見出し画像

八:『奇数の月』

 幸せとは恐ろしいものなのか。そう感じたのはその日が初めてだった。
 その日は夜に、幼馴染の宇佐木月光と酒を交わす約束をしていた。俺はいつもより早めに店を閉め、月光の家へ向かっていた。9月の夕暮れ時といえど、外は残暑で蒸し暑い。そんな道中、月光から「仕事で遅くなる」と連絡が入った。
 さて、どう時間をつぶしたものか。今から自宅に引き返すのは時間がかかる。駅前に戻ってどこか涼しい場所で時間をつぶそうか。
 ある居酒屋の看板が目が留まった。コンクリート造りの古い雑居ビルの入り口に置かれている。看板には「こちら」という文字ともに地下へと続く階段を矢印が示している。周りは住宅街。競争店は少ないだろうが、このような場所で客入りはあるのだろうか。絶対につぶれないタバコ屋とか文具屋とか、そういった店はどのように経営を維持しているのか、昔から疑問に思う。税が関係していると聞いたことがあるが。それとも、何かしらの需要があるのだろうか。
 そんな余計なお世話なことを考えているうちに、興味が湧いてきてしまった。これから酒を飲む予定だが、少しくらいなら悪くはないだろう。
 
 地下への階段を下り「営業中」であることを確認する。換気しているのか戸は開けっ放しであった。中に入ると居酒屋特有の、酒やタバコのヤニが混ざった匂いが漂っている。カウンター席といくつかのテーブル席があり、奥から店主らしき男が「いらっしゃい」と静かに声をかけてきた。「好きな席に座んなよ」
 客は案の定、他に一人もいない。時間帯の問題もあるのだろうが、どことなく繁盛していないと思わせる雰囲気であった。従業員も見当たらず、店主一人で切り盛りしているようで、シンパシーを感じる。
 俺は出口に一番近いカウンター席に座った。客がいないことに若干の不安があったが、品書きにある金額は普通だし、酒もつまみも美味い。騒がしくない分、当たりの店を引いたのかもしれないと感じていた。はやり繁盛していないのは立地が悪いのだろうか。
 
 店主に経営の話でも聞こうかと思っていると、店主は「いらっしゃい」と静かに言った。入り口を見ると、そこに男がひとり、店に入ってきていた。
 無精髭を生やし、洗濯していないような黄ばんだ服を着た身なりの悪い男だった。風呂に入っていないのか、ベタついた髪に、むっとする体臭がした。
 人を見た目で判断してはいけないと思ってはいるが、どうしても気味が悪いと思ってしまう。その男は古い日本人形を、赤ん坊を抱くように抱えていたのだから。
 俺はつい、その日本人形をじっと見てしまった。黒いおかっぱの赤い和服を着た少女の日本人形だった。俺の視線に気がついたのか、男はこちらを見つめてきた。慌てて目線を逸らすがすでに遅い。
「だんなぁ、おひとりですか? 一緒にどうです?」男は俺の隣に座り、覗き込むように話しかけてきた。
「いえ、そろそろ出ようかと思っていたところで……」
 俺は財布を取り出し、店主に金額を払う。
「そんなことおっしゃらずに。一杯だけ。ほら、今日は9月9日、重陽の節句でしょう。菊酒を一杯。私が払いますから。ねぇ? それに……」男は日本人形を見せ付けた。「興味があるのでしょう? 私が何故、これを抱えているのか」
 俺が帰り支度を中断し、席に座りなおすと、男はにやっと黄ばんだ歯を見せ付けながら笑った。

 男が菊酒を注文すると、しばらくして俺と男の前にそれぞれ菊酒が用意された。赤い盃に透明な清酒が注がれ、その上に黄色い菊が浮かんでいる。
「これは、普通の菊酒ですよね?」
「他にどんな菊酒が?」
「本当に不老長寿になれるとか」
「はは。だんなぁ。面白いことをおっしゃる。そんなものがあればいいですな」そう言って男は菊酒を飲んだ。
 それもそうですね、と笑いながら俺も菊酒を口につけた。なんてことのない、普通の菊酒だった。

 菊酒を飲んでいる間も、男は日本人形を離さなかった。むしろ菊酒を飲むときは、よりいっそう強く握りしめているようだった。
「この人形がやはり気になっているようですね」
 男は言った。むしろ早く話してほしい。その理由を聞くために俺は足止めされているのだから。
「ええ。何か大事なものなのですか?」
「大事なものなのです。とても」
 男は日本人形の髪を優しく撫でた。死んだ子供を見立てたものとか、そのようなものだろうか。
「この人形の話をする前に……何故、9月9日が『重陽の節句』であるか、ご存知ですか?」
「いえ、深くは……奇数月に節句行事をするということくらいしか」
「節句はですね、もとは中国の陰陽思想が由来なのです。奇数というのは“陽”の数字なのです。つまり、五節句の中でも最大陽数にあたる9が最も陽が強いとされ、それが重なる9月9日は古くから重んじられてきたのですよ」
「なるほど。それでは、日本とは逆ですね。9といえば、日本なら苦(く)として不吉な数字にされがちですからね。4(し)まではいきませんが」
「だんなぁ、違いますよ」男は不気味に笑った。「重陽の節句には菊酒を飲みますが、それは邪気を払うためです。菊には邪気を払う力があるとされているからですよ。不思議に思いませんか? なぜ陽の月に邪気を払うのです? 3月の桃も、5月の柏も、全て邪気を払う為です。何故でしょうか?」
「確かに、そう言われると……」
「今は陽の重なりで吉祥とする考えの祝い事とされていますが……本来は、陽が重なり合うと、陽の気が強すぎてしまうために、かえって不吉だとされてきたんです。だからその不吉を取り除く為に、節句というものがされてきたのです」
「ほう……そうなんですか」
 ここまでは、ただのウンチク話だ。実際に関心はしている。何気なく行ってきた節句にはそのような由来があったのかと。しかし、ここからどう人形の話につながるというのか。
「つまりですよ、だんな。陽、すなわち『良いこと』が重なるということは、かえって『良くないこと』なんですよ。幸せを手にするということは、逆に自ら不幸を招くということなんです」
「そう、なんですかね……」
「そうですよ。幸せであり続けることなんて出来ないのです。一度高みに上ると下りしかないように。仏教には『六道』というものがありますが、その中には『天界』も入っているのですよ。天人の住む世界。六道の、『解脱出来ていない世界』に、なぜ天の世界が入っているかわかりますか? 天人たちには落ちる可能性という恐怖が常にあるからです。良すぎるという環境は、良くないことなのです。ですから幸せになりすぎない方がいい。あえて不幸を取り込んでおいた方が、丁度良いんですよ」
「まさかとは思いますが、その日本人形は……」
「ええ、『不幸になる人形』です」
 男は赤黒い歯茎を剥き出しにして、笑みを浮かべた。
「あなたは、わざわざ自ら不幸を取り込んでいるというのですか?」
「ええ、そうですよ。この人形のおかげで、私は幸せになりすぎずに済んでいる」男は人形をそっと撫でた。「この人形の力は本物です。私はこの人形を手にしてから職を失い、家族を失い、住む家を失った。しかしこれでいいんです。不幸が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、同じくらいの幸せが訪れるはずなんですから」
 男は人形に頬ずりをしはじめた。
「なぁ、そうだよな、そうだよなぁ? こんなに不幸になったんだ。これからとてつもない幸せがくるよなぁ。なぁ、なぁ、なぁ……」
 
 俺は絶句し、それ以上は何も言えなかった。それよりも、この男にこれ以上関わってはいけない。男が日本人形に気が向いている隙にと、席から立ち上がった。店から去ろうと背を向けた瞬間、男が言った。
「だんなぁ、今、幸せですか?」
「まあ、人並みに……」
「そうですか、それなら……」男も席から立ち上がる。「だんなも不幸になった方がいい」

 男が呪いの人形に触れさせようと、手を伸ばした瞬間、俺はすぐにその店を飛び出した。出入り口の近くに座っていたことが幸いした。全速力で階段を駆け上がり、しばらく駅前に向けて駆け抜けた。
 人気の多い大通りに出て、辺りを見渡したが男の姿はない。追いかけてきてはいないようだ。ほっとして息をつく。
「おい」
「うわぁ!」突然の背後からの声に、叫び声を上げて、思わずよろめいた。
「そ、そんなに驚くか?」
 振り向くと、そこには月光が立っていた。
 俺は胸をなでおろし、月光の髪をわしわしと撫でた。
「気持ち悪い奴だな」と言われたが、それより気持ち悪い体験をしたので、何を言われようとどうでも良かった。

 それから月光の家に行き、酒を飲む準備をはじめた。縁側から景色を眺めていると、「眺めていないで、酒運ぶのを手伝え」と月光が言った。
 台所に行くと、月光は缶ビールを何本か渡してきた。
「菊酒じゃないんだな」
「あ〜そうか、すっかり忘れていた。風情がなくてすまないな」
「いや、かえって菊酒じゃなくて良かった」
 
 二人で縁側に腰掛け、缶ビールで乾杯した後、飲みながら今日の夕方の出来事を月光に話した。
「“奇数”月の節句か……」月光がそう呟いた。
「陽だとか、吉だとか、そういう数字なんだろ?」
「そうだが、そこから転じて『自分から不幸を取り入れる』なんていうやつがいるとはなぁ」月光は、ふっと軽く嘲笑った。
「あそこまで過信するわけじゃないが、幸せと不幸って、バランスになっていたりするのか? 悪いことが続いたときに、そのうちいいことがあるさ、なんて励ますだろ。世の中、そのように出来ているのか?」
「もしそうなら、その男はそのうち大富豪か。そうなりそうだったか?」
「いや、それは何とも」
「それにその店も今後は大繁盛か」
「なぜ?」
「不幸にする人形を持つ男が出入りしているんだろ」
 あの店のよどんだ空気を思い出す。店もあの人形の影響をうけているのだろうか。
「それに、その男は本当に不幸なのか?」月光が言った。
「そうなんじゃないか? 本人もそう言っていた」
「そうか? その男は幸せなんじゃないか?」
 男のにやりとした笑みが脳裏に浮かぶ。心から喜びを感じている笑み。
『この後とてつもない幸せがやってくる』、それを期待している喜び。
「でも、あれが幸せな状態なんて……」
「じゃあ、不幸なのかもしれないな」
「どっちだよ」
「俺が分かるわけないだろう」月光は酒をぐっと飲んだ。「何が幸せなんだろうなぁ、何が不幸なんだろうなぁ……」
 少し酔っているようだ。身体がゆらゆらと揺れている。
「幸か不幸か……ああ、そうか」
「どうした?」
「だから奇数なのか」
 月光が三日月のような口でうっすらと笑った。どういう意味だと問おうとしたが、そのまま横になり、寝息を立てていた。

 数日後、例の居酒屋の前を通ると、店は潰れていた。

 終。


サポートしていただきました費用は小説やイラストを書く資料等に活用させていただきます。