見出し画像

【短編】パンとビール(1/3)

(3,314文字)

あらすじ:看護師の綾子と何でも一緒に住むようになって二年。私は、珍しく定時で夜勤を終えた綾子と朝食の食卓に着いた。いつもと違う様子に心当たりがある私は、たわいもない話で綾子の心をほぐそうと試みる……。

 綾子が何か言った時、私は考え事をしていた。いや正確に言うと何かを思い出そうとしていたのだ。そしてもう少しでその尻尾を捕まえられるところだった。
「ねえっ」
 綾子の声が再び割り込んできた。少しいらだったような口ぶりだった。
「ん?」
 頭をもたげた途端、それは私の手をするりと逃れて記憶の淵を転げ落ちていった。私は咄嗟に左手の中指を引っ張ったが、こうなるともうだめだ。何を思い出そうとしていたのかさえも分からなくなってしまった。

「もう、聞いてなかったでしょう」
「ごめん。何だっけ」
「朝からぼーっとしてると早く老け込むわよ。パンをビールに浸して食べるってのは、どう? って話よ」
 綾子が何の前触れも無く突拍子なことを言うのは、今に始まったことではない。いつも私は聞き流さずにきちんと一旦は受け止める。
「パンをビールに、かい?」
「そうよ。どんな味がするか、想像できる?」
「えーっ、それぞれ単品で十分美味しいのに。なぜそんなことするのか、僕には分からないね。そんなのは神へのぼうとくだよ」
「まあ大げさね。たとえばの話よ。たまたま、あなたがパンをかじっていて、私がビールを飲んでいたから、そう言ったまでよ」

 そう、その日、私が少し遅めの朝食をっているテーブルの対面で、綾子はグラスを傾けていた。仕事で嫌なことでもあったのか、それとも疲れが溜まっているのか、少し気分がささくれているようだ。
 朝っぱらからビール? と眉をしかめる方もおいでだろうが、ただ綾子の名誉のために申し添えておくと、彼女は決してアルコール依存症でも中毒症でもない。看護師である綾子は、夜勤明けで今し方帰宅して、仮眠する前に緊張しっぱなしだった神経を和らげようとしているだけなのだ。
 空腹にビールはよくないと思うが、「食べてすぐ寝る方がよほど体に悪いのよ」とのたまう。我田引水という言葉がちらりと浮かぶが、ここは黙って専門家のご意見として拝受することにする。

「それにしても、どうかと思うな、その組み合わせは」
「そんなことないわ。ビールを使った料理だって、たくさんあるでしょう。たぶんドイツとかベルギー辺りの料理とかに……。ともかく肉をビールで煮込めば、とても柔らかくなるのは確かよ。隠し味としてカレーに加えるのもありかもね。大人の味ってやつでね」
 んーっ、ちょっと寒いわね。そうつぶやきながら、綾子は一旦席を外した。

 さて、私は決まって七時から七時半の間に朝食をり始める。土日や祝日でも、それは変わらない。一方、綾子の仕事は大抵四日に一度の割合で夜間勤務がある。夜間勤務は午前六時までのはずなのだが、時間通りに終わって帰ってきたためしがない。入院患者の容態が急変したとか、引き継ぎが長引いたとか、理由は様々だ。命に関わる仕事だから、それは致し方ないのかも知れない。と言うわけで、今日のように夜勤明けの綾子が私の目の前にいることは実はとても珍しいことなのだ。

 ところで、綾子は缶ビールを飲む時には必ずグラスに注ぎ直す。そういう律儀さを、私は気に入っている。
「誰かが触れたかも知れない物に、直接口を付けるのはちょっとね……」
 はばかられるらしい。ごもっともである。私はそんなこと気にしたこともなかったが、そう言われれば確かにそうだ。それきり私も缶の口をしつかり拭くようになった。だが本音は、缶ビールに限らず缶入りの飲み物全般に言えることなのだが、私は飲み口から直に飲む女性の仕草を横から眺めるのが好きなのだ。特に綾子の場合、上唇のめくれ具合がわく的だし、飲み込む度に動く喉がとても魅惑的だと思っている。

 それはともあれ、グラスで飲むのは面倒ではないのかと思うのだが、彼女いわく「昔からの癖なの」だそうだ。「この方が美味しいわよ」と、私にも同じ飲み方を勧める。だが、私は今のところ変える気はない。
 そもそも彼女はワイン党だったそうだ。ただ帰宅途中で、しかも早朝に開いている店はコンビニぐらいしかなく、そこにはワインが置いてなかったこともあってビールに変えたのだと言う。
「それにワインを一本空けたら飲み過ぎだし、かと言って封を切ったらその瞬間から風味は落ちていくし……」
 残りを料理で使うにもメニューが限られるからと更なる理由も並び立てるが、この点に関しては同意しかねる。なぜなら私は綾子がそんな手の込んだものを作ったのをまだ見たことがないからだ。

「もう年かしらねえ。昔は、お酒がなくてもベッドに入ればバタンキュウだったのに」
 日頃は「まだ若いから……」を乱発している口が、たまにそうこぼす。『バタンキュウ』という表現も古い。綾子にとってどこが『若い』と『年だ』の境目なのだろうか。そのうち話題に上げてみよう。
 それは兎も角、綾子は今ではすっかりビール党である。好みの銘柄は大体決まっているのだが、時折違う物を買ってくる。「限定品や新しい物に弱くて、ついつい手が伸びてしまうの」だそうだ。「それに毎日同じものだと飽きてくるじゃない」と今日も見慣れぬラベルのものを傾けている。

 さて、しばらくして綾子はカーディガンを羽織って戻って来た。
「フレンチトーストだって、そうよ」
 席に着くなり、いきなり話が飛んだ。どういう流れか分からないが、寝室までの往復の間も彼女の中では、話が途切れることなく続いていたのだろうか。
「あれって、卵と砂糖を溶いた牛乳の中にパンを浸して、バターを引いたプライパンで両面を焼くのよね。あんなべちょべちょでぶよぶよしたのを口にするなんて、想像しただけでぞっとしたものよ。でもね、いつだったか喫茶店で友だちに無理矢理食べさせられたことがあって、これが案外いけたのよ。それって食べず嫌いってやつよね。あなたにもあるでしょう、その手の一つや二つは」
「ああ。で、『パンをビールに』って話はどうなったのかな」

 しかし彼女はぐっと一気にグラスの残りを飲み干して、「はい。ビールが無くなったから」と話を打ち切り、缶をゴミ箱に捨て、グラスを流しに置いた。綾子は元々おしやべり好きだが、今日はいつになくじようぜつだ。少し無理しているような気がする。

「ところで、まだやってるの? 何でも屋だっけ?」
「ああ」
「いつまで続ける積もり?」
「そろそろ地に足を付けた仕事をって、考えないこともないんだけどね」
「それはサラリーマンになるってこと? いつも早起きなのは感心だけど、そんな甘いもんじゃないぞ、ってね。そもそもどうして会社辞めたの?」
「いや正確には内定を辞退したんだよ」
「どちらも大差ないわよ。どの道サラリーマンにはなりたくなかったんでしょう」

「自分でもよく分からないんだよ。大した志望もなく、何となく入社試験を受けて内定をもらったんだけど、その一方で本当に入りたかった奴が落ちたんだなって、そんなこと考えていたら、僕はこのままサラリーマンになっていいのかなって疑問に思ったんだ」
「考えすぎよ。面接官があなたの方を選んだんだから、そんなこと気にすることなかったのに」
「そうかもね。でもこの稼業は色々大変なこともあるけど、まあ楽しいよ。この頃はひいにしてくれる人もできたしね。こっち方が僕に向いている気がする」

「会社勤めしたこともないのに、なぜそんなことがわかるの?」
「何となくね。テレビドラマとかで、そんな宮仕えのしがらみ、よく見るだろう」
「でもどんな仕事でも、そういうことは必ずあるわよ。今の稼業の前は、あなた、飲食店で働いていたこともあったんでしょう」
「ああ。アルバイトで三年ほどね。だけど新しく来た店長と折り合いが悪くて、ケンカして辞めちゃったけど」

「ねっ、そういうところよ。まあいいわ。今日の予定は?」
「今のところ特にないよ。さしずめ山積みになっている本でも読むかな」
「そう。じゃあ私はシャワーを浴びて、ひと眠りするわ。では、昼頃」
 後はお願いね。綾子はおどけた調子で敬礼をして食堂を出て行った。

【短編】パンとビール(2/3)に続く


よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。