っていないこと」による機会損失を減らす、そんな環境を作り、もっともっと価値交換が軽やかに巡るようにしたい。

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