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本物の作家になりたかったら、懸賞小説などに投稿すべきではない 高尾五郎

「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ」序文2

 今日数多の懸賞小説があって、かつての時代よりも無名の作家たちがこの世にデビューしやすくなったという説をきくが、事実はまったく逆なのであって、むしろ真の作家たちには暗黒の時代だといってもいいのだ。とにかく作家志望者は腐るほどいて、彼らの書いたどうでもいい作文はあふれるばかりであって、それらうようよと徘徊する人間たちをふるいにかけるために懸賞小説というものがある。そしてその狭き門をくぐった人間だけが、海のものとも山のものともつかぬがとりあえず作家の素質があると認めようというのだった。それ以外は屑であり、屑といわれたくなかったらさっさと作家になろうとすることをあきらめよというのだ。愚かなことにそれが懸賞小説を主催する大出版杜ばかりか、裏通りの汚れたビルでほそぼそと生きのびている小出版社までの統一見解であり、そしてまたそれが世の常識とまでなってしまった。作家になるにはまず宝くじをあてるような懸賞小説に当選しなければならないというわけである。

 若いころ私もまたそう思っていたのであり、書きあげたものを何度か懸賞小説に応募してみたものである。あれを箸にも棒にもひっかからなかったというのだろうか。そしてよせばいいのに入選した作品をのせた雑誌を買いこみ、選考者となった作家たちがおごそかに寸評する、文章が粗いだとか、志が低いだとか、後半に破綻があるとか、プロとしての文章となるとちょっと弱いだとかいった選評を目の端にとらえて、作家になるにはなかなか厳しいものがあるものだなと思ったものだ。しかしいまではこの選考作家たちが、まるで安っぽい裁判官のように吐きだす選評とやらを読むたびに、よくもまあ自分のことを棚にあげて勝手なご託宣を並べ立てるものだと思うのだ。文章が粗いのはあなたの作品ではないのですか。志が低いのはあなた様の小説ではないのでしょうか。空っぽの小説ばかり書きちらしておいて志が低いもないものだ。どうでもいいものをただ書き流しているくせにあちこちに破綻があるもないものだ。要するにこの選考作家たちがおごそかにたれる選評とやらは、そっくりそのまま熨斗でもつけて彼らに送り返してやればいいのである。

 いったいなぜ彼らは懸賞小説の選考者などという馬鹿げたことに手を染めたのだろうか。彼らは多分こう言うだろう。世に埋もれている人材を発掘するための力になりたいとか、すぐれた作品に出会うためにだとか、新人を登場させることによって文学の土壌を豊かにするためだとか。とんでもない話で、彼らの目の前にあがってくるのは、何百編もの応募作品のなかから主催した会社の編集者たちによって選別されたほんの数編なのであり、それをぬくぬくとした料亭かなんかで葡萄酒をちびりちびりやりながら、どれも作文程度のものですなあ、帯びに短したすきに長しですなあ、と言いながらやっているのだ。一切のことをきれいに白状すれば、これらの作家には深い企みや、やさしさや、あるいはまた文学の土壊を豊かにしたいなどという志などないのである。出版社からたのまれたからであり、その大出版社に切られたくないからであり、さらには選考作家とは一つの勲章のようなものであり、それによって世の重みも一段と増すからなのである。彼らにとってその程度のものなのだが、しかしその意味は限りなく重い。なぜなら彼らは真の作家たちを打ち倒す虐殺の砦に立つ番人に成り下がっているからなのだ。

 彼らもまたもって生れて作家になったわけではなかった。彼らもまた苦難に満ちた日があったのである。売れない小説をどこに向かって書いていいかわからない日があったはずである。いつ自分の解放の日はくるのだろうかと不安と恐怖におびえながら、しかしそれでもすがるように書き続けていたのである。その彼がいったん陽の当たる坂道にでると、たちまちその艱難辛苦の日を忘れてあっさりと虐殺砦の番人、あるいはギロチン執行人に成り下がってしまうのだ。懸賞小説というものはたった一つのたいした才能もない、たいした力もない、まあそこそこの出来栄えの、どうでもいいような作品を選び出すために、その他のすべての作品と作家を虐殺することなのである。その懸賞小説に応募してきた原稿が一千編あるとしたら、たった一つのどうでもいい作品のために、他の九百九十九編は虐殺されるのである。

 そのことの恐ろしさに彼らは一度でも思いをはせたことがあるのだろうか。日本語に力をあたえ、新しい物語を誕生させ、読書社会を豊かにしていく本物の作家は、むしろ虐殺した側にいるのではないかと考えたことはないのだろうか。真の作家というものは実はそこに隠れているのである。私の推測ではこの選評作家たちをはるかにしのぐ力量と豊かな資質をもった本物の作家たちは、日本の各地に少なく見積もっても千人は存在しているのだ。彼らのことごとくが世に隠れたままである。田圃の畔に、税務署の地下室に、路地裏にあるスナックに、木造アパートに、バーのカウンターの隅っこに、六番街のマンションに、農学校の裏門に、漁業組合の倉庫に、黄金町のペントハウスに、パチンコ屋の屋根裏に、森林の奥に、不動産屋のソファーに、西洋料理店の冷蔵庫の陰に、広告代理店の非常階段に、国際貨物センターのトイレの裏に、人形町の花屋に、北アルプスの山小屋にかくれているのだ。彼らの大部分はけっして懸賞小説などというものにその作品を投じないはずだった。馬鹿馬鹿しさをよく知っているからだ。したがって彼らは世に隠れたままである。ギロチン砦の番人が彼らに出会えるわけがないのだ。

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