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【備忘録SS】それは「優しい」ハンドオーヴァー

「引継書……ですか?」
「ああ、そうなんだ」
 四条畷紗季は、目の前で頭を抱えている彼女の上司、寝屋川慎司副部長に問い掛けた。

「さすがに、全く無いというのは。見間違いではないでしょうか?」
「ボクもそう思ったのだけれど、これが事実なんだよ」

 先月末、とある業務を委託していた外部の会社が倒産。
 急遽彼女達の部署でその業務を巻き取ることになったのだが、問題が発覚。
 それは、当該業務の主担当者が既に退職しており、業務の根幹となる部分を理解している者が誰もいないことであった。

「なんともまぁ、属人的な状況ですね」
「ウチのメンバーは優秀だから、せめてマニュアルが残っていれば楽だったのだが……」

 寝屋川のやや含みのある言葉に、紗季はん?と引っ掛かった。
「副部長のお話を聞く限りでは、本件を受ける前提で動いているようですが……」
「さすが四条畷さん、話が早い」
 芝居掛かったアクションでパチンと指を鳴らす寝屋川とは対照的に、紗季の頭には嫌な予感が広がってきた。
「まさか……」
「うん、本件は四条畷さんに、まるっとお任せするよ!」

「何ですか、それ。いくらイケメンだからと言って、部下に丸投げなんて酷いじゃないですか。いくらイケメンだからと言っても」
 大事なことは2回言うタイプの市川春香が、激痩せによって本来の美中年に戻った寝屋川の依頼に対して、ぶうぶうと不満を述べている。

「ウチに限らず、他の会社も困っているみたいですね」
 パソコンを操作していた本八幡ハジメが、こちらに画面を見せてくる。
 そこには、倒産したこの会社に業務を委託していた上場企業が、サービスの継続を断念した旨のリリースが記されていた。
「優秀な1人の人物に負荷が集中しているだけでなく、バックアップ体制もマトモに構築していなかったようですね」
「うわぁ……怖い」
「幸いウチは、複雑な業務を依頼していなかったので、時間は掛かりますが、何とか巻き取れそうです」
 別画面で情報システム部の担当者とやりとりをしていたハジメは、肩を竦めながら応えた。

「ん、何?解決の糸口が見えたのに、随分と浮かない顔をしているわね」
 彼の表情を見て、春香が不思議そうに尋ねる。
「いや……結構時間と手間の掛かる面倒な作業らしくて、見返りを要求されました」
「へえ、どんな要求?」
「その、今度食事に誘われまして……」
「えっ?情シスの担当者って、女性だったの?」
 彼の返答に驚いた春香。
「はい、市ヶ谷さんです」
「うわ、情シスのエースじゃない。ヘタしたらハジメ君引き抜かれるかもよ」

 市ヶ谷加那は、本社情報システム部の基幹システムグループの主任。卓越した技術とその美貌から『情シスの女帝』と呼ばれている。

「市川さん、一緒に付いてきてください」
「嫌よ、私絶対あのヒトに嫌われているから」
 本社部署をたらい回しに異動させられた経験のある春香は、市ヶ谷主任と業務に絡んだ経験がある。モチベーションが低下していた時期だったこともあって、あまり良い印象を持っていなかったのだ。

 ひと通りのやり取りが落ち着いたあと、紗季は静かに口を開いた。
「とりあえず、最悪の状況を脱することはできそうね。良い機会だから部内でも『引継書』に関して整理しておきたいわ」
 彼女が真面目モードに入ったことを察した2人は、居住まいを正して聞く姿勢に入る。

「異動の時期に注目されがちな引継書だけれど、対象となる業務自体は毎日行われている訳だよね」
「ええ」「そうですね」
 春香とハジメの同意を確認して、紗季は話を続ける。
「それならば、常日頃から私は『業務手順書』を作成しておくべきだと思っている」

「……なるほど」
 先に反応したのは春香だった。
「異動が多かったのでよく分かります。引継書の中身がスカスカで、大したことやっていないから大丈夫と言われたものに限って、とんでもない地雷が埋まっていたことありましたから」

「……業務手順書を整えておけば、いざ異動の際に焦ることないですからね。定期的に見直していけば、業務の自己チェックにもなるので一石二鳥です」
 ハジメも、納得顔で頷いている。

(件の業者さんも、業務手順書を作成する仕組みを構築していれば、ここまでの騒ぎにならなかったのかも知れないなぁ)

 紗季は、幾分複雑な気持ちになりながら、反面教師と割り切って、部内への浸透方法を考えることにした。

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