見出し画像

障害理解ってしなくてはいけないの?

障害理解って必ずしなければいけないものなのでしょうか。

こんにちは、くつばこ+のみうです。
昨日、嵐の櫻井くんと相葉くんの結婚が発表されましたね。私は母からそのニュースを聞いた際に、「遂にジャニーズが法律まで変えたのか」と嵐の影響力の大きさに驚いていたところでした。結局ただの勘違いでしたが、一晩明けて驚いたのは世間の反応についてです。
見出しのせいか私と同じく同性婚かと思った人が多かったみたいですが、それに対して見出しが紛らわしいことに対してのツッコミはあれど、同性婚に関しての批判はほとんどなかったように思いました。
誰が誰と結婚しようがどうでもいい私にとってはどちらでもいいのですが、世の中の情勢的に同性婚にまだ驚く風潮とはいえ、バッシングにならないというのはいい世の中になってきていると言えるのではないかなと感じました!(実際違ったから、驚き止まりで文句などが出なかったというのはあると思うんですけどね)

さて、だいぶ前になりますが、せんがパラと障害理解についてnoteを書いていましたね。

私はあのお話を彼女から直接電話で聞いたのですが、当時から違和感を感じていました。かなり寝かせてしまいましたが、やっと自分の違和感を言葉にできそうなので、書いてみようと思います。

☆せんの意見

今日は彼女との意見と対比させて考えてみたいと思ったので、うたがよくやってる「要約」をやってみたいと思います。

①障害理解はみんなで考えていかなければならないもの。「興味ないのでやりません」という人に対して「そうですか、わかりました。」とは言えない。
②パラはあくまでスポーツの祭典。「スポーツ自体に興味がないからパラを見ない」選択肢はあり。「スポーツ好きじゃないからパラリンピック見ません」が、オリンピックと同じように捉えられるようになってほしい。
③障害などの話題は「みんなが興味・関心をもっていなければいけない」という、社会の刷り込みがあるせいか、「障害やバリアフリーに興味がない」と言いづらい世の中になっている。

☆せんの主張を読んで

上記の意見について、②のオリンピックと同様に扱ってほしいについては全面賛成、③の「興味ない」って言いづらいという認識も正しいと思います。
しかし、①の「障害理解はみんながしなくてはいけない」については反対の意見を持っており、私は全員が障害者を理解しなければならないとは考えていません。
せんが良しとしなかった、「どうでもいい」「障害関係のことは嫌い」という人がいてもいいと思うんです。
今日はその「障害理解をしなくてもいい」と考える立場からお話ししようと思います。

☆「障害は全員が理解すべき」こそがバリア

まず、ボランティア先の方のお話を伺ったときに一番違和感を感じたのは、「オリンピックを見ないことは公言できるけど、パラリンピックを見ないことに関して少なからず後ろめたさを感じている」ということなんですよね。
その意見こそが障害を特別視しているのではないかと思いますし、せんのいう

障害理解はみんなで考えていかなければならないもの

という考え自体が「何か他とは違う物」として線引きされてしまっているような気がするのです。
私の願いとしては、もっと障害がフラットに考えられること。
ここの考え方は、りこがとても綺麗に言語化してくれているのですが、

例えば誰かが「宇宙が好き」とか「魚が好き」とか「小説が好き」とかと何も変わらなく、ただ「障害福祉」が好きなだけ

位の位置付けになってくれるのが理想かなと思っています。

☆「障害科学」も他の領域と同列に

「興味を必ず持たなければいけないと思われてること自体に、線引きを感じる」というお話をしました。
例えば、私はリトグリが大好きですが、全人類が彼女らの歌が好きなわけではありませんよね。
興味のある対象の知名度にもよりますが、ソニー損保やラウンドワン、コカコーラのCMの人?となる方や、声を聞いたら陸王とかラグビーで見たことある!という方は多くいる一方、CDを買ったりライブに行ったりするほどのファンはそのうちの数%ですよね。

もっと言えば、大学は各分野のエキスパートを育成すると同時に研究機関であり、「障害科学」もひとつの研究領域です。障害学を学べる学問分野は多岐に亘り、医学的・社会学的・教育学的の他、経営学や法学という分野から攻めることもできますが、それでも研究対象を「障害」に絞る人は本当にひと握り。基本的にどの学問でも興味の濃淡というのはあり、興味が濃い分野を大学で専攻するわけですよね。全員が同じ学問分野を学ぶわけではない様に、興味の矛先の共感は出来なくて当たり前じゃないですか。
教科科目とは少し位置付けが異なりそうですが、数学が好きで社会が嫌いな人間がいるように、「障害科学」への分野への興味がない人・その分野の勉強が嫌いな人はいてもいいと思うんです。

☆最後に

今日は障害理解をしなくてもいいという立場から、私の思う障害理解(理論編)を書いてきました。もちろん今日の主張は私の本心ですが、「弱者に優しく」が謳われる世の中において、現実味のない理想に近いものもあるかもしれませんね。
現実的にはせんの主張③にある様な、「社会の刷り込み」がある時点で「障害に興味がない」人が叩かれる世の中ということは理解できます。それが助長して、特定の学問へ強制的に理解を示さなければならないという悪循環が見えるのですが…。刷り込み自体を取っ払うのは、どうするのが得策なのでしょうか。

明日はもう少し具体的な場面において障害理解について考えてみます。それでは今日は一旦ここまで!よかったら続きものなので明日の記事も読んでくださいね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?