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ADHDは人に依存する/どこまでが特性として許すべきか?/フィルターは気休めか/and We dance

こんにちは。

脳の特性か、持って生まれた性格か、どちらかなんて区別できませんが、私はこれまで人に依存しながら生きてきました。
今ではADHDのひとつの特性として、ある程度自分を納得させて生きています。

そうやって自分が誰かにもたれかかって生きるのは、ある面では楽です。
そして、それは私のような特性の持ち主にとっては、至極当たり前の生き方でもある、という事をわかっていただきたい。
一部のADHD者にとって、依存することは生きることとほぼ同義でもあって、ごく自然な行為のように思えます。

考えてみれば、子供の頃からずっと、ひとりが苦手だった。
小学生の頃、誰でもいいから一緒に行動していないと不安だった。
でも一方で、子供ながらに、ひとりでもいろんなところへ行ったり、なんでもできそうな人もいた。
私はそういう人が不思議だった。私の価値観からすれば、ひとりは怖くて惨めで、できるだけ避けたい事態だったから。
だから子供のころはずっと、その時に親しかった誰かにベッタリだったし、そうでない時は親しいグループにいたがった。それは別に、私が友達を作りやすい性格だからではなくて、単に誰かにくっついていないと不安で仕方ないだけだったのです。

思春期になり、誰かにべったりくっついているというのも難しくなった。
その頃には、その事で割と真剣に傷つくことになった。
大人になり、基本的にはひとりで行動しない事には生きていけなくなった。
だから否応なくひとりで色々なところへ行くしかなかった。
その過程で言い表せないほど多く、傷つき、なにかを失い、又はそれを乗り越えて、少しずつ成長した。
私はひとりでもある程度普通に行動できるようになった。
でも同時に、けっこう巨大な寂しさを常に、背中の上の方にどっしりと感じていた気がする。

純粋に人に依存する話。
恋人ができれば、それはもう四六時中行動を共にしていたかった。
それが私の価値観からすれば通常のことなのだ。
恋人ができて、もう急にべったりになる奴は結構いる。
そのせいで友達からは嫌われるようになる。
私のべったりが、常識の範囲内なのかどうかは自分ではもうわからない。
ただ、具体的に話すと、会えるなら時間が許す限り会うし、会えないなら時間が許す限り電話して話す。話せないならメールなりLINEする。
起きて、互いが学校なり仕事なりで現実的にコミュニケーション不可能の時間以外は、連絡を取る。
だから、相手もそれに耐えうる人でなくてはならない。
ゆくゆくは同棲したいと考える。難しいなら半同棲のような生活になる。
それは愛の大きさとはまた別の話である。

こんな話を聞いていると、それって疲れるんじゃないか?と思われそうだが、確かに移動にかける時間も労力も多くて、人よりも疲れるに違いない。
だからといって、その生活を変えようなどとは思わない。
早く同棲なり結婚すれば移動しなくて済むようになるのになーと、頭の中はそんな感じになる。
ただそれは、一緒にいられる人とずっといたいだけなのだ。

しかし同時に、面倒くさいという気持ちもしっかりと存在する。
だから、約束している日でも、寝坊もするし遅刻もする。
それもしょっちゅう。日常茶飯事で。
それが何度も続いて、遅刻グセが直りそうにないなと思われれば、愛想を尽かされる事になる。

なんでそんなことになってしまうのか?
約束をするとき、私は自分が寝坊をするなんて思いもしない。
しかし夜は夜更かしをしがちで、あまり眠れずに朝になり、その時には少しくらい遅れてもいいやと思いはじめる。
その時点で、支度をしてから家を出たところで遅刻するのは確定している。
そう考えるといっそう身体は重い。昨晩の決意はとうに吹っ飛んでいる。すると突然自分に甘くなる。
眠気に勝てない。少しくらい遅れてもいいや、となってしまう。

このときの頭の中の働きは、ADHD特性を当てはめてみると、簡単に理解できる。
衝動性。
約束する時点では、次の日の楽しいことしか考えていない私は、頭の中もハッピーでいっぱいだ。
朝起きるのが死ぬほど苦手だなんていう事実には、微塵も気にかけない。というか思い出せない。
目の前の気持ちを優先。優先順位の崩壊。
いざ起きると、寝不足のため眠気に襲われる。もっと寝たい。その一心。
さすがに約束のことは思い出す。でも、天秤にかけた結果、目の前の眠気が勝ってしまう。

こんなやつを、長い間大目に見てくれる人は多くはない。
実際さっさと振られて、なにかを学んだ方が本人のためだと思う。
それに学んだところで、次に活かせるかどうかはまた別問題になる。

このように、これまでの失敗をADHDのフィルターをかざして見てみると、驚くほどすっきりと理解できる。
だけど、私が自分のADHD特性を意識しはじめたのはつい最近のことである。
それまでは、そのADHD的な特性はただの“ダメ人間要素"として捉えてきた。
実際にはまだ正確にADHDと診断はされていないので、今でもそれはちゃんとダメ人間要素のままでもある。
私はダメ人間要素満載の人間だ。
その事でずっと悩み続けてきた。
40年近く、自分を事あるごとにダメ人間認定しながら生きてきた。
当たり前のことだけど、それは精神を深く傷つける。

でも、ADHDが確定したところで、全てが救われるとは思っていない。
確かに依存も遅刻もADHDの特性には違いないのだが、それだけで片付けられるほど人の精神は単純にできていない。
実際にADHDなのだとしても、それを大なり小なり克服して生きている人だって相当数いるはずなのだ。
もっと言えば、発達障害なんて概念を知る事なく生きてきた人たちだって、とんでもなく多く存在しているはずである。
少なくとも、数ヶ月前の私だって、そうだったのだから。
ここ10年くらいで発達障害という言葉をよく目にするようになった。
逆に言えば、それまでは、お世辞にも認知度が高かったとは言えない。
実際には、そんな概念すら知らずに生きてきた人がほとんどではないだろうか。

発達障害というフィルターはきっと、今後ますます拡大していくのだろうと思う。
それで救われる気になる人も相当数いるのだろう。
でも、じゃあ、診断されたのなら、自分の本質的なパーソナリティは全てが発達障害によるものなのだろうか?
それはわからない。
わからないけれど、そんなはずはないとも考えている。
発達障害的なパーソナリティも、それを除いた自分のパーソナリティも、それは分離不可能に違いないと信じているけれど、どちらも自分なのだと考える以外、現実的な選択肢は無いのではないか。
それが今のところの私の、基本的な考え方である。

もっと深刻に、ADHDもASDもLDも、他の二次的な障害や病気を深い形で抱えて生きている人についてはまた別の考え方ができると思う。
重い発達障害を持っている人では、また別のフィルターが必要になるのだと思う。
あくまで私の場合は、例えば緑色のセロハンのプレートを本にかざせばシンプルに問題が可視化しやすいだけなのだと思う。
発達障害はグラデーションだ。
そんなペラペラのセロハンでは太刀打ちできないほどの障害を抱えている人がいる事も知っている。
最終的にはその人個人が、その人に合うフィルターを見つけられるかどうかという話なのだろう。
そして仮に、フィルターを見つけられたとしても、ただ過去の行動が障害的かどうか判別しやすくなるだけの話で、根本的な解決などには到底至らないのも理解している。
でも私の場合は、それで少しだけ頭の中はすっきりできる。
それによって少しは救われることになる。
自分がその程度の障害である事を感謝するべきなのだろうと思う。

相変わらず、巨大な寂しさは背中の上の方でどっしりと私を押しつぶそうとしている。
そのせいで私はまだ人への依存からは抜け出せないでいるのだけど、きっとこれは消える事なんてないんだろうな。


相変わらずなにが言いたいんでしょうね?私は。
過集中を利用して書くのは楽しいのだけど、理路整然とした文章を書けるかどうかは別問題なのだと毎回落ち込むのです。


これだけだと暗すぎて気が滅入るので、ひとつ好きな曲を紹介する事にします。

We dance/Pavement
90'USインディー・オルタナシーンのレジェンドの一つ。
その中のローファイというジャンルの代表的なバンド。
高校生の頃からずっと聴き続けてきた大好きなバンドです。

最近はとある曲がTikTokでバズったりしたらしい。
この曲はバンドの中でもあまり有名な曲ではないかもしれないけど、個人的に大好きな曲です。
歌詞は相変わらず抽象的で難解ですが、どこか暖かい曲調とボーカルは聴く人を励ましてくれます。
是非聴いてみてください。


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