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うつと筋トレ〜日本一あかるい鬱日記〜 #2 そういうとこだぞ、Y先生

薬って、効くんですね。
それを痛感した一ヶ月だった。

前回の診察後、かなりヘビーな日々が続いた。
めまい。倦怠感。思考がフリーズするほどの焦燥。
うなされて起きる、という夢を見て、うなされて起きたこともあった。悪夢のマトリョーシカ。
筋トレなんて夢のまた夢。なにせ身体のどこにも力が入らない。

そんな生きた心地のしない時間に、薬は心強かった。
優しく効くもので、かつ微量。症状の軽減は薄皮一枚ほどだが、それだけでも心持ちはずいぶん違った。溺れるような息苦しさに襲われることもなくなった。
指示された量よりも多く飲んだ日もしばしば。コソコソ飲む薬はよく効く。カウンセリングの予約日までもたず、薬袋の中は押し潰れた錠剤シートだけになっていた。

これは、あまりよろしくない。
薬が手放せなくなる。しかも、ゆくゆく薬の耐性ができてしまい、効かなくなるだろう。そして強い薬に移り、さらに依存していく。悪循環だ。
かつて私の父親代わりだった人は、覚醒剤を使っていた。その気持ちが少し、しかし生々しく想像できてしまった。流し忘れたションベンは、便器の底で麦茶色をしていた。マズい。この状況から早く脱さないといけない。

そうは言っても環境は、簡単には改善できない。どうにもできないから、ここまでひどくなってるわけで。
改善が進んだとしても、実感がわかないほどのスローモーションだろう。アハ体験の画像が変化していくような。その中をサバイブしなくてはならない。短くても、娘が独り立ちするまでは。

だから。薬の減りと反比例するように、カウンセリングを心待ちにする気持ちは高まった。先生に何を話そうか。いろいろと思いを巡らせた。話した後、心が軽くなった自分に思いを馳せた。
映画「レナードの朝」のようなひと時が訪れるのではないかと。それで、何かきっかけをつかめるんじゃないかと。
ちなみに「レナードの朝」は観たことない。そこは雰囲気で。

カウンセリングの当日。受付で予約を取っていることを告げた。
「はい。Y先生ですね。2番の診察室です」
あの先生、Yさんっていうのか。あの不愛想で、不人気で、不器用な先生。不の目押し。そして、それを気にしている先生。でも、そこがいいんじゃない。
「廊下いっていただいて、いちばん奥の左手です」
はい。私は受付の人に案内されるまま、診察室を目指した。
「あ、そっちじゃないです」
「ああ。すいません」
クイックターン。

廊下の奥まで続く扉は、どれも静かに閉まっていた。
トイレの芳香剤が匂ってくる、小さな病院。天井が低くて、つまらない絵が飾ってあって、調度品のふしぶしに年季を感じる。開業して長いのだろうか。

言いたくないけど、聞いてほしいこと。
宛先のない言葉を、誰かに受け止めてもらいたいとき。
そんな密やかな時間が流れる場所としては、頃合いに思えた。ホスピタリティよりも、素っ気なさの方が救いになる日もある。
2番診察室は、前回と同じ診察室。手をかけた扉は、少し重かった。

・・・。10分で終わると思わなかった。
「お薬は効いてますか?」
「はい」
「夜は眠れてますか?」
「はい。薬が効いてます」
「お薬はまだありますか?
「もうないです」
「では出しておきます。それでは今日のところは・・・」
以上。Y先生が目線で、私を出口へと促した。
え。どういうこと?

「あの、カウンセリングは?」
「カウンセリング?」
そのカタカナ語の意味は?みたいな顔をするなよ、Y先生。
「はい。今日カウンセリングするって」
「あの、カウンセリングには予約が必要でして」
「はい。なので今日の予約ってカウンセリングだと思ってきたんですけど」
「カウンセリングには、お薬の診療とは別の予約が必要なんです」
新事実。
「でも前回、カウンセリングお願いしたかと」
「あっちの受付で言っていただく必要がありまして」
もひとつ新事実。
「いま空いてるカウンセラー探してみましょうか?」
「先生がやってくれるんじゃないんですか?」 
「医師とは別の資格なんです」
ダメ押しの新事実。
カーンカーンカーン。早く言ってよ、の見事なワン・ツー・アッパーだった。
いや、早い遅いの問題じゃない。すべてがソモソモなことばかりだった。一つだけならいざ知らず、3つともなれば私の聞き漏らしや失念だとは思えなかった。いくら記憶力が低下していたとしても、だ。

私は天を仰ぎ、動けなくなった。開いた口から体温が揮発していく。
めまい。倦怠感。思考の停止。
「言って、ません、でしたっ、け?」
電波の悪いオンライン会議のように、目にするもの、耳にすることが遅延する。
「きいてないです」
「あー、ごめん、なさい」
申し訳なさすぎて、先生もフリーズを起こしかけていた。満面の謝罪顔。謝罪会見でよく見る眉間の皺だった。

「ど、どうします?今日のカウンセリング、予約空いてるかきいてみましょうか?」
私は瞼を上げられなかった。とにかく帰りたかった。
「いえ、今日はもう結構です」
私はヨロヨロと席を立った。
「来月の同じ月曜日に、カウンセリング予約します」
「あ、それ受付でおっしゃってください」
事務的がブレない。

来月の同じ月曜日、というアバウトなリクエストになんの確認もなかったということは、おそらくその日もY先生は空いていたのだ。
そういうとこだぞ、Y先生。
あなたが本当に不人気だとしたら、そういうところ。そして、あなたを憎めないのも。
「やっちゃったー」
Y先生の顔に大書された瞬間を、私は見逃さなかった。おそらく、文頭には”また”の冠がつくのだろう。またやっちゃった。

このオッチョコチョイさんめ、とかはまったく思わない。医者としていかがなものか。いや、社会人としても、どうかと思う。
でもやはりどこか私は、彼女の正直さにホッとしているフシがあるのだ。取り繕わないままの綻びは、角度によっては美しい。
のかもしれない。
「がんばりすぎが原因ですね」
仕事柄そう言わなくてはならない彼女も、きっとがんばって生きている。

「お薬、多めに出しておきます」
Y先生の声を振り切って、診察室をあとにした。
処方袋に入れられた薬は前回の倍量だった。現金を下ろした後の財布。あの安心感に似ていた。
少し多めに飲んで、久々に筋トレをしようかと思った。きっと、いつもの半分もできないだろうけれど。
何かが持ち直した感覚があったのだ。気休め程度だけれど、しかし確実に。薬だけではない。きっとY先生効果も。この薬の半分は、Yの気まずさでできている。

それにしても、心療内科の先生がメンタルを崩したら、どんなお医者にいくのだろうか。自分で診察か。まさかな。心療内科医専門の心療内科医があったりして。
「Y先生、メンタル壊したらどこで診てもらうんですか?」
来月の同じ月曜日に、聞いてみようか。


■よければ前号もご覧ください。




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