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4. 本で冒険する! 『談話分析の可能性 ―理論・方法・日本語の表現性』 くろしお出版 1997

文から談話への冒険

日本語には、文という単位を中心にした統語論の枠組みだけでは解決できない課題が多い。この印象は、実際に使われている日本語の姿を観察するとさらに強くなる。そしてこれは、筆者が「は」の談話機能をテーマにした博士論文を提出した1980年から持ち続けていた意識でもあった。確かに「は」の持つ意味は談話上の機能としてであり、その意味を孤立した文の中だけに発見することはできない。もっとも、1990年代に入ると、日本語研究は裾野を広げ、社会言語学、語用論、会話分析、文より大きな単位を分析の対象とする談話・ディスコースの研究、などの動向も認められるようになってきていた。

海外では1980年にオランダの言語学者Teun A. van Dijk氏によって『TEXT: An Interdisciplinary Journal for the Study of Discourse』という談話研究・テキスト分析の学術誌が生まれ、それを契機に談話の研究が次第に盛んになってきていた。そんな中、筆者は、日本語研究に海外の談話研究とは一味違う、独自の談話分析を可能とする分野を打ち立てたいと思うようになっていた。

『談話分析の可能性 ―理論・方法・日本語の表現性』は、その頃筆者が思い描いていた談話分析という分野の紹介を試みた拙著である。まず、海外の談話分析の枠組みとして、プラーグ学派の貢献、M. A. K. Hallidayの体系機能文法、テキスト言語学、タグミーミックスの枠組み、社会言語学的談話分析などを紹介する。日本の文章論から、時枝誠記の文章論、永野賢の文法論的文章論を紹介する。さらに談話分析を支える研究領域として、Michail M. Bakhtinの文学論における語る「声」とテキストの対話性をあげ、談話分析を応用する研究領域として、対照談話分析、クリティカル・ディスコース分析を紹介する。その過程で、データの質、理論・分析の手法、残された課題などに触れる。盛沢山の内容なのだが、談話分析という分野でどんな動向があるか紹介し、それらを踏まえた上で実際の日本語の談話分析を試みるという構造だったため、このような内容になったことを覚えている。本の後半では、幾つか筆者が試みた独自の談話分析の結果を報告している。

対照談話分析の一例

ここで、簡単に分析の一例として筆者が試みた対照談話分析をあげておきたい。日米文学作品における名詞化表現のレトリックの比較である。データには、原作と翻訳の4作品、安部公房の『他人の顔』(新潮社 1968)と、その英訳としてE. Dale Saundersの『The Face of Another』(Alfred Knopf 1966)、Saul Bellowの 『Dangling Man』(Penguin Books 1988)とその和訳として太田稔の『宙ぶらりんの男』(新潮社 1971)を選んだ。冒頭の500の文に出てくる名詞述語文、それと同様の効果をもたらすとされる英文表現の頻度を比較した研究である。具体的には、日本語の名詞述語文(主節に使われる、のだ、ことだ、ものだ、わけだ)、と、英語のthat, if, whetherに導かれる名詞句、動詞のing形、toプラス動詞に導かれる句とを比較した。具体例をあげると、『他人の顔』で、「……それでは、ここで、ぼくの時間に遡ることにしよう」(p.6)と「こと」表現が使われるが、『The Face of Another』では、「Well then, let’s trace back the skein of my hours.」(p.4)となっていて、名詞述語文に対応する表現は使われていない。

名詞述語文が占める割合は、『他人の顔』では、32.60%、『The Face of Another』では3.53%、『Dangling Man』 では2.60%、『宙ぶらりんの男』では15.12%という結果になった。日本語の場合は、原作においても翻訳においても広範囲にわたって名詞述語的表現が使われる。英語では、原作でも翻訳でも4%以下の頻度に過ぎない。

この頻度の差は何を意味しているのだろう。名詞述語文の英訳では、話し手の視点を通して、言語主体の存在が意識される。さらに英語では、時制の転換によって、感情や思考内容と、回想部分とを区別し、文副詞で補うこともある。日本語で頻繁に使われる名詞述語文は、説明的・回想的な文脈を構成し、その文脈の一貫性を保つことができるが、英語ではこの手法は好まれず、あまり使用されていない。このため、日英語の文学作品の間には、意味の過不足が生まれることは避けられず、翻訳では伝わらない表現性があることが確認できる。なお、この研究から20年後になるが、筆者は日本語の原作と英訳、外国語(英語とポルトガル語)の原作と和訳の文章(合計32作品)を翻訳論の立場から分析したことがある(『日本語本質論 ―翻訳テクスト分析が映し出す姿』(明治書院 2019)。本書で試みた対照談話分析という手法が、後の研究の支えになったように思う。

この日本語と英語の表現性の差は、池上嘉彦の「こと」化と「もの」化という概念に照応する。池上は『「する」と「なる」の言語学 ―言語と文化のタイポロジーへの試論』(大修館書店 1981)の中で、日本語は「なる的」であると主張するが、同時に「こと的」でもあると結論付けている。「もの」は個体中心的な見方から生み出されるものであり(例えば、歩く人間)、一方「こと」は全体的状況を把握する(例えば、春の到来)。日本語では「こと」的な捉え方が優位に立っているが、英語では「もの」的な傾向が強い。

対照談話分析として試みた文学作品の原作と翻訳の比較から、日本語の文章には、「こと」的表現が重要であることがわかる。日本語では、「もの」を含んだ状況としての「こと」を前面に打ち出し、できごとがまとめて提示される。個体に焦点を当てることを控える傾向がある日本語では、その分、人間が中心となることも少なくなる。

なお、日本語では、名詞化という操作自体が、特にコメント文やテーマ・レーマ構造の中で生かされ、テキストに「こと」的表現の相乗効果をもたらすことも事実である。このため、提題に対応する結びのレトリックが日本語の基底に流れていて、それを具現化する言語構造のひとつとして名詞化表現があると理解することもできる。筆者は、さらに、日本語の奥底に潜んでいるある種のエネルギーとも言える何かが、本書で紹介する「パトスのレトリック」を可能にしていると考えていた。

あくまで個人的な事情

現在、海外の学術誌の中で、広義の談話分析に焦点を当てたものに、Sage社出版の『Discourse Studies』がある。Teun A. van Dijk氏によるもので、2023年現在Vol. 25 が出版されている。本誌のHonorary Boardには、各研究領域から談話研究に貢献なさった世界的に著名な学者の方たちのお名前が連なっている。この分野の研究に興味を持つ日本語研究者の方には、まず、リストアップされている研究者の方々の業績をチェックすることをお勧めする。(筆者はAdvisory Boardの「はしくれ」として(本当に、はしくれです!)、参加させていただいている。)

なお、この学術誌の前身は、先に触れた『TEXT: An Interdisciplinary Journal for the Study of Discourse』(1988年から1997年までと記憶している)である。筆者の論文も掲載されたことがある(Senko K. Maynard 1992. Cognitive and pragmatic messages of a syntactic choice: A case of the Japanese commentary predicate n(o) da. TEXT, 12, 563-613)。筆者は当初、Advisory Boardのメンバーに入れていただいたこともあり、ディスコース分析・研究に燃えていた!(ある研究仲間が筆者のことを「談話研究に対するパッションがすごーい」と笑っていたが、その通りだった。)実は筆者はVan Dijk氏を存じ上げてはいるが、直接お会いしたことはない。しかし、さすが、学問のひとつの流れを生み出した方だけあって、大変エネルギッシュで、しかも親切、面倒見がいいという印象を受けた。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
泉子・K・メイナード『談話分析の可能性 ―理論・方法・日本語の表現性』1997年刊 くろしお出版
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