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[日記]気づかなかったらいいのにな


うちのトイレットペーパーホルダーは、横並びにふたつ並んでいるタイプだ。
先日、トイレに入ったらその片方のペーパーか無くなっていることに気づいた。

トイレットペーパーはもう片方のホルダーにまだあるわけだから、別に私がここで新しいものを入れなくても誰も困らないのだが。

新しいものを出して、取り付けておく。

これは「あとから使う人のことを考えなさい」という両親の教育の結果だ。思いやりの精神である。

他の家のことは分からないが、我が家では、自分が使って無くなったものは、基本的に自分で、あるいは無くなっていることに気づいた人が率先して次のものを用意する。

家族で共有のシャンプーの補充はもちろん、冷蔵庫にストックされている麦茶が無くなれば、やかんでお湯を沸かして煮出す。箱ティッシュが無くなれば、その補充と空き箱の分別までする。

そして我が家では、自分のことだけするのは良くないことであり、思いやりのないことなのだ。

お風呂に入ろうとしたときは、自分のバスタオルだけでなく、次に入る家族の分も風呂場に用意する。
1人が遅れてご飯を食べたら、自分より先にご飯を食べた家族の浸け置き食器まで洗う。


それがうちの家族のルールだ。


世間の常識というものがどうなのかは分からないが、およそ家族単位の集団生活の場では常識的な教えなのだろう。

そしてその教育のおかげで、私は生来鈍い人間ではあるが、そこそこの思いやり精神、“気づき力”は備わったわけである。

この“気づき力”の有無は、職場などでは「気が利くかどうか」「仕事が出来るかどうか」みたいな言い方をされるものだと思う。

これについて、最近気づいたことがある。


“気づき力”が高いことは、処世術が優れていることとイコールではないということだ。


もちろん、世間では“気づき力”が処世術に活かされている場合はあるだろうから、これはあくまで私の場合の話である。

端的に言ってしまうと、気づくことが多いぶん、仕事が増えるのだ。そして、それは別に評価されることも、礼を言われることも無い、思いやりである。これは私の自己アピールが足りないせいもあるかもしれないが(何せ、せめて謙虚でいなければと思う小心者だから、極力自分のことは言わない)。

そのせいで、自分ばかりが余計な仕事をしている気分になる。

それは絶対誰も認めてなんてくれないのに、そこで気がつかえたところで何にもならないのに、損な役回りを、なんで私ばかり、と気が滅入る。

そして自分の器の小ささに嫌になる。


けど、純粋に相手を思いやって、“気づき力”を発揮することは、相手を大事に思うか、自分に余裕が無いとできない。
そして、私の場合は職場の人間に純粋な思いやりを発揮できない。大事にも思えないし、余裕もない。社交辞令的な思いやりによる“気づき”は、なんで私ばっかりがこんなこと、と精神衛生上良くないのだなあと最近思い知らされている。


たまに鈍い人を装って、気づかないふりをしてみる。

けれどそれは、なかなかに居心地が悪い。

そうね、気づいていたけれど、でも、それは私がやらなければいけないこと?他の誰かが気づけばいいのよ、私には関係ない。

と言い聞かせる一方で、

気づいた私がやらなかったせいで、あんなことになってしまっている、気づいた私がするべきだったのに、ごめんなさい、ごめんなさい。

と訳の分からない罪悪感が押し寄せる。目まぐるしい。

もっと鈍くなれれば良かったなあと思う。


周りのことにも、自分の胸の痛みにも。


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