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「無垢の祈り」とわたしの祈り


※※私は文章を書くのが苦手です。またナチュラルにネタバレが含まれます。※※

無垢の祈りのあらすじをざっくり説明すると、虐待する義父、宗教狂いの母親がいて、まだ小学生のフミちゃんは学校でもイジメにもあっています。
ランドセルの表面もジャグジャグに刻まれています。先生は知っていながら見て見ぬ振りです。
大人は誰も助けてはくれません。むしろ宗教の餌食にされて生きながらえるか、暴力に耐えかねて死ぬかという状態まで追い込まれます。そんな地獄の日々の中で「連続殺人鬼」に会いたいフミちゃんがいます。

フミちゃんにとって、この世界を破壊してくれる、生命としての刺激を与えてくれるものは「連続殺人鬼」の情報だけでした。
フミちゃんは特定の人を殺した殺人鬼のファンになり、理不尽な家庭環境にありながらその追っかけをするようになります。とにかく大人には頼れず、殺人鬼に会うことだけが生きる希望なのです。

「無垢の祈り」というのは平山夢明の「独白するユニバーサル横メルカトル」という読み切り作品のひとつです。無垢の祈りは映画化されて、アップリンクで公開中です。

無垢の祈りへのこだわり

こう言っては大変厚かましいのですが、私もフミちゃんほどはないにせよ、描かれる家庭環境が「自分に近く」勝手に親近感が湧いていました。

うちは浄土真宗と新興宗教を混ぜて、警察官の洗脳が入っている家庭ですが、「父親が決めた独自の宗教」が一番色濃く出た家庭環境でした。
毎日、何がキッカケで殴られるのかわかりませんでした。父親が子供の眼前のテーブルに足をおき、それをしゃぶっていれば「俺の足を舐めている」「垢が取れた」と悦び、子供も母親も殴られずに済んだので当時は暗黙の了解でした。(書いてて吐きそう…)

父親は機嫌が良い時には捨て犬や野良猫を拾ってきました。機嫌を損ねたり、思い通りにならないと子供達への見せしめとして殺しました。私たちは感情を殺し、常に機嫌を伺い親の顔色ばかりを窺うようになりました。
父親本人は「殺す気なんてなかった」と言うでしょう。最近の動物愛護法を見ていてもそんなものです。昔はそんな法律もなかったので躾だと言ってよく犬を蹴っていました。
体調不良を訴える犬が腹を壊し散歩まで待てず庭で下痢をしたから"蹴る"であり、躾の範疇を超えていました。
犬の散歩中に山の斜面から「首吊り」状態にしてどうなるのかを観察していたこともあります。(首輪には今のように安全バックルのようなものがなかった時代です)子供心にどう見ても納得のいくものではありませんでした。
犬や猫はとても賢く、よく脱走してそのままいなくなりました。
いなくなると、寂しさよりも"殺されないこと"にホッとしたものです。

母親はそんな子供たちに「どうしてアンタたちは無関心でいるのか?」と泣きながら問いますが、理由は簡単で怒ったり泣いたりすればまた殴られるだけで時間とエネルギーの無駄だったのです。イジメに対してもそうですが、無反応であることが正解だと思っているからです。

殴られることに関しても、子供が嘔吐したり糞尿を垂れ流すと「汚い!」と言って避けます。子供はそれを生きながらえる術として記憶するのです。ここで汚物を出すと片付けに呼ばれるのは母親でした。つまり父親が子供を殴っている時、母親は遠くから見ているだけなのです。守ったら自分が殴られるとわかっているから父親のヒステリーを止められない。助けなんかこない、誰にも期待しない。

虐待を受けている子供は大人になってからも手を挙げる仕草でビクッと反応するなんてものがありますが、うちの場合は「正座しろ」「両手は膝の上」「歯を食いしばれ」が殴りだす前の合図なので自分の身を守るような行動を取ると父親の逆鱗に触れました。「俺が悪いと言いたいのか!」となるので時短のために力を抜くことが最優先でした。暴力のために別室に呼ばれます。今日は何時に終わるの?

テレビはバラエティ番組、音楽番組が禁止で、当時「学校へ行こう!」「電波少年」「SMAP」などが流行っていましたが、20:00以降の番組についてもよく知りません。もちろん学校で番組の話もタレントの話も全くついていけずイジメとまではいきませんがただただ孤立していきました。そういう惨めな経験はよく覚えています。音を出すことは許されなかったので絵を描いていましたが、父親に見つかると「そんな絵の描き方では上手くならない」と否定的なことを言われては殴られていました(なんで?)そういえば父親はやたら子供のノートをチェックしていました。家のことが書かれていないかチェックしていたのでしょう。自分の職業が「警察官である」と世間に言ってはならないという謎のルールがあり、子供の私たちには父親が何をしているのか秘密でした。警察官を親に持つ子供に聞く機会があったのでそういう身内のルールがあるのか聞いたら「それはなかったかな〜」と言われます。(本当になに?)
お小遣いも無かったのでよく貯金箱から30円を盗んでいました。(駄菓子代?)

「〇〇の家」という宗教が嫌いでした。母は宗教じゃないよ〜なんて笑っていました。子供を預けてラクできるシステムくらいにしか思っていません。今現在もです。
マルチで壺を売ったり、水を買ったりすることだけが宗教だと思ってるみたいです。めちゃくちゃ無知なのでカモなんですよね。

家族構成としては私には3つ下の妹と5つ下の弟がいます。3人兄弟です。父親と母親、合わせて5人家族です。
3人兄弟、お小遣い無し、お昼ご飯代は3人で500円でした。お昼ご飯を食べずに500円を山分けして各々過ごしました。これが、兄弟3人摂食障害になった一因でもあります。(一番は食事中の支配や暴力ですが)子供を3人まとめて宗教の家にぶち込んで母親は家でゆっくりできたのでしょうが、ぶち込まれた方はたまったものではありませんでした。

お布施のことも、宿泊費だと思っているのです。
宗教というのは親切であり言葉のすり替えも巧妙なんですよね。
子供が嫌だと言っていても、勧誘のお姉さんは親を説得して子供の私たちを無理やり入れさせていました。(余談ですが宗教のお姉さんは美人が多いです)

ちなみに泊まる人は携帯カメラ録音機などは入り口で全て預けねばならず、ブログへの投稿は体験談のみとなり、証拠等は残せませんでした。

当時、ニュースで報道されるちょっとした事件の「誘拐される」ことに異様な憧れがありました。ここではないどこかに連れて行ってもらえることに憧れていたのです。
火を囲んでお祈りなどしたくはなかったし、みんなで不味い飯を食べるのも嫌いでした。水晶も嫌いです。雑魚寝も嫌でした。普通にテレビを見て漫画を読んで笑って生活したかったです。
普通に生きるとはなんなのか、私は今でもわかりません。

私は高校に行く予定がありませんでした。当時、お小遣いがなかったのでお金が欲しかったのです。お金さえあればきっと満たされるのだと思っていました。とにかくバイトでもなんでもいいから早く働きたかったのです。

ところがある私立の高校から「うちに部活の特待生として入らないか?」と誘われました。母も「高校くらいは出ておいた方が良い」という考えでした。今のまま働くより高校を出ておいた方が職業の選択の幅が広がり、稼ぎやすくなると言われて私は渋々その高校に行くことにしました。私は頭が悪く、算数もろくにできませんしケーキも3等分にできません。

高校の様子は変でした。私が特待生にも関わらず部員は私1人。
「来年にはまた強い生徒を引き抜いてくるから、お前はこの部を育ててくれ。それが役割だ」と言われて新入部員への指導も私が全部やる話になりました。これはアカデミックハラスメントなのですが、私は(強くないのになぜ私が特待生なんだろう)と疑問に思っても、指導がメインとされると不思議に思いませんでした。

また行きたくもない高校に行ったことを「特待生だったから」でよく片付けますが、それは本当です。

ただ、私はその年に1人で県大会から全国大会に出ることになりました。
その時、私を引き抜いた顧問が引率でした。

顧問は大会に出た旅費を横領し、姿を消しました。
私は実力不足の特待生であり、「横領のために使われた捨て駒」でした。
学校からしても私の処分に困ったみたいです。(このまま特待で置くかどうか)中高と同じ学校に通った絵描きの友達(今でも遊んでもらってる)ができたのでまあいいでしょう。横領はよくないぞ!半分寄越せ!

虐待、宗教、学校、ここまでの"劣悪"がフミちゃんと重ねてしまうことと「殺人鬼」への憧れについて書こうと思います。

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自傷(リストカット)を繰り返しながらなんとか出席日数を稼ぎ通った高校時代。もうヘトヘトでした。
私は精神科に憧れており、世間体を気にする母親を説得してなんとか精神科を受診した功績があります。(この行動のおかげで後々助かります)

私が19歳の頃、飲食店でバイトを始めていました。
時給は最低賃金の615円(当時)その日、賄いのナポリタンを初めて作っていて帰り時間が20分ほど遅くなりました。
夜も遅いので大学生の女先輩が帰り道原付を押して家まで送ってくれました。
先輩の原付は常にミラーが折れていたり、ライトが点灯しなかったりいつも不具合を抱えていましたが、本人は馬鹿なのか優しいだけなのか原付を押し遠回りしてまで私を家まで送ってくれました。
なんだかんだ私はその先輩がドジで大好きでした。当時やってたはてなダイアリーだとかmixiのようなブログやSNS(?)によく登場していたと思います。

そんなバイトの帰り道、ガラケーに連絡が届いていました。家の前にパトカーと救急車が止まっていました。シャッターの降りた商店街を照らす赤いライトは、私の胸を高鳴らせました。緊張と期待で顔がニヤけてしまいました。

支配と暴力に耐えかねた妹が父親を滅多刺しにした


というものでした。母親が警察に連行されていくところを見て「お母さんだ」と声をかけましたが「家の中、手伝って!」みたいなことを言われたような気がします。こういうところで小声なのも結局は世間体ばかり大事にして子供のことを後回しにしていくからなんですよね。
先輩はミラーが折れてて警察に見つかりたくないので事件のことよりも「また明日ね!」というようにUターンして帰って行きました。「ありがとう…」と言ったか言わないか辺りで私は家へ走りました。ずっと赤色灯の中を走り続けたかったです。父親が死んでるかもしれないという期待で、笑みが溢れます。

家に帰ると「あなたはこの家の人間かどうか」を聞かれました。私は家の者であることと「お風呂は無事なのか」 を尋ねました。水場が血液で汚れると封鎖されてしまうからです。飲食店は臭いので一刻も早くお風呂に入りたい。

ドラマのように現場検証がなされており、また中は終わったのであとは玄関だけ見るねとのことでした。
一番下の弟はあちこちに飛び散った血の片付けをしていました。血まみれで暴れると指の形やらがあちこちに残るんですね。
私は玄関にまだ警察官がいるにも関わらず興奮気味に弟に「アイツは死んだのか?」と尋ねました。
「フフッ、死んでない。歩いて救急車乗った。」と背中越しに返事がきました。
私は「なんで殺さんかったん?」と不機嫌になりつつ「ねえ、ナポリタン作ったんやけど、食べたことある?ナポリタンって。ちょうどこいつの血みたいな色だよ」とまあまあ最悪なジョークを交えつつ血塗れのリビングで賄いのナポリタンを食べました。父親の顔色を一切気にせず、食べ物を食べられる環境が新鮮だったのをよく覚えています。また19歳になり初めて知る食べ物ばかりだったのも衝撃でした。その後父親は包帯ぐるぐるで当たり前のように帰宅しました。復活が早すぎるだろ…眼球に指を捻じ込んだかなんかで白目の部分が黄色になっていました。妹は留置所(拘置場?)に一泊するハメになりました。どうして…

妹が使用した刃物(凶器)はカッターでしたが40針縫うような怪我をおわせ、さらに頸動脈を狙っていたために取調べでは殺意があったとされました。少年法で守られる年齢ながらも殺人未遂として起訴される予定でした。
これは教育上最悪ですが、父親は世間体を選び、妹を起訴しませんでした。
その後妹は性同一性障害で戸籍が変わり、キラキラネームも自分で好きな名前に変えてしまいました。


戸籍が変わると過去の犯罪歴が消えます。ゲームのリセットと同じです。


そして豪遊に次ぐ豪遊で、現在は自己破産手続き中です。

「身内である父親を物理的に殺しにいく行動」を取った妹は本来、社会的には異常個体なのですが、私にとって妹が唯一この父親を殺してくれる存在に思えたのです。

もし、これが起訴されてニュースになれば親を殺害しようとした悪い子供として報道されたのでしょうが、私にとって妹はこの鬱屈としていた世界に色を落としてくれるヒーローだったのです。

そんな経験を無垢の祈りのフミちゃんに重ねています。
殺人鬼に会いたいのは、クソみたいな世界を壊してくれることへの期待と憧れです。だから映画版の「無垢の祈り」についてラストで泣きながら「殺してください!」と叫んだことに怒りを覚えたのです。

フミちゃん視点の殺人鬼と、わたし視点の妹はヒーローで「同じ」だったのです。