【短編】電車にて その2
(2,425文字)
ある日、たまたま私が乗り合わせた電車の中での一幕。
キキーッ。ガックン。
電車が急に停まった。
「きゃっ」
その拍子に、吊革に掴まっていなかった女性がよろめいた。運悪く隣にいた男の足をしたたか踏みつけたらしい。
「うぐっ」
男は呻いた。
解る。痛いなどという言葉では言い表せない。細いハイヒールのかかとで踏まれたことがある人しか、これは分からないに違いない。
高々1平方cmの面積に、少なめに見積もっても60kgは下らない荷重が掛かったわけである。力学的には理解できても、それがどのくらい痛いかとなると全く別の次元の話。
男の顔は、未だ苦痛に歪んだままだ。
『停止信号です。しばらくお待ち下さい』
車内放送が流れる。
「すみません」
女性が本当に済まなさそうに謝っている。彼女が頭を上げた時、その男の隣にいた女と目が合った。女の顔が輝く。
「あれ。あなた、サチじゃない? サチよね」
「えっ、マスミなの。久しぶりね。高校卒業以来?」
「そう。懐かしい、変わらないわね」
「マスミだって、若いわよ」
こういう場面では、必ずといっていいほど、『変わらないわね』とか『相変わらず若いよね』とか『いつもきれいね』いう挨拶から始まるようだ。
大抵自分が相手より勝っていると思っている方から切り出す場合が多いようだ。客観的に見て、この場合もそうだ。
しかし、幸子の『マスミだって』の『だって』にも多少の自負が感じられる。
さて。しばし置いてけぼりを喰らった男。女性が妻の友人と知って、先ほど睨み付けたりしなかったか思い返しているようだ。
大丈夫だ、多分。痛みを堪えるのに必死で、そんな余裕はなかったはずだ。そっと安堵の胸を撫で下ろす。
まあ、そんなところだろう。
自分を挟んで飛び交う会話が一段落した段階で、男はマスミの脇を肘で突ついた。紹介しろということらしい。
「彼女は幸子。高校の同級生なの。これ、私の夫」
大抵こういう場合、夫を紹介するのに『これ』という三人称が使われることが多い。マスミが、幸子の姓を省略したのは、未婚か既婚か判断が付かなかったからだろう。
「シミズです」
やっと、男の声が聞けた。妙に甲高い。男は神経質な性格かも知れない。
「上原幸子です」
と幸子は自己紹介した。さて、これで、マスミには幸子がまだ未婚だと分かった。
「優しそうな人じゃない。幸せそうで、羨ましいわ」
『素敵な人』とか『格好いい人』ではなく、幸子が『優しそうな人』と言ったのが味噌だ。
容姿、職業、金。これらは初対面の男性を判断するにかなり高い比重を占める。
まずは容姿から品定めする。未婚の女性が、既婚の女性に対する場合、夫の容姿がよかったら、上手くやったわねと嫉妬。並だったら、素直におめでとう。それ以下だったら、「よかったわね」とか言いながら、早まったわねと心の中でほくそ笑む。
しかしどこかの御曹司とかIT会社の役員や社長とか聞いた途端に奈落の底へ落ちることもあるが、この場合はこれでいいだろう。たが休日なのにスーツ姿というのが、幸子には少し気になる所。
「どうも」
シミズは、間の抜けた挨拶をする。
偶然の懐かしい友人との再会で思わず中断してしまったが、幸子は粗相を謝っている途中だったことを思い出す。踏み付けた相手がマスミの夫と知り、酷く恐縮したようだ。
「重ね重ね、すみません。大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
「はい、お気になさらずに」
これでまた元の話に戻れる。
「お仕事は?」
「輸入関係の会社に勤めているの」
夫が答える前に、マスミがそれを遮る。何々関係の会社。女性が、こういう曖昧な言い回しをするのは、それ以上この話はしたくないというサイン。幸子にしても、マスミの夫にそれ以上の関心はないようだ。
話はお互いの近況に移る。
「いつ結婚したの?」
「一年くらい前かな」
「そう、知らなかったわ。おめでとう」
しまった。幸子は呼んでいなかった。マスミはほぞをかむ。
「ごめんね。ごく内輪でやったから、あまり友達にも連絡しなかったのよ」
マスミは取り繕う。しかし、この弁解は逆効果だったようだ。ここ数年音信不通だったとは言え、幸子はマスミのことを親友だと信じていた。
幸子は痛く自尊心を傷つけられたようだ。
もうこれ以上、その話はしたくない。幸子は、話題を転じる。
「ねぇ、マスミは今どこに住んでるの?」
「M市の郊外よ」
マスミはそう遠くない市の名前を告げる。
その時、車内放送で『三つ先の駅で人身事故があり、調整のため次の駅で十分ほど停車する』との最新情報がもたらされた。
シミズはお愛想笑いを浮かべて二人の外にいる。場当たりで盛り上がりに欠く二人の会話は細々と続いている。
電車は動いては止りを繰り返しながら、二十分ほどかけてやっと駅に着いた。
「もっと話していたいけど、約束があるから先を急ぐの。ごめんね。私達ここで降りるわ。また今度ゆっくりね」
シミズ夫婦はドアが開くとそそくさと降りていった。
マスミは『また今度』と言ったが、幸子は彼女の連絡先を知らない。教えなかったのはマスミの意思か、ただのうっかりか。彼女の実家に聞けば分かるだろうが、幸子はその手間暇を天秤に掛ける。
二人の会話は以上である。
会話と会話の狭間は、私が行動観察とそれに基づく想像で埋めてみた。当たらずとも遠からずという自負はある。
「どう、面白かった」
幸子が、私の方へ振り向いた。
「ああ。なかなか興味深い夫婦だったね」
「そう。よかったわ」
じゃあね。幸子も二人に少し遅れて電車を降りた。
さて、ただ一人取り残された私。幸子との今後の展開は……。
言わずもがなである。
よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。