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慶應大学講義『都市型ポップス概論』⑤  【作曲家・音楽プロデューサー村井邦彦】 (こたにな々)

●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】

『都市型ポップス概論』 第五回目

----------------2018.05.11 慶應義塾大学 三田キャンパス

講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)

どんな時代にも半歩先を歩く役割を背負う人がいる。

今だから見える70年代初期の音楽界の姿ー

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村井邦彦

1945年生まれ。作曲家・音楽プロデューサー。慶應義塾大学卒業。名門ジャスバンドサークル『慶應義塾大学ライトミュージックソサエティ』出身者。先輩には三保敬太郎や大野雄二がいる。

日本の音楽を世界的なレベルと同じ所にもっていきたいという目標を持っており、卒業後はライトミュージックソサエティの先輩達の協力も得て、日本コロムビア特約店の資格を持つレコード屋を始める。店で一番売れたのはジャッキー吉川とブルー・コメッツの『ブルー・シャトウ』で、洋楽っぽいこういう歌が売れるなら自分でも書けるはずと作曲家の道へ。

1967年『恋はみずいろ』が国内でもヒットしていたギリシャ出身の歌手ヴィッキーが来日。同じく慶応出身の先輩であるフィリップスレコード(当時はビクターレコードの一部門)の本城和治氏からの依頼で、ヴィッキーの『待ちくたびれた日曜日』を作曲し大ヒットさせる。これが村井邦彦の最初のヒット曲となる。

その後は、森山良子に『雨上がりのサンバ』ザ・テンプターズに書いた『エメラルドの伝説』が大ヒット。

ザ・タイガースのアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を担当した際には、当時サリーとしてバンドに在籍していた俳優の岸部一徳が後に番組で「村井さんの曲を弾くのが楽しかった。アイドルでありながらものを考え始めた時期に村井さんの曲に出会った。」と発言している。

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1969年 音楽出版社 ”アルファミュージック” を設立

(後の1977年には独立したレコード会社 ”アルファレコード”となる)

1969年「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」の関西・四国地区代表として出場し、グランプリを獲得したフォーク・グループの ”赤い鳥” をスカウトし、次年に村井邦彦が作曲した『翼をください』は合唱曲の定番曲となるほど有名となる。

そして1970年には歌手のミッキー・カーチス、内田裕也らと共に、日本初のインディーズレーベル ”マッシュルーム・レコード” を設立する。

レーベル第一弾アーティストのGAROはアルバムはある程度売れていたがヒット曲がなく、村井邦彦自身に加えて外部作家に依頼、アルバムからシングルカットした『美しすぎて』のB面 すぎやまこういち作曲の『学生街の喫茶店』が有線やラジオにより大ヒットする。

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60年代後半ポップスを巡って起きたことは、アマチュアとプロの対立。その対立の解決策として生まれたのが ”音楽プロデューサー” だったー

村井邦彦は、過去にGSを担当した際の方法論を生かし ”GARO” には作曲家として、そしてアマチュアの時期に発掘した ”赤い鳥” には作曲家・プロデューサー両面で対応した。

それまで芸能で力があったのが ”TV” ”レコード会社” ”大手音楽出版・大手プロダクション” という大きなトライアングルで、そこに入らないとレコードヒットはないと言われていた。

対して、”深夜ラジオ” ”レコード会社” ”コンサート” という、あらたな構築が生まれ、深夜ラジオは学生を対象にした番組を作り出した。

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アルファミュージックのスタイル

”ソニー” など制作・製造・宣伝販促・販売等すべてを持つメジャーのレコード会社に対し、”アルファミュージック” は販売・販促をメジャーに任せ、制作・宣伝を自社で行うというメジャー×インディーズという新しい手法の会社だった。

アルファがインディーズのあり方を変える以前は、”URC” に代表されるインディーズ(当時はメジャーレコードに対してもマイナーレコードと呼ばれていた)の販売は手売りに近いもので、制作・宣伝・販売すべてを、少人数で賄うものだった。

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一方フォークは分散して行く。カレッジ・フォークやプロテスト・ソングとは一線を画す文学的・芸術的な動きが出てくる。

●友部正人 『一本道』

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=XoejFRSY-RY

詩人・谷川俊太郎が認めたフォーク界の詩人が ”友部正人” だとすると、一方でロック界の詩人と呼ぶに相応しい ”松本隆” が登場する。

はっぴいえんどの『春よ来い』をカバーするハナレグミ永積タカシと、バックでドラム演奏する松本隆の映像。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=axEzAhqz_hw

●はっぴいえんどはアルバム『はっぴいえんど』でデビュー。
日本語で歌うロックの誕生だった。

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今日のキーパーソンである村井邦彦、松本隆、そして松任谷正隆...
音楽のシステムそのものを変える人には慶應出身者が多く、その周辺で起こっていた事が60年代を経て、70年代の音楽・ポップスシーンを作るー

ばらばらの動きのように見えていた人達が出会う。


荒井由実 デビューアルバム『ひこうき雲』

1年以上かけて無名だった新人のデビューアルバムが作られた。バックの演奏は、はっぴいえんど解散後の細野晴臣・鈴木茂を含むキャラメル・ママはっぴいえんどのメンバーと村井邦彦を繋げた ”ユーミン" の登場をもって ”ニュー・ミュージック” は加速することになる。

『ひこうき雲』リリース37年後の2010年には大切に保管された当時のマスターテープをユーミンや村井邦彦ら当事者達で集まって番組内で聴いている

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=duhyW1mkpcc

音楽プロデューサー業がビジネス的に確立するには、小室哲哉、小林武史の時代まで待たなければならない。しかしその出発点は70年代初期にあった。

次回へ!!!! https://note.mu/kurashi_no_nana/n/n89e7aa909a09

お読み下さってありがとうございました!

本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています

文:こたにな々 (ライター)  兵庫県出身・東京都在住  https://twitter.com/HiPlease7

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