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忘れても好きなもの

こんにちは、P山です。
なかなか更新できずに結構な日が経ってしまいました。


久しぶりに認知症の祖母の話を。
前回の話はこちら↓

すっかり寒くなったが、祖母はやっぱり毎日(デイケアがない日は)日がな一日外に出て、来るはずのない迎えを待っている。
先日のクリスマス寒波のときは本当に参った…。

部屋を温め、ホットカーペットを敷き、テレビをつけてあげても、すぐに全部消して外に出てしまう。
部屋の居心地が悪いのかと思ってあれこれ試したが、今のところ何をやっても効果がない。
服も選べないため、薄着でガタガタ震えていることもあり、風邪をひいて肺炎にでもさせたら大変だ。
まさか鍵をかけて閉じ込めるわけにもいかず…少しだけ、聞きかじった言葉の「座敷牢」というのがうらやましくなったりする。

父は相変わらず叱りつけているが、ヒートテックを買ってきたりして、何とかしようという気はあるようだ。
ただ、着るだけにして置いておいても、「これは私の服じゃない」と言って着ない。
しまいには石油ストーブ(上でスルメを焼けるタイプのやつ)の上にポイっとしてしまったらしく、新品のヒートテックは見るも無惨に溶けて穴だらけになってしまい、それを見た父は烈火のごとく怒り狂っていた。
南無。。。
火事になったら困るので、そろそろファンヒーターとかパネルヒーターに変えないといけないかもしれない。


母は一枚上手で、祖母が風呂に入った隙に他の衣類を全部片付けて、それしか着るものがない状態にしている。
それから出勤前にきちんと着ているかの確認をして、気温が低い日は、肩甲骨の間と腰にカイロを貼ってあげている。
外に出ることは阻止できないから、外に出ても極力あったかい格好でいられるようにするしかない。

余談。
祖母はもうすっかり髪が薄くなり、月代のようになってしまっているのだが、見かねた母がニット帽をあげると、気に入ったのか(寒かったのか)珍しくその日は被っていた。
ただ被り方が浅くて、なんだか「白雪姫」に出てくる小人みたいになっていて、母と顔を見合わせてちょっと笑った。

さて、毎日飽きもせず迎えを待っている祖母に、父も飽きもせず毎日腹を立てて一生懸命説明している。
受け入れてしまった方が楽になると思うのだが、血の繋がった老親への感情はそんなに単純なものではないのかもしれない。

私は最近、娘を連れてほぼ毎日ドライブに出かけている。
そのたびに「どこか行くの?それなら家まで乗せていって」と言う祖母の相手をしなければならないのだが、試行錯誤して(現在のところ)ベストな方法を見つけた。

まず一旦庭に出て、車の準備でもして、祖母を庭におびき出す。
そして部屋へ戻り、ちょっとしたおやつを居間に用意する。
このときテレビや暖房器具も点けて、居心地の良い部屋を作っておく。
もう一度(今度は本当に出かける用意をして)庭へ出ると、祖母は待ってましたとばかりに話しかけてくる。

「どこか行くの?ちょっと家まで乗せていってほしいんだけど。朝から家に電話してるのに、誰も迎えに来ないの」
(ちなみに祖母のいる家には詐欺被害防止のために電話を引いておらず、フェイクで電話器だけを置いている)

「そうなんだ。これから私は娘と病院に行くから乗せていけないんだけど、お父さんが夕方に迎えに来るって言ってたよ。」

「ほんとに?」
(すぐ信じてくれるときもあれば、しばらく疑っているときもある。笑)

「うん。暗くなる頃だから、まだまだ来ないよ。寒いから、部屋の中で待ってたらどう?」

そういって部屋へ案内する。

「お菓子でも食べて、ゆっくりしていってよ。外は寒いからね。」


こうするとお互い機嫌よく、祖母は家にいてくれるし、私も出かけられる。
認知症介護をしていると、この「お互い機嫌よく」がとにかく大事だと身に沁みる。
わかっていても腹は立つし、つい間違いを指摘したくなるし、失敗を叱りたくなる。
認知症の人はもう「なぜ怒られているか」さえわからなくなっているが、介護者の怒りの感情に触発されて不安が増幅し、それをうまく処理や表明できずに怒りで返してしまう。


ああ、この記事は認知症介護の基礎の基礎について講釈垂れたいんじゃなかったんだけど…全然本題にたどり着けないので写真を先に載せてしまおう。

今朝の玄関


このお花、祖母が生けたのだけれど、もう今日が何月何日かもわからないのに、なんかお正月じみてて、いい感じじゃないですか?
南天と椿って、すごくいいと思う。
しかも、認知症後期にしては、ちゃんと剣山にお花が刺さっているし、水の水位も申し分なさそう(P山は素人なのでわからないけど)。

先に述べたようなやり取りの毎日で、年末の慌ただしさに追い立てられていたけれど、今朝、玄関にこの花があって、ハッとした。
それから、これを生けた祖母のことを思うと、ちょっと心がギュッとなる。

昔から祖母は花が好きだった。
私が演奏会などで花束をもらってくると、それを上手に生けて飾ってくれた。
(お花は自己流で、習ったことはないらしいが。)

春から秋は毎日、採ってきた花を玄関先に置いて、少し経つと忘れてしまい、自分の花を見つけて「誰かがお花を持ってきてくれた」と嬉しそうに生けている。
生けたことを忘れて、また散歩のついでに採ってきて、その繰り返し。
そうすると家の中に花がどんどん増えていって、それはそれで少し困るのだけれど。

認知症介護は、しんどいことのほうが多いと思う。
そしてそんな日々を過ごしていくうちに、その人がかつては自分と同じように生きていた日々、一緒に過ごしたはずの日々のことを、なぜかほとんど忘れてしまって、目の前にいるのがただの「困った人」のように思えてきてしまう。
だがこの花をみると、祖母は今でも「花が好き」で、「花を美しいと思う」心があるのだとわかる。
そしてそれは、かつての祖母と地続きなのだ、ということが思い出される。
当たり前のことだけど。

今年のはじめ、祖母はまだ自分の家がわかり、半径1km圏内ぐらいは、散歩に出かけていた。
年の瀬、祖母は自分の家がわからなくなり、散歩も家の前だけになった。

来年はどんな風になるのか、わからないし、わかりたくもないけれど。
どんな祖母になっても、それはかつての祖母と地続きだということを、忘れないでいたいと思う。



※画像お借りしました。まるいみさきさん、かわいいイラストをありがとうございます。





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