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夜明けのルナ (第2話)

(3)別の世界

多摩川東部、ホームレス保護区域の夜が広がる。
川べりに黒々と広がる森の奥には『カプセル』のようなものがずらりと並んでいた。月光の中でカプセルの群は銀色に煌めいていた。星の列のように。貧しい者にも富める者にも、思想信条が違う者にも、月の光は公平に降り注ぐ。私はきらめく光の世界にしばし見惚れた。
生きているって素敵……。
突然、そんな感情に呑み込まれた。夫が人間だろうがマントヒヒだろうが、宇宙は惜しげなく慈愛の光を降り注いでくれる。
「アリサ―」
と呼んだ。
向こうから黒い影が走って来る。
「ルイー」
と呼ぶ澄んだ声。
「アリサ―」
と返す私。 この世に人間は私たち二人だけ、そんな感じ。私たちは固くハグした。
「住み心地いいよ、ここ。ホームレスだけじゃなくて、清掃公務員も住める。家賃はただ」話すアリサの短い髪がかっこいい。
「アリサ、髪切ったんだね」
「似合う?」
「似合うよ。色も黒に戻したんだ」
「私もそれぐらい短くしようかな」
「似合うよ、きっと。中途半端な長さより」
とりとめもないことを話しながらカプセルに向かう。カプセルの中は思ったより広く普通の部屋のような造りだ。
「クニにとって好ましくない生き方をしている私たちにも住居を与えてくれるのだから今の政権もそれほど悪いものじゃないのかも」
「生活だけは最低限保証してくれるわけね」
アリサはにっこり笑ってうなずく。
「政権の支持率八十二パーセント。すごい高持率。革命も一揆も無理かも」 アリサは以前より痩せたようだ。ファッションデザイナーになる夢をもっていたアリサ、好んで今の生活に入ったのではない。クニから配られた配偶者と結婚させられるのが嫌で、違う人生を選んだのだ。
アリサは部屋の一隅の小さなキッチンでコーヒーを淹れ、銀色のお盆で運んできた。ほろ苦い香りが辺りに漂う。カプセルの扉をノックする音がした。アリサがドアを開ける。
白髪の小柄な老人が入ってきた。
アリサがニコッと笑って、「大東亜大学の元教授。遺伝子研究チームのリーダーだった方」
「南です」男は私に軽く会釈するとソファーに腰を下し、
「驚かれたでしょう」と洞窟のような目で私を見る。
マントヒヒに似てる。あいつよりずっと品がいいけど……。
私は少し笑ってうつむいた。
「今から二十年ほど前でしたか。生物遺伝研究者は総力をあげ、人間の女性とマントヒヒの牡の間で妊娠が成り立つかどうかを研究せよとの密命が下されて」南は語り始めた。
「ニホンの男性精子の弱体化と若者の結婚忌避の原因解明は社会学者の研究領域とし、私たちは霊長類の遺伝子研究チームのメンバーとされました。マントヒヒは類人猿であり人間に一番近い種です。多分、妊娠は可能であろうという前提は政府関係者の共通認識だった。というより、あらまほしき願望だったのでしょう」
南はゴホゴホ咳き込んだ。喘息持ちだろうか。
「私はチームのリーダーに任命されました。公にこの研究チームの存在を知っているのは総理とその周辺の数人だけだったようです。しかし、火のない所に煙は立たない。噂が流れ、野党がかぎつけました。そこで政府は方針を変えた。少しずつ情報をこぼして、国民に慣れさせるのです。学術用語でナッジという」
また咳き込んでから、
「実に巧妙なやり方です。何事にも違和感を和感を感じなくさせるのです」 アリサがドアを開けて外を見た。何かを警戒しているようだ。誰かいるか、と南はつぶやく。いません、とアリサ。
「マントヒヒとの親近感を国民に植え付けるナッジが開始され、プロパガンダが流され続けました。『国家存続のためには、結婚し、子を生まなければならない。それがクニが存続する唯一の方策である。クニが存続出来なかったら国民はどうなるか。半世紀前に各地で起きた戦乱の結果を見れば分かる』と毎日のように国民にささやきました」
南は天井を見上げ、
「人は毎日流される情報を信じてしまうようになる。そういう生きものだ。マントヒヒの顔を綺麗と思うようになる」
外から微かに虫の鳴き声が聞こえる。
「クニがカプセル地区の住民へのサービスの一環としてAIで合成した虫の声よ」とアリサが笑った。「少し音が大きすぎる」と南はつぶやきまた話し始めた。
「信じられないほど高額の手当てをもらって、私は張り切った」
南は目を閉じ、深いため息をついた。
「元々、私はマントヒヒと人間の混合種を作り出すことには個人的には反対だった。精子と卵子の形態が非常に似ているとはいえ、サメとイルカの間に子が生れないのと同じです。この馬鹿げた研究は三年もすれば自然消滅するだろう。そうなったら、金をもらうだけもらって火星に移住すればいい、と考えていた。今思うと自分勝手な考えですが、人間、大金の前には良心が麻痺する。一種のナッジです」
南は激しく咳き込み苦し気に涙をぬぐって、
「ところが、実験室で信じがたい結果が出ました。人間の卵子とマントヒヒの精子が試験管の中で結合したのです。しかもそれは健やかに成長していった。
南は辺りを見回した。何かに怯えているように手の指が震えている。
「この命をどうすればいい。私たちはしてはならないことをしてしまった……。一方では、この結果を見届けたいという気持ちを抑えきれなかった。もしかして、人類は類人猿に遡ることが出来るかも知れない。地球を汚し、自然環境を破壊し、他の生物をことごとく滅亡させた人類を類人猿に戻せば、地球そのものを救えるかも知れない」
「類人猿が地球を救うなんて……」
私は途中で言葉を呑み込んだ。この人も馬鹿げたことを考えている……。
「類人猿は純粋です。爆弾もミサイルも作らない。食べ物さえあれば殺し合いなどしない。つまり悪に染まっていない。異生物間の交合は滅亡寸前の人類と地球を救う唯一の方法になるかも知れない。……あながち間違ってはいない。そうです。間違ってはいない」
南は一呼吸置いてコーヒーカップを口に運んだ。
「試験管の中で生まれた生命体はマントヒヒの体と人間に近い脳をもっていました。その生物は『ヒヒ一号』と呼ばれ、大切に養育されましたが、ある日突然死にました。理由は分かりません。何らかの生物学的な欠陥があったのでしょう」 
この人の話を信じていいのだろうか。
「『ヒヒ一号』の遺した精子を使って新たなマントヒヒが生れた。また子が生まれ、百頭になった。それら、というか彼らが」
南は言葉を区切りじっと私を見た。私は思わずたじろぐ。
「人間の女性たちに配られることになったのです。誰が決めたのか何か起こった時の責任は誰がとるのか。国民に正確な情報を伝えているのか。すべては闇のなかでした。このままでは、女性たちの心と体が実験台にされる。この計画は潰さなければならないと確信した。それが私の責任の取り方だと」訊いているだけで気分が悪くなった。この人はどう責任を取ろうとしたのだろう。そもそもこの人の話は本当だろうか。
「疑っていますね。疑われても仕方がない。私は最後の手段を取った。首相に直訴したのです。暗殺されても仕方がない行為でした」 
南の痩せた頬が紅潮した。
「私は言いました。この研究は悪魔に魂を渡すものです、と。首相は笑った。そんなに深刻に考えなくても、と。その楽天的な考え方が怖かった。私は辞職しました。引き留められはしませんでした。口外しないことを文書で約束させられただけです。そして暗殺もされなかった……」
南の話は終わった。
私に配られたマントヒヒは百頭のうちの貴重な一頭だったのだ。私の唇は粉をふいたように乾いた。私は唇をなめて潤してから、
「先生、キットの検査結果は絶対に正しいでしょうか」 
自分の胎内に獣の子がいるなんてあり得ない。検査の精度は百パーセントではないはず。そう信じたい……。
南は鋭い眼で私を見た。
「いずれにしろあなたの取るべき道は二つしかない。新しい命に希望を託して産むか。すべてを闇に葬るか」
「闇に……」
私は唾を飲み込んだ。
「今なら罪悪感なく体内から流せます」
罪悪感?誰に対しての?
「飲み込んだスイカの種を流しだすようなものです。だが、もしも、胎内で育って、生まれてしまったら、殺すことはできない」
南のしわがれた声は震えている。
「世界の研究者が注目することになる。人類史上あり得なかった実験の結果として世界中に晒されることになる。生まれた子のすべてが研究者の財産となるのです。だから生んでしまったら絶対に殺せない」
「出産が世界のニュースに?」
「情報化時代です。世界のどこで起こったこともその日のうちに世界中に共有される」
突然合成虫の声が消えた。辺りが海の底のように静まる。
「今まで牡のマントヒヒを配偶者として配ったのは三例だけです」
「そのマントヒヒはどうなったのですか」
「二頭は死にました。遺体は回収して冷凍保存しています」
南は‘『遺体』という言葉を使った。私の脳に白い火花が飛び散った。
なぜこの人はアリサたちのグループと接触しているのだろう。アリサは私の心の中を察知したようだ。
「教授は特別公務員にされた人やホームレスの生き方を選んだ人をサポートしているの。堕胎薬を作っているのはこの方よ」
「私が政府の監視員ではないか。疑いを持つのは当然です」
南の顔のしわが深くなった。
「私自身は結婚も妊娠も出産も全く個人の自由だと思います。その結果、クニが滅ぶのなら、それはそれでいい。マントヒヒの精子まで使って子どもを産ませるなど正気の沙汰ではない。そう思ったから私は地位も報酬も捨てた。政府の政策に反対する人たちと共に命がけで戦うことにしたのです」
南は白い長髪をかき上げた。ますますマントヒヒに似てきた。
「あなたはヒヒの子を殺すか産むかしかない」
「私はクニの実験台にされたのですね」
アリサが私の手を掴んで、
「とにかく堕胎することよ」
「体を痛めるのは私よ。無責任じゃないの」
「ごめん」
「堕胎に失敗して死ぬかも知れないじゃない」
「そんな危険な目には遭わせない」
とアリサは私を抱きしめた。
「私たち、絶対に強制はしない。堕胎するかしないか。戦いに参加するかしないか、問い詰めたりしない」
「彼女の言うとおりだ。私たちは誰にも強制はしない。強制することのない社会を作るのが私たちの目標です」
私は自分のお腹に手を当てた。
手遅れになったら獣の子が生れてしまう……。
私は自分の中のもう一人が違うことを考えているような気がした。子どもを育ててみたい。夫はいらない。子供を育ててみたい……。
様々な思いに流される。
南は小さな木箱を私に渡した。
「明日、一錠、飲んでください。この薬は子宮を収縮させ、流産のような形で堕胎がなされる。お腹が痛くなって出血するから分かります。これで堕胎成功です」
「もし痛みも出血もなかったら」
南は少し蒼ざめ、
「そもそも妊娠していなかったか、初期堕胎に失敗したことになる。ある程度、腹の中で育ったころ、中絶するしかない」
「中絶は刑事罰です」
自分の声が震えるのが分かった。
「そうです。だから闇ルートしかありません」
「この薬だって闇ルートでしょう」言いながら目の前が真っ暗になった。「あのマントヒヒはどうなる……」
南は私を遮った。
「この目的のために品種改良されたヒヒは薬漬けになっていて、セックス自体が命に致命的打撃を与える。もし、あなたを妊娠させていたなら、ヒヒの命はあと数か月」
南の声は辺りを憚るようにか細くなった。
「子供が生まれたとして、その子は完全に人間の容姿をしているはず。だから誰にも父親がヒヒだとは分からない」
「秘密にしておけばいい……のですね」私は呻いた。
「あの獣、死んでくれたらいいのに……」
南はしばらく黙っていたが、
「すぐにでもヒヒを消したいのならこの粉薬を水に溶かして飲ませなさい。苦しまずに一瞬で死ねます」
「私、逮捕されます……」
「痕跡が残らないからあなたがクニに疑われることはない。人口増のために作られたヒヒの牡を消してしまうことが私たちの闘いに繋がる。政府にこの計画をあきらめさせるのです」
私は小さな陶器の箱を受け取った。ヒヒを殺すこの薬は使われることになるのだろうか。自分でもわからない。
アリサの運転する車で家に向かう。満天の星が美しい。
「どんなことになっても、私、ルイを支える」
アリサの声がどこか遠くに聞こえる。アリサの横顔が夜明けの光の中で白く陶器のように光っていた。私は家の合鍵をアリサに渡した。
「家の合鍵よ。警察に追われたら逃げてきて。どんなことになっても、私、アリサを支える」
私たちはいつのまにか『天国へようこそ』をハミングしていた。

家に帰ると、マントヒヒが飛びついてきた。嫌悪と憐憫と微かな殺意の入り混じった感情で、マントヒヒの頭を少しなでた。
この獣に何の罪があろうか。国家の政策の道具になっているだけなのだ。いっそ私の手で……。
バッグの中の二種類の薬。
一つは胎児を殺すもの。もう一つは胎児を孕ませた獣を殺すもの。どちらを使うも私の自由。恐ろしい自由。
指定された日に堕胎薬を飲む。その後三日間、排便も出血も腹痛もなかった。
そして……月日は流れ六月。
お腹が少し大きくなったような気がする。風呂場で鏡を見るたびに吐きそうになった。
堕胎の薬は効かなかったんだ。今なら物理的な中絶が出来る。アリサに電話しようか。でも、中絶は母子どちらかに命の危険がある場合にのみ、配偶者の同意があれば許されることになっている。マントヒヒは何も分からない。同意書にサインなどできない。ならクニがマントヒヒの代理人となって同意書に押印してくれるのか。
厚労省に一般論として電話で質問した。
「クニとしては妊娠して頂くために配偶者をお配りしたのですから、原則、中絶に同意はいたしません。妊娠なさった方が妊娠を継続できない身体上の理由があれば別です」
「ああ、そういうことですけ。女性の体はクニに管理されているのですね」
「どうお考えになるのもご自由です」
「流産とか死産になればいいのですね」
「どうお考えになるのも」
私は電話の向こうの声などもう聞いてはいない。人間ではなくAIが喋っているのかも知れない。
あのマントヒヒをどうしよう。薬で殺そうか。妊娠しました。もう用済みですと報告してクニに引き取ってもらおうか。クニがあの獣をどう処分しても私の知ったことじゃないわ。
だが、心配することはなかった。マントヒヒはある日突然ソファの上で冷たく硬い塊になっていた。役所に電話してすべては終わった。
私のテリトリーに侵入してきた化け物は消えた。泣きたいほど嬉しいのに奇妙な喪失感があった。

(4)出産

産科の定期検診ほどグロテスクなものはない。
女性たちはそのことを口にしないが、何とも思っていないのだろうか。子を産むためのプロセスと割り切っているのだろうか。
私は女だが女の気持ちが分からない。
診察台に乗り両足を広げる。医師が膣の中に指を入れる。原始的、かつ屈辱的なものだ。他人が見たら多分グロテスクなものだろう。
女は母になるためにはこの一連の作業を受けなければならない。その間、頭を空っぽにする。一匹の獣になる。
私の母もこんな姿勢を取って、大人しくこんなことをされたのだろうか。可哀そうなお母さん。女に生れてしまって……。
どんなに上品を装っても、美しく着飾っていても、赤の他人でしかない医師の前で股を広げる。そんな姿勢を取ることを恥ずかしいとも思わない。子を産むのだから当たり前のこと、と思うしかない。

お母さん、こんな経験を乗り越えて私を産んでくれたのね……。
 
今までは、母親と呼ばれる人たちが図太くて恥知らずで、この世で自分が一番偉いと思っているように私には思えた。
その理由が分かった。
子供を産むということは原始的な行動なのだ。オトコには想像すらできないだろう。だから出産をなしとげた女は怖いものなしなのだ。原始そのものを体験したのだから。

少子化の恐怖にさらされている今、お腹の大きい女性は最高権力者だ。レストランのタダ券が役所から配られ、自腹では絶対食べないようなビーフステーキを食べた。
クニからは妊娠手当が送金されてくる。毎日美味しい物を食べた。
独り暮らしなので要請すればお手伝いさんも派遣されてくる。すべて税金だ。今まで独身税をがっぽり取られたけれど、元を取り戻してやった。
ザマァ見ろ!
その年の暮。
豪華な産院で出産した。白く輝くベッド、きらびやかな制服姿の職員たち。ホテルの晩餐のような食事。夢の世界のようだ。
だが……。
「お子さん、お連れしましたよー」
看護師の声に全身が冷たくなった。背中に脂汗が流れた。マントヒヒとの間にできた子だ。毛が生えているのではないか。赤ん坊を見るのが怖かった。あの世まで逃げ出したかった。
「綺麗な女の子です」 
その声に私は一瞬跳びあがった。確かに跳び上がってしまった。
抱きかかえて来た看護師のマスクの上の目が笑っている。ほんとう?ウソ言ってるんじゃないの?きっとウソよ……。
赤ん坊を見て血の気が引いた。頬にうっすらと毛が生えている。
「毛深い……」
蒼ざめた私に看護師はニコッと笑った。
「すぐに薄くなります。頬や背中が毛深い赤ちゃんはたくさんいますよ」
アリサとミカが駆けつけてくれた。
「私は妊娠したくてもしないのに」ミカは羨ましそうだ。
「色が白くて綺麗。少し産毛が多めだけど、そこがまた可愛い」 
アリサは赤ん坊を抱っこして笑っている。まるで自分の子供のように嬉しそうだ。
「名前はどうするの?」
「前から決めてたの、ルナよ」
「素敵な名前」
出産すると不安は妊娠中より大きくなった。父親はヒヒだ。ヒヒの血が流れていることは事実だ。このまま尋常な人間として育つ保証はない。ある日、突然、咆哮するかも知れない。

ゴゴ、ゴゴッ、ウォーン、ウォーン。

あの声が耳に蘇る。だがルナはオギャーと人間の赤ちゃんの声で泣いた。でも、いつか吠えるかも……。
ルナを抱きしめる。こんな宿命に生れたルナ、可哀そうに。
市役所の人が出産記念のパイナップルの若木と金一封待ってきた。赤ん坊を見て嬉しそうに、
「市報に掲載してよろしいでしょうか」
「絶対に嫌です。この子が人間として育つかどうか、まだ分かりませんから。世界中に発信なんかしないでください」 
私は二人の男を睨み付けた。
「では発表はもう少し先にしましょう」
二人は背広をパタパタ叩いて立ち上がった。

眠っている赤ん坊の顔を見つめる。
「ルナちゃん、いい名前でしょう?」
赤ん坊に話しかける。
「ママに似ているって皆言ってるよ」
この子が正常な人間に育ったとして、父親のことをどう説明すればいいのだろう。クニが生活は保証してくれるから不安はない。
でも、誰もこの子の行く末を保証などできない。この子の行く末も実験材料にされるの? 
いろいろ考えていると頭が壊れそうだ。誰かと話をしよう。どんなつまらないことでもいい。話をしよう。
そうだ。公民館主催の『新米ママの会』に入会してみよう。 

会員は三人だった。こんな所にも出生率の低さが表れている。母親たちは皆、不機嫌で何かに怯えているように見えた。子供の遊び友達がいないこと。育児の参考になる本やテレビ番組が少ないこと。赤ちゃん用品の数が極端に少ないことに苛立っているようだ。
「子供を産め、産めと言うわりには何もしてくれないのよね」
「産んだらお金をたっぷりやって終り、そんな感じ」
「徴兵制度が出来るらしいから、なおさら、誰も子供なんか生まないわよ」「ちゃんと育てているかどうかクニにチェックされるけど、どうせ、徴兵されるのよ、うちは男の子だから」
「うちも男の子。あなたは?」
「女の子」
「いいわねえ」
「ちょっと毛深くない?」 一人の女に言われ、どきっとした。
「夫が毛深いので」
「うちの姉の子も毛深かったけど、すぐ、薄くなったわ」
そんな話をして、愛想笑いをして別れる。友達にはなれそうにもない。皆、互いに猜疑心を持っているようだ。お互いに、赤ん坊がマントヒヒの子かどうか疑っているのだ、きっと。 
子育ては孤独な作業だった。あのマントヒヒが生きていてくれたらよかったのに。そんなことさえ思った。自分の子供を見て飛び跳ねて喜ぶだろうか。想像すると身の毛がよだつ。
それでもたまに懐かしくなった。そんな自分をグロテスクだと思った。

アリサとリカには本心を語った。
「私は母性的ではない。初期の堕胎に失敗して出産しただけよ。中絶が違法でなければ中絶したわ」
「生んだこと、後悔してるの?」
「そんなことはない。生んで良かったと思ってる。我ながら矛盾した考えだとあきれるわ」
「そうなんだ、よかった」
「生まれてみると、子供って、ほんと、宝物みたいだと思った」
「よかったね」とリカも嬉しそうだ。
「ヒヒみたいな顔だったら、この子を殺したかも知れないけど」
「そんな」とミカにたしなめられた。
「ねえ、ヒトにとって容貌ってどんな意味があるのかしら」
二人は応えない。私は自分で応えた。
「生かされるのか殺されるのか紙一重の時、顔がすべてを決めることがある。それほど重要なものなのよ。顔は」
「他の生きものも顔とか容貌にこだわるのかな」アリサがつぶやく。
私の部屋は静かな緊張に満ちていた。

そして一年。
ルナの産毛はすっかり消え、ますます綺麗な顔立ちになってきた。ヒヒを連想させるところは一つもない。
だが、立って歩くころにどうなるか分からない。マントヒヒのように四足歩行したり、前かがみで走ったりしたら……。
不安は消えない。
三歳ぐらいまでは人間の知能と猿のそれは同じ程度だという。運動神経は猿の方が優れているとか。
「ルナちゃん、鉄棒ぶら下がりやってみようね」
と室内遊具の鉄棒に掴まらせると、手を離して落ちた。マットレスの横に立っている私が受け止める。運動能力が猿ほど優れているとは思えない。
マンマ、マンマなど簡単な言葉を覚えてきた。猿は、マンマとは言わないはず。
それにこんなに綺麗な顔、この子は人間よ!
ルナにはマントヒヒの血は流れていないのかも知れない。では、誰の子?自分が性的な関係をもったのはあのマントヒヒだけだ。
思えば、自分は女としては晩熟というより生育不全だったのかも知れない。男とどうこうしたいと思ったことはなかった。オンナ、オンナしたタイプではないと自分で思っていた。それで別に困ったことはない。
それなのに子を授かった。ヒヒの子であっても愛おしい。これを母性本能というのだろうか。
違う、この子の顔が綺麗だから。誰もが目を見張るほど綺麗な赤ちゃんだから。私はこの子の顔を愛しているのだ。

一年目の検診で医師はつぶやいた。
「血液型が」
医師は何か言いかけて口を閉じた。どきんと心臓が縮んだ。立ち上がった私を医師が上目使いに見る。その視線を無視する。医師も国家公務員だ。信用なんかしてはいけない。
ある日、保健所から通知が来た。『重要』と封筒に赤いハンコが押してある。
デジタル庁が何をしているのか不思議だ。役所からの通知は今でも封書か葉書だ。ハサミで開封する度にイライラする。

『お子様を出産なされたこと、また、誠心誠意、育児に携わっていらっしゃること感謝の念に堪えません。ルナさんはすくすくお育ちのこと、お悦び申し上げます。将来のお子様の健康管理のために、お子様とお母様のミトコンドリアDNA鑑定と核DNA鑑定を行います。これは将来お子様が自分の出自に疑問を待った時のために行うものです。費用は一切クニが持ちます』

核DNA鑑定、ミトコンドリアDNA鑑定……何のことだろう。インターネットで調べる。
世の中は私の知らないことばかりだ。知識で自分を守らないとクニに何をされるか分からない。自分を守るのは知識しかない。調べてはみたが、この鑑定をする意味は結局分からなかった。
通常の親子鑑定は細胞内に一つしかない核の中のDNAを使う。これは父と母から一つずつ受け継がれる二重らせん構造で、個人の識別ができる。いっぽう、細胞内に存在するミトコンドリアDNAは、母親方の血縁関係のみが識別できるが、個人の識別は出来ない。ただ、ミトコンドリアDNAは、核DNAより数が多く、損傷が激しい遺体からでも採取できるという。私は南に電話した。
「学問的なことは電話で説明できるものではありません。ただ、ミトコンドリアDNAを辿ってゆくと、すべての人類はアフリカにいた一人の女性に行き着くのです。つまり、父親が人間だろうとマントヒヒだろうと、すべての人間の母はアフリカの一人の女性であるということです」
「人類の先祖は結局一人の女性……?」
「そうです。お子さんのためにも鑑定を受けておけばいいでしょう。あなたとお子さんの血縁関係さえ証明できればいいのです。クニからすれば」
「それは私にとってもいいことですよね」
「そのとおり。父親は生物学的には意味がない。不明でいいのです」
私の胸にふつふつと希望の泉が湧き出てきた。アリサやミカとは今まで通り仲良し友達だ。独身だ、夫持ちだ、などと分け隔てはしない。オンラインや電話で今もお喋りする。最近話題の歌や映画、おしゃれや旅行のことなど。

しかし、アリサは何となく離れていった。ミカは私と微妙に距離を取っているようだ。私は疑い深くなったのだろうか。
「また一緒にバス旅行したいね」 
ミカは、そうね、と軽く応えて話題を変えた。
「ルナちゃんは?」
「隣で寝てる。手がかからないわ」
「親孝行ね」
そうね。でも、と言い淀んでから続けた。
「私は子供を生んだから生活は一生保証される。でも、独身のアリサはどうなるのだろう」

ミカは話題を変えた。
「最近、肉の食べ過ぎは老化をはやめるという説を目にしたけど、どう思う?」
私は何となく感じた。やっぱりミカは私たちから離れたいのだ。夫が『子ども庁』の長官になったのだから住む世界が違う。
ミカ、あなたが離れていっても、私たち、あなたを追わない……。
三人の間には微妙な距離が生れた。風に吹き寄せられた木の葉が風に吹かれて遠ざかるように。
そんなある日。アリサから突然電話があった。
「ミカとは今も話しする?」
「あんまり」
「そう」
「なんで?」
「彼女の夫、南氏を狙ってるみたい。」
狙ってる?と私は聞き返す。
「クニにとって望ましくない人だからどうにかしたいのよ」
「まさか……」
「ミカはいい人よ。だけどダンナが超権力者だから」
「あなたにも目をつけてる?」
「だから用心してたの。夫と妻は別人格だからどうこうは言いたくないけれど、私の活動のことはミカには言わないで」
「うん、言わない。で、南さんは?」
「来月、南さんといっしょに国会へデモする」
「デモを?」
「何驚いてるの。デモは法律で認められている権利よ」
「もしばれたら、社会的に抹殺されるかも」
「分かっている。だけど、今行動しないとあなたみたいな目に遭う人がどんどん増えていく。あなたはヒヒには似ても似つかない綺麗な赤ちゃんを生んだ。大成功だった。だからクニは計画を大々的に進める気よ」 
言葉に詰まった。
結果的に自分はクニの計画に加担してしまった。汗ばむ手でスマホを握りしめる。
「何人ぐらい参加するの」
「清掃公務員、ホームレス、そのほか大勢参加する。今さら失う物は何もない人たちよ。千人ぐらいになると思う」
「やめたほうがいいよ」 
電話の向こうは無言だ。私はすがりつくように、
「クニに逆らったら社会から排除されるよ」
「研究者や大学教授で抹殺された人はけっこういる。学術推進会のメンバーだったのにいつのまにか表舞台から消えていった人もいる。それは知っている。でも、怖くはない」
「やめたほうが」
「別に戦地に行くわけじゃないのよ」
アリサの声に私は少し泣いてしまった。
「なんかあったらうちに来て。合鍵、渡したでしょう。いつでも来て。子どもを産んだからクニは私には手を出さない」
「うん、分かった」

(5)夜明け 

ルナは日々成長する。
毎日懸命に世話した。無償の愛、ではない。そんなものではない。産んだ以上育てる義務がある。義務感だ。だがそれ以上に、美しく生れついた一つの命を守らねばならないという使命感があった。
すさまじい運命を背負って生まれたけれど、この子はきっと幸せになれる。こんなに綺麗な顔だもの。人間同士の間に生まれた子でもサルみたいな容貌の子はいる。体に異常がある子もいる。
ルナは神さまに祝福されたのだ。こんなに愛くるしい顔で生まれて……。
何かの本で読んだような記憶がある。
処女懐胎のことだ。
科学的に解明は出来ないが、あり得ることだと。ある種の魚はメスだけで妊娠し子孫を残すとか。命の起源は魚類だ。人間のメスには原始以前のDNAが残っていて、天文学的な確率で復活するとか……。

もし処女懐胎だったら、ルナは私だけの子。私のコピーだ。

突然、狂おしいほどにルナを愛おしいと思った。ルナを抱きしめた。柔らかな頬に口づけした。
あなたは私が処女懐胎して生まれた子。そして私よりずっとずっと美しい顏で生まれてきてくれた。ありがとうルナ……。あなたの人生は私が守る。きっと守る。綺麗なだけじゃない。優しく強くて賢い子に、人間らしい子にしてみせる。
ルナの唇に哺乳瓶の吸い口を当てる。ルナは元気よく吸う。獣のような勢いで吸った。輝くつぶらな瞳がまっすぐに私を見ていた。

春の暮。かなり暑い。ちょっと動くと汗ばむ。テレビをつけると昼のニュースをやっていた。

『今朝、午前十時。国会議事堂前でデモがありました。デモは暴徒化しましたが、機動隊によりすぐに鎮圧されました。警官に数人の怪我人が出ましたが、今、国会前は静かな状態です。首謀者は、遺伝子学研究者の某氏らしいのですが判然としません。今は実名報道を避けています。政府の推し進める人口政策に反対するデモでしたが、街の声は、クニの将来のことも考えるべきだ。無責任なデモだ、との声が圧倒的でした』

テレビを消した。嘘だ。デモ隊が暴徒化したのではない。初めから暴力で鎮圧されたのだ。怪我をしたのは機動隊ではない。デモ参加者だ。街の声など編集次第でどうにでもなる。 
すぐにアリサに電話した。繫がらない。何度かけても繋がらない。
ルナを抱っこひもで胸にくくりつけ家を出た。
とにかく国会議事堂の前に行こう。何かが分かるはず……。
地下鉄はいつも通り動いている。乗客は少ない。出勤時間帯ではないからこんなものか。
議事堂前で下り、歩くエスカレーターに乗る。永遠とも思えるほど長いエスカレーターを降り、一番出口の階段を上る。外は午後の日差しが煌めいていた。
ルナに大きなつば広の白い帽子をかぶせる。すれ違った女性が、綺麗な赤ちゃんですね、と声をかけてくれた。
すぐ傍に交番があった。交番という名称は人気があって百年ぐらい前から使われているらしい。ベージュ色の制服の警官に聞いた。
「あの、今朝、この辺りでデモがあったそうですが」
「不平分子のことですね」 
警官は無表情で応える。
「参加者はどうなったのでしょう」
「半数ぐらいは留置所送りです。平穏な市民生活を乱しましたから」
「怪我人とかいたでしょうか」
「いたかも知れませんね。何か気になるのですか」 
警官は鋭い目つきになった。
「知人が参加していたかも知れないと思って。私ですか?絶対に参加するなと止めました」
「止めたのですね」
「無謀なことはしないで、と」
 警官は私が赤ん坊を抱いていることに、今頃気づいたようだ。急に優しい表情になった。 赤ん坊を連れている人には親切にするように、クニから特別通達が役人たちに出されている。警官はそのことを思い出したようだ。「赤ちゃんがいる人は家で静かにしていることですよ。クニの宝ですからね。おお、可愛い赤ちゃんですね」
「ところで、掴まったヒトたちはどこの留置所に入れられたのでしょうか」「性別、年齢罰に振り分けている最中です、面会したいのでしたら、明日、ここに電話かメールで面会申込みしたいと言ってください」
警官は一枚のプリントを差し出す。国会議事堂周辺は大きな南方の樹木が植えられていて、甘い香りが漂っている。
通行人はほとんどいない。
テレビのニュースで報じられたぐらいだから、きっと大規模なデモだったはずなのに。アスファルトの上に微かな赤い模様のようなものが。これは血痕だ。大きな騒動が起こったのかも知れない。 
私の不安とは裏腹に辺りはのどかで静かだった。 たとえ逮捕されたとしても日本は独裁国家ではない。一応、民主主義国家だ。形式的な取り調べを受けてすぐに釈放されるだろう。お説教されるのか、保釈金を払うのかは分からないが。
アリサが無事だといいけど……。 
帰り道、スタンドでイチゴジュースを飲んだ。ルナにも少し飲ませる。ルナはキャッキャッと上機嫌だ。
「可愛い、」
周囲で声があがる。こんなひとときを幸せというのだろうか。

「工藤さん、シングルマザーかな」
人工樹木の裏から漏れ聞こえて来た声。私は足を止めた。あの声、『新米ママの会』の人だ。
公民館は母親向けの様々な講座をやっているので、『ママの会』を退会した今でもばったり出くわすことがある。私はあまり付き合いが良い方ではない。他のメンバーもなんとなく私に距離を持っているようだ。私は木々に隠れるように置かれているベンチに腰を下す。ルナを保育室に預けた後でよかった。

「あの人のダンナさん、クニが配給した人みたいよ」
「どんな人を配給されたのかしら」
「可愛い赤ちゃんだから、きっとイケメンじゃない」
「クニが配るのはマントヒヒらしいわよ。人間の男はいろいろ問題を起こすからだって」
「うそー」
「広報に載ってたこと、冗談かと思ってた」
「マントヒヒのイケメン?」
「彼女が美人だから、イケメンじゃないと納得しないでしょう」
「止めよう、人のこと言うの」
「工藤さんの赤ちゃん、絶対ヒヒじゃないよ」
「綺麗な顔だもんね」
「ホント、人のこというの、やめようよ」

 マントヒヒのことは皆の興味の的になっている。私がマントヒヒと同棲していたこともいずれ知れるだろう。心が波立つ。
あれからアリサはどうなったのか。
デモのニュースは報じられない。世間はあのデモに関心がないみたいだ。それとも、関心がないふりをしているのか。家の中で鬱々としていると心が壊れそうだ。
無料託児付の公民館講座でも受けたら少しは気晴らしになるかも知れない。そう思って来たのだが、自分が話題になっていることを知って怖くなった。 そっと立ち上がりロビーに向かう。後ろから呼ぶ声。
「工藤さーん」 
さっき話していた人たちだ。笑顔を作って振り返る。向こうも笑みをたたえている。
彼女たちの顔が一瞬マントヒヒに見えた。あの人たちの中にもマントヒヒを配られて性交した人がいるかも知れない。

アリサと連絡が取れなくなってから三か月。朝から熱い。つまらない情報番組でも少しは社会の動向が分かる。テレビのスイッチを入れた。

『現在、日比谷公園前で、憲法第一条廃止を求めるデモが行われています。三月のデモで逮捕された人たちが釈放され、またもデモを行ったものと思われます』

コメンテイタ―が二人何やら喋り出した。政府派コメンテイタ―たちだ。テレビを消そうとしたとき、画面が現場に切り替わった。 

群衆のアップ、一瞬アリサの顔が。
たしかにアリサだ。
心臓がバクバク音をたてる。デモ隊の数は数千人もいるみたいだ。機動隊に行く手を阻まれながらデモ隊は粛々と進む。放水車で水がかけられても列は崩れない。
大きな垂れ幕を掲げて進む。
声は出していない。垂れ幕だけの無言の行進。垂幕の文字がちらりと見えた。
一.憲法一条は廃止すべき
二・結婚は個人の自由 
三・子どもを生む生まないは個人の自由。

画面はまたアナウンサーに替わる。
『元大東亜大学の遺伝子学研究者南信夫元教授が国家騒乱罪の疑いで取り調べを受けています』。
画面に南の顔が現われた。南は困ったような表情で
「何が罪なのかわかりません。デモに参加しただけです。『子ども庁』の長官ですか。通報したのは……」
ミカの夫が通報を……。全身が冷たくなった。それから画面はプロ野球に切り替わった。
私はルナをおんぶした。日比谷公園に行こう。私が行ったところでどうなるわけじゃなし。
でも行こう!。
初夏の日差しがじりじり肌に刺さる。立っているだけで汗ばむ。バナナの並木道をルナを胸に括りつけて急いだ。
日比谷公園は子連れの親子が数人見られるだけだった。歌壇の真っ赤なカンナの花が炎のように咲いている。芝生は緑の海のようだ。
ルナが両足をバタバタさせる。下りたいのだろう。立ち入り自由の芝生にルナを下した。
ルナは両手を地につけ、四つん這いで頑張っている。大きなつばの白い帽子をかぶったルナ、まるで宇宙人のようだ。宇宙人を見たことはないけれど、いるとしたらきっとこんな姿だろう。
「たっち、する?」
ルナはふらふらと両足で立ち上がったが、すぐに腹ばいになり泣きだした。近くで見ていた女性二人が、「可愛い」と声を上げた。

その夜、遅くまでニュースは本田南元教授殺害事件を報じていた。南は一人で官邸を訪れたのだ。その帰り、何者かに背中から散弾銃で撃たれて落命した。『南氏は憲法一条の廃止を訴えたもようです」とアナウンサーは淡々と告げ画面は切り替わる

眠れなかった。南さんは命をかけた。そして死んだ……。

ルナはベッドでぐずっている。
「ベッドより畳が好きなんだよね」
私は小さな畳の部屋に水色のベビー布団を設え、寝かしつけた。多摩川のカプセルの中で三人で語った夜を思い出す。
南さんのこと、疑ってしまって……。
また泣いた。明け方ようやくうとうとすると、黒い小さな影が立っていた。

ルナ!
ルナが窓に向かって立っている。一歩、また一歩、ルナは足を前に運んでいる。
歩いている!
夜明けの光が窓から差していた。ルナは外を見ようとしているのだ。
そのとき……。
キョキョッ ゴゴッ、キー
私は気を失いそうになった。
マントヒヒの声だ。ルナが獣の声で吠えたのだ。
頭の中が真っ白になった。
ルナに後ろから飛びついた。細い首を両手で絞めた。力を込めた。
ルナ、大好きよ。愛してる。だからママがもっと良い世界に連れて行く。
ルナ、いっしょに他所の星に行こう……。
そのとき、何かが私を後ろから引っ張り倒した。仰向けに転がったまま見るとアリサが仁王のように立っている。アリサはルナを抱いていた。アリサの傍らにミカもいる。

「ミカが私に通報してくれた。だから、私、警官から逃げ出せたの」
「逃げ出せてよかった、ほんとうに」とリカは少し泣いている。
アリサは私の手を握りしめ、
「ルナちゃんは私たちみんなの子どもよ」
リカが続けた。
「だからみんなで育てよう」
私はよろめきながら起き上りその場に座り込んだ。アリサの腕の中でルナが笑いながらのけぞっている。何があんなに楽しいのだろう。思わず私も笑い出してしまった。笑いながら泣いた……。 
 
辺りには夜明けの光が白々と輝いていた。
                      第二話終わり 
                             

   #創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

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