【本ソムリエの世界の観方】 「考える」ことの3つの段階

「考える」

あなたは「考える」ってどういうことか、小学校1年生に説明できますか?
そう言われて、「こういうことです」って言える人は多くないのではないでしょうか。


今回のテーマは「考える」。

「考える」って一体どういうことなのか、今回はそれを分解していきます。


でも思い返してみてください。
これって結構、不思議なことじゃないですか?

私たちは小学校や中学校の頃から、両親や教師から「よく考えなさい」なんて言葉を言われたりしているはずです。

でも「考える」ってどういうことか説明してください、って言われた時
あなたはなんと言うでしょうか?

・・・難しいですよね。

おそらく簡単には出てこないはずです。


「考える」っていうことは、間違いなく誰もがやっているはず。

きっと、今も「考えていた」のではないでしょうか。

きっと、これまでも色んなことを「考えて」生きてきたはずですよね?


でも、こうやって今一度問うてみると、なんだかよくわからなくなってしまう・・・。

私たちは何をもって「考える」と言っているのか。
「考える」というけど、そういう時って本当に「考えて」いるのか。

今回は「考える」について考える。

これを読み終えた後には「考える」という行為のイメージが変わっているはずです。



「考える」は一つじゃない? 【考えることの3つのフェーズ】

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「考える」と一口に言いますが、それってどういうことか、よくわかっていない人が少なくありません。

「小学生にもわかるように説明してみてよ」なんて言った時にはフリーズしてしまうでしょう。

でも、それでいいのです。


例えば、コップ

コップをイメージしてください。


できましたか?

きっと皆さん、コップって知っていますよね。
今日も使ったかもしれないし、もしかしたら今まさに持っているかもしれない。


しかし、ではこれから「コップをデザインしてください」とあなたに依頼したとします。

その時、「どんなコップにしようか」、と考え始めるでしょう。

じゃあ、その時どういう問いに晒されるか

それは、「コップってなに・・・?」ということ



どんな形であれば「コップ」と言えるのか。

どんな材質であれば「コップ」になるのか。

どんどん深さを浅くしていったら、「皿」とどう違うのか・・・・。



考え始めた瞬間に、こういう問いが出てくるでしょう。

そして先ほどまでわかっていた「コップ」というものが、わからなくなってしまった・・・・。


しかし、こうわからなくなった、というのは「コップ」に対して「理解が浅くなった」ということなのでしょうか?


むしろ逆なはず

理解が深まったからこそ、「わからなくなった」。


「考える」にしても同じことです。

「考える」ということって何か、そう言われてしまうとよくわからなくなってしまった。

それは、理解が浅くなったのではありません。

むしろ、深まっている。


それを知ろうとしたからこそ、わからなくなる。

だからこそ再び考えるのです。


さあ、「考える」ということに対して、深めていきましょう。



①第一段階「感情」・・・人は”反応”で生きている?

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私たちは、日々「考えて」生きていると思いがちです。

しかし、もしかしたらそれは、しっかりと考えているのではなく、「反応」でしかないかもしれません


例えば、街に出て買い物をする時。

そのモノを見るまで別に「買いたい」と思っていなかったはずなのに、
急に「欲しい」と思って買ってしまった・・・・

そんな経験ありませんか?


また、別の例では。

それまでは別に機嫌が悪くなかったはずなのに、
ネットで好きだった芸能人の不倫のニュースを見て「最低、許せない」と怒ってしまっている・・・・


どうでしょう?

これらは実は、「考えている」わけではありません。

あれこれと考える前に、反射的にそう思ってしまっているだけではないでしょうか?


これはコミュニケーション、人との関わりでも同じことが言えます

例えば、仕事場で。
「すれ違ったのに挨拶をしてくれなかった」と思ってしまった。
しかし、その時の感覚は、ほんとうに「考えた」ものでしょうか?


また別の場面では。
SNSに知り合いが誰とは言わないけれど、愚痴をこぼしていた・・・
「それって私が何かしたんじゃないのか・・・」


これらのような事柄は、果たして「考えて」いたのでしょうか?

これは単に外部の「刺激」に「反応」したにすぎません。

しかし、この段階の「思うこと」や「感情」は日常に溢れかえっています。


街に出れば、看板や信号、メッセージがいたるところにあり、「こっちを見て」と注意をどうにかして引こうとしています。

家に帰っても、ものが溢れかえってメッセージを発し、
スマホの中にはもっともっと過激な、どうにかしてクリックさせようとする注意がいたるところに・・・。

あまりにも自信が意図しない受動的な情報が多く、自分で考える時間は思っているほど多くはありません。


私たちの多くが、「考えている」と思っていることは、ほとんどここでしかないのです。

外部の刺激を一旦無条件で受け入れるのをやめてこそ、ようやく次の段階に行けます・・・・。



②第二段階「思考」・・・論理で導き出される世界

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第2段階は「思考」です。
「ん?”考える”と”思考”って何が違うの??」
そう思われた方もいるかもしれません。

この項目で扱う思考は、

「論理的な思考」
「理知的な思考」

というような「理」の世界の話です。

つまり、「脳」を使って考える時に行うこと。
「正解」を導いたり、答えを探り出す行為のことを指します

そして、さきほども書きましたが大抵の人は「考える」と言った時にこの第2段階までで止まっている事が少なくありません。

何が、どうなる、というようなことは全てこの段階になります。
いわゆるお勉強や、普通のビジネス的思考はここですね。


「思考」は言語化できます。

もともと西洋で「言葉」とはlogic、論理という意味でした

これは英語をはじめとする西洋語が、まず文法ありきなことからもわかります。

論理的に破綻していないか、ということがまず最低限の教養と見なされたりするため、「論理学」というものも発展してきた歴史もあります。


そのため、現代のビジネス的思考や学問は、ほぼここに収まります。

言語化、機械化できないものはなく、人間に説明できないものはない、というような20世紀から21世紀初頭までの流れ。

全てのことは考えることができ、言葉で説明でき、科学で証明できる。

根底にある「思考」の視点はこういうことです。



③第三段階「心」・・・「科学」は絶対か??

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上の「思考」の段階で書きました。

「科学で説明できないものはない」
「科学絶対主義」

というのは、論理的な思考、言語化できないものはない、ということが根底にあるのです。


・・・しかし、果たしてほんとうにそうでしょうか?


この世の中に「言葉にできないもの」は存在しないのでしょうか。


これはやはりNOではないでしょうか。

特に私たち日本人ならなおさらに。


そもそも日本語は世界的見てかなり特殊な言葉です。

まず英語やドイツ語のように絶対的な決まった規則性がありません。

文法で意味を取る、ということがないのです。


例えば「私はあなたのことが好き」という短い文章においても、

「あなたのことが、私は好き」

「あなたのことが好き、私は」

「好き、私はあなたのことが」

というように、語順を変えても意味はほぼ変わりません

このことからも、日本語はそもそも論理の言葉ではないと言えます。



そして、今。

世界的に「科学」や「論理」で説明できないところに焦点が当たってきています。


ビジネスにおいても「どういう体験を」「どういう感覚を」売るのかというところが数値よりも重要になってきたりしています。
(まあ、この場合の「体験」や「感覚」は1の部分も含まれてしまうので位置がいいは言えませんが。)


もっと簡単に言えば、
「なんかわからないけれど、これが好き」

そう思わせたら勝ち。

そういうような言葉にできないところの重要性が高まっている現代ではあるのです。

この時代性についてはまた詳しく書きます。



また、ビジネス的な視点ではなく、日本伝統芸能の世界から見ていくと、その本質が垣間見れるかもしれません。
(少し難しい話なので、飛ばしていただいても結構です)


この「心」。

能の世界では「心」と書いて「シン」と読みます。

「心」を「ココロ」と読ませる場合は、第一段階の「感情」のことをいい、
「シン」と読ませると、この第三段階のことを言うのです。


この「心」、アイヌの世界で言えばこれは「魂」と言います。

「魂」とは、死んでも残る幽霊、のようなものとは少し違って。


アイヌではこの「魂」というのは、自分一人のものではなく「カミサマ」と繋がっていると考えます。

ここで「カミサマ」と言っているのは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教が指す絶対神の事でも、他宗教が指す神のことでもありません。

自然やものや空間に宿る「八百万の神」にイメージは近いでしょう。


で、この「カミサマ」。

たとえば、あなたが私に対して話す場合


あなたは私に話しているのではなく
私という媒介を通して、私のカミサマに話している
そういう考え方をします。


これは能の世界も共通らしく。
役者が演じるのはこの世の世界の事ではなく、
その役者という私を通して、あっち(この世ではない世界)の世界の事を体現しているらしいのです。


演出家でも教育者でもあった身体論の竹内敏晴氏は、
この「心」で考える状態のことを「からだが劈(ひら)く」と言いました。


これをあえて「理」の世界に落とし込んで話せば、
自分は本当にはどう思っているのか。
そういう言語化できていない、あるいは言葉にできない深層心理を深く見つめる、ということに。


「自分が本当に好きなことがわからない」
「自分が本当にやりたいことがわからない」


そういう問いは、①②の段階の思考では決して見えてくるものではありません。
自分は本当にはどう思うのか。それを深く抉っていくことが必要なのです。


多くの人が①の反射や感情で生きているために、ちょっとしたことで怒ったり、苛立ったり、悲しんだりしてしまう。

少し考えても、②の論理性が高まったりするだけで、本質的な思考には至ることは多くありません。


一体、本当には何を言いたいのか。
心の奥底は何を思っているのか。
本質は何なのか。


それを見抜くには、自身にも相手にも③の視点で、その表面の先を見据えることが重要です。


「考える」の本質とは、感情でも論理でもありません。


表面的な事象の先にあるもの。

それを想うことではないでしょうか。




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