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中高生からの人文学 その6

3.人文学の面白さ

3-1. コンテクストを見極める

3-1-1. 「正解らしき」もの

 さて前章を読んでもらえれば人文学がいったいどういう学問なのかについて何となく分かってきてもらえたんじゃないかなと思います。まだ分からないなぁという声も聞こえてきますが、今から私が思う人文学の面白さの核心に迫っていきます。実際にみなさんも面白さに触れた方が人文学についての理解が深まると思います。是非ゆっくり読み進めてください。分からなければ立ち止まっても全く問題ありませんし、別の例を読んでもらっても構いません。

 学問とは何かという説明をした際に、「学問」は絶対唯一の正解を追い求めるものではない、という話をしました。そのことが最も如実なのが人文学の分野です。自然科学と呼ばれる分野においては、数式を用いてなるべく「主観」を取り除いた客観的な結論を求めてきました。一方で人文学においては、同じモノやコトを考えていても、その時々の「正解らしき」ものは自然科学に比べてとても大きく変化していくわけです。それは一体どうしてでしょうか。

3-1-2. モナリザにおける「正解らしき」もの

 例えば、レオナルド・ダヴィンチが残した名画『モナリザ』についてみなさんが研究を始めるとしましょう。そうしたときモナリザの研究者は果たして全く同じことをやっているのでしょうか。いいえ、そんなことはありえません。

ある人は『モナリザ』に描かれている女性が誰なのかを解き明かそうとしているでしょうし、ある人は『モナリザ』を通じて当時の画法(絵の描き方)について研究していますし、またある人は『モナリザ』が描かれた経緯からイタリア・ルネサンス期における絵の立ち位置を研究しているかもしれません。

このように同じ研究対象一つをとっても着目するポイントはたくさんあります。その着目ポイントにも流行というものがあります。ある一時期においては、『モナリザ』の女性が誰かを解き明かそうとする研究・研究者が増え、また別の時期においては『モナリザ』の描かれた経緯に着目する研究・研究者が増え、といったようにです。

着目するポイントが変わるために、「正解らしき」ものは大きく変化していくわけです。......と言いましたが、果たしてそれは本当でしょうか?

3-1-3. 置かれた状況の変化

 では、さらに考えを少し深めてみましょう。例えば『モナリザ』に関する着目ポイントが同じだったとして、この令和の時代に考えた結果と150年前の明治時代に研究した結果は等しくなるでしょうか。こちらも同じく、何かは分からないけど大きな違いがありそうだなということは直感的に分かってもらえるかと思います。

ではその結果や着眼点を変えているのは一体なんでしょうか?『モナリザ』自体が変わることはなさそうです(もちろんX線解析やCTスキャンなど最新の科学技術で下に何が描かれていたかということが明らかになると、『モナリザ』も変化すると言えそうですが、ここでは変化しないものとします)。

そうすると変化しているのは『モナリザ』について考えている我々や、我々を取り巻く環境であると言えるでしょう。そもそも令和の時代においては、これまでの国内外における『モナリザ』に関する研究の積み重ねがあることから、明治の研究者と令和の研究者はそもそも置かれた状況や立場が異なるわけです。

さらに人の社会には多くの考え方やアイデアが生まれては消えていきます。グローバル化や多様性もその中の一つです。研究者ももちろん人として人の社会を生きているので、そうした新しい考え方やアイデアから自由ではありえません。

むしろそうした考え方やアイデアに敏感でいる研究者がいたからこそ、人文学の研究の「頂き」は右へ左へと大きく揺れ動いていたのです。明治の研究には当時の社会で新しいとされていた考え方や常識が反映され、令和の研究には令和の考え方や常識が染み込んでいます。サラッと常識を加えましたが、場所や時代を隔てれば常識が全く異なることも忘れてはいけません。

3-1-4. 置かれた状況を把握する

 すると返って逆のことが言えるのは勘のいい方なら既にお気づきかもしれません。同じものを見ていて異なる意見や考え方が出てくることを通じて、昔の人がどういった状況におかれていたのか、当時の主だった価値観が何だったのかを間接的に知ることができるわけです。また当時の研究を広く集めて、それらが研究対象の何に着目しているのかを調べることで、その当時のいわば流行のようなものが明らかになります。

明治時代における「西洋美術」が手紙や雑誌の中でどのように扱われているかを読み解くことで、その時代の日本人が「西洋美術」に対してどのような意識を持っていたのかを私たちは把握できます。

もっと身近な例でいえば、昨今映画やドラマでは女性が活躍するようなシナリオであったり、女性を主人公に据えることでこの現代社会に未だに根付いている女性蔑視にスポットライトを当てたりする、フェミニズム的な作品が非常に増えています。

これには全世界的に巻き起こっている第四波フェミニズム(実は既に三回も大きなフェミニズムの運動があったんです。詳しくは説明できないので興味のある人は「いつ・どこで・どうして」起こったのかを調べてみてください。違いについても注目してみると面白いと思います)があることは間違いありません。

3-1-5. いくつかの注意点

 そこではいくつか注意して考えなければならないことがあります。手紙や日記を遺した人が社会的立場がどのくらいの人でどういった職についていたのでしょうか。政治家や貴族などの社会的立場が高い人の知識水準や食事の内容を当時の常識と思い込んでしまうことは、当時の社会状況を理解する上では非常に危険です。逆に民衆のひもじい生活一つを取り上げて全員が貧しかったと判断するのも早計かもしれません。このように史料がどういった立場の人がどのような状況で遺したものなのかには常に気を配る必要があります。また、特に書かれたものの場合は顕著ですが、人が遺した物には必ずその意図や用途や理由があります。これは例えば歴史学が直接的に対象とする木簡や日記といったものから、先程は触れませんでしたが史料を研究した成果である論文や専門書についても同様のことが言えます。

3-1-6. コンテクスト

 そうしたモノの背後にある立場・考え方・状況のことを「コンテクスト」といいます。学問の「正解らしき」ものが変化していく理由は、研究者のコンテクストが刻々と変化していくことで、取り上げられる研究対象のコンテクストが変化していくからです。

「所変われば品変わる」ということわざをみなさんもご存じだと思います。同じモノでも土地によって呼び方や用途が違うという意味ですが、モノを研究対象、土地を時代や地域、として読み替えるとそのまま「コンテクスト」の説明になります。

もちろんコンテクストが重要になってくるということは人文学に限った話ではなく他の研究分野でも少なからず共通しているのですが、人が人について研究する上では人にまとわりつくコンテクストを見極めることは二つの意味で不可欠な作業です。

一つは研究対象とする史料に関するコンテクスト、そしてもう一つは自分自身のコンテクストです。見る方も見られる方もコンテクストに縛られているのです。

3-1-7. コンテクストのもつ意味

 よくある勘違いなのですが、人文学においてはコンテクストの優劣をつけることが目的なのではありません。江戸時代の考え方は古いから良くない、令和の考え方は新しいから良い。それとは逆に今の日本に失われてしまったものを安易に過去の日本に求めてしまう。そのようにして異なるコンテクストが出会うことは、過去に向かって見下したり、逆に過去を理想像として持ち上げたりするためのきっかけではありません。

そうではなく全く異なる「コンテクスト」からは異なる結果や意見や価値観が生まれてくるのだということを、人文学を行うにあたってまず理解しなければいけません。その上で今の自分のコンテクストを自覚した上で、そこから何が生まれてくるのかということを客観的に評価することに意義があります。それは他でもない自分を理解するための第一歩です。

 史料から読み取れる「コンテクスト」を理解することは、相対的に自分の立ち位置を理解することに他なりません。自分のコンテクストと全く異なっているからこそ、史料に接したときに今とは違うということがはっきりと分かります。

普段私たちが置かれている環境や、当たり前だと思っている価値観はあまりにも身近であるため、それがあることにも中々気づくこともできませんし、お互いで話をしていてもその存在が明らかになることは少ないでしょう。

例えば私たちは父親と母親と兄弟姉妹がいる「家族」というものが当たり前に存在しているとつい思ってしまいますが、「家族」という考え方自体は生まれて150年そこらの非常に新しい概念です。

家族繋がりで言えばジェネレーションギャップは世代間でのコンテクストの違いです。連絡を取るには手紙を書くしかなかった世代、電話をかけることができるようになった世代、SNSでどこにいても繋がれる世代、それぞれでコミュニケーションに対する考え方が異なるのは当たり前のことです。

こういった比較的身近なコンテクストの違いもある一方で、私たちとは全く異なる時代・場所 ー例えば100年前の日本や1000年前のヨーロッパー に生まれ育った人間がいったい何を考えて何を面白いと思って生きていたのかを知ることは本来非常に難しいことです。

3-1-8. 人文学とコンテクスト

 しかし人文学に取り組む中で史料を丁寧に見極めることで、主に昔の人間のコンテクストを知ることができます。そして昔の人間は今の自分の映し鏡となり、自分のコンテクストをまるで過去から見たかのように捉えることにつながっていきます。

何より重要なことは私たちが当たり前だと考えること、大切だと思うことは、時代や場所によって変わることのない普遍的なことでは決してなく、しばしば歴史的に作り上げられてきたものだということです。先ほどの「家族」がそのいい例でしょう。

 では今の皆さんが置かれている「コンテクスト」はどのようなものでしょうか、そして今の当たり前はいつ当たり前になったのでしょうか。それをじっくりと考えることが、自分を理解する第一歩になります。

といってもあまり堅く考える必要はありません。学校で隣に座っている人も、自分とは異なるコンテクストをもっています。「君のコンテクスト」を教えてよという聞き方をすることは、友達と仲良くするという観点から私は絶対に勧めませんが、普段の何気ない会話から自分との違いを感じる瞬間があるはずです。その違いを感じた瞬間に既に人文学は始まっているくらい、人文学はありふれたものなのです。


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