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三:『やる気を食う怪物』

 教室に入ってきたのが誰なのか、顔を上げなくても分かる。教室にいた女子生徒達の囁き声には嬉しさが隠しきれていない。同じ弓道部で、一学年上の宇佐木月光先輩だ。
「天宮(あまみや)……部活をさぼって机で寝ているとはいい度胸だな」
「違うんですよ……」
「人が喋っているんだから顔をあげ、ろ!」
 机に俯けていた顔を、グイッと右に捻じられる。妙に整った顔立ちが目の前に飛び込んできた。何を食ったらこんな顔になれるのだろう。いや顔は生まれつきか。
「今日怠くて」
「昨日も一昨日も休んでいるだろ」
「最近ずっと、やる気が出なくて……今日は一段と酷くて、朝からトイレ以外この体制です」
「朝からずっとォ? 昼飯は?」
「こう……おにぎりだけ口に運びました」
 上半身を机に預けたまま、右手で口に運ぶジェスチャーをする。
「それは流石に酷いぞ。どこか悪いんじゃあないか?」
 先輩は不安そうな顔で隣の席に座った。
「風邪ですかね。僕は先輩と違ってアレじゃないんで」
「あ? 何だって?」
「冗談ですよ」
 僕がそういうと、先輩はムスッと頬を膨らませている。といっても本気では怒っていないのだろうけれど。
 宇佐木先輩に、こんな風に話しかけられる1年は他にいないだろうなと、教室の雑音を聞きながら少し優越感に浸る。
「でも熱とかはないです……」
「梅雨時だし、気圧によるものかもな」
「それって偏頭痛とかいうやつですか? 母さんがよく言ってます」
「それもあるな」
「そうですか……今日も雨降るんですかね。死んだカエルの匂いしますし」
「…………」
「あれ、言いません? 雨の時のあの生臭い匂いをカエルの———」
「お前、部活終わるまでここで待ってろ」
「え、いいですけど……動けないですし」
「そうか、じゃあ後でな」
 先輩は席を立ち、教室から出ていこうとする。
「忘れて帰らないで下さいね〜」
 去っていく背中に向かって冗談混じりに声をかけた。
 突然、先輩の声色が変わった。
「いいか、自分を見失うなよ」
 そう言って先輩は行ってしまった。

 どういう意味だろう。再び机に顔を伏せた。独特な勉強机の匂いが鼻を支配する。
 待ってろと言っていたけれど、先輩は僕を運んでくれるつもりなんだろうか。背小さいけれど大丈夫かな。それを言うと、めちゃくちゃ怒るけれど……。

 教室内の声が段々少なくなっていく。次第に誰の気配もしなくなった。
 もうこの教室には僕しか残っていないのだろうか。しかし確かめるのも億劫だ。眠ろうにも眠れない。ぼんやりした頭で時が過ぎるのを待っていた。
「帰らないの?」
 まだ僕一人だけではなかったらしい。男子生徒に声をかけられた。誰かは分からないが、聞き覚えがあるからクラスの誰かだろう。
「まぁ、ちょっと」
「授業中もずっと寝てなかった?」
「そうだな……」
 気怠さが増す。会話すら面倒になってきた。
「あ、雨だ」
 話しかけてきたやつが言った。耳を澄ますと、窓の外から雨音が聞こえる。
「やむまで時間潰すかな」そう言いながら、そいつは僕の隣の席に座った。

 外の雨音は激しくなってきたようで、窓に激しく叩きつけられる音が聞こえる。
「雨って嫌いだなぁ……」独り言として呟いたつもりだった。
「そうなのか。僕は好きだけど」
「……へぇ……」
 話しかけるなという意味も込めて、顔を上げずに、くぐもった声で返した。
「なぁ、『やる気を食う怪物』って知ってる?」
「……知らない」
 僕の意図は伝わらなかったようだ。
「そいつは雨と一緒にやってくる」
「はぁ……」
「時間潰しに付き合ってくれよ」
「……やる気を奪う、何?」
「やる気を〈食う〉怪物な。奪うんじゃない、食うんだ」
 隣のやつは妙な話を始めた。
 雨のせいなのか、生臭い匂いが増した気がする。

「雨時に、頭とか肩が重くなるだろ。それはその怪物のせいなんだ」
「気圧が原因だろ」
「大半はそうだけど、中にはそういう怪物が紛れ込んでいる」
「へー……」
「とり憑きやすそうな人間を見つけたら、次第に生気を食べていく」
「……妖怪じゃん」
「だから怪物なんだって」
「ああ、そう」
「生気が食われ始めると、まずはじめに〈やる気〉が失われる。だから『やる気を食う怪物』と呼ばれているんだ」
 即興にしては考えたな。それともそういう言い伝えでもあるのだろうか。
 頭が重い……なんだか気持ちまで沈んでくる。

「その怪物は、雨なんだよ」
「なんで雨」
「雨は降ったら、土にしみ込み、蒸発して、空にのぼって、また雨になる……その繰り返し」
「うん……」
「グルグルグルグル……地球上をグルグルグルグル……その繰り返し。
 嫌にちゃうよなぁ。つまらないと思わないか。そんなのって。嫌だよなぁ。そう思うだろう?」
 何を言っているんだ。雨の気持ちなんて考えないだろ。
「そんなのは嫌なんだ。雨は人間が羨ましい。雨は人間になりたいんだよ」
 人間なんて、面倒なだけだと思うけれど……。
 それにしても生臭い匂いが鼻につく。気持ちが悪い。
「生気を食われ続けた人間は、次第に自分は消えてもいいと思うようになり、最後はそいつ自身が雨になってしまう」
 ガンッと頭に鈍い痛みが響いた。それに続いて脈動に合わせたズキズキとした痛みがする。
「頭、痛い……」
「ふふっ、それはよくないなぁ。保健室にでも行くか?」
 そうだ。保健室に……。

 ──あれ?
 おかしい。身体が全く動かせない。

「身体が動かせないのか? ふふっ、よくないな、よくないな……ふふっ、それで、その怪物は……」
 笑っている。何が可笑しいんだ。こっちはこんなに辛いのに。頭が痛すぎて吐き気がする。もう、いっそ──。

「こうやって、生気を食べていくうちに、とり憑いた人間と同じ姿になってくる」
「なぁ、保健室の先生を……」
「生気を食った人間の人生をもらう。つまり、すり替わるんだよ」

 なにを、言っているんだ?

「替わる機会を狙って、とり憑いた人間が一人になったところを見計らって、やってくる」

 こいつ……だれだ?

「ふふっ、人間の生気はすごく美味しい。だから〈食う〉んだよ。味を噛み締めているんだから」

 こいつの声、どこかで聞いた。どこで……ああ、頭が、痛い。

「なあ……その怪物って、どこにいると思う?」

 頭が痛い。痛い、痛い、痛い。痛すぎて気持ち悪い。吐き気がする。何で、何で、何で。身体が重い。怠い。辛い。面倒くさい。全て、全て。僕は何も出来ないくせに。こんなところにいて。
 何もしないで。何故、生きているんだ、僕なんかが。
 ああ、もう、いっそ──。

 ──消えてしまいたい。
 
 その瞬間、ふっと痛みが消えて体が動く。ガタッと椅子が鳴りながら、上半身が跳ねるように起きた。
 そして恐る恐る、横の席の方へ顔を向けた。

 僕と同じ顔をした男が、座っている。

「ひっ!」
 反射的に椅子から転げ落ち、床に尻もちをついた。ビチャッと、僕の中から水の音がする。
 恐る恐る自分の手を見る。僕の手も、腕も、半透明に透けている。動かす度に振動によって身体に波紋が広がる。僕の身体が水に──雨になっているんだ。

「どうして僕が……」
「お前は普通だった。家庭も普通だし、友人関係も普通だし、丁度良かった。
 偶々見かけたのがお前だった。ただそれだけ。強いて言うなら、運が悪かった」
 目の前の自分、いや怪物が言った。
「平凡なつまらない人生じゃないか。消えたくなっただろう。お前はもう何も考えなくてもいい、何も考える必要のない雨になれるんだ」

 ……平凡でつまらない人生。この先もきっと何もない。
 雨になって消えてしまった方が楽。そうだ、きっとその方がいい──。
 そのとき、教室の後ろのドアが開いた。

「つまらん人生かなんて、他人に決められてたまるかよ。そう思わないか、天宮」

 入ってきたのは宇佐木先輩だ。弓道着のまま、左手に弓と矢を携えて。
「……どうして。誰も入ってこられないはずなのに!」
 怪物が驚きながら先輩の方を見ている。
「梅雨時のあの生臭い匂い。あれは雨が上がったあとの土の匂いだ。だから降る前の、しかも教室でそんな匂いするわけないんだよなァ」
「し、質問の答えになってないぞ! な、何なんだ、お前……!」
「どうなんだ、天宮。お前の人生、そんな簡単に奪われてもいいのか。別にいいなら放って帰るぞ」
 先輩の言葉が、波紋のように僕に伝わってきた。僕の人生が……奪われてしまう。

「…………嫌、です」
 あれ……そうだ、どうして消えてもいいなんて思ったんだ。
「……僕は雨になんか、なりたくない」
 言った途端、溶けかけていた身体が少し形を戻し始めた。

「邪魔をするな」
 怪物が先輩に掴み掛かろうと迫っていく。しかし先輩は何でもないように怪物の額を指で弾く。
「天宮、自分を見失うな。こいつより心を強く持て。てめーの人生奪われたくなけりゃ、言葉に出せ」
 先輩がそう語りかけた。
 僕は唇をグッと噛み、怪物を睨みつけた。
「お前に、お前なんかに奪われてたまるか。平凡でも、つまらなくても、僕のものだ! お前なんかにやるか!」

 怪物の身体が揺れる。揺れた場所から波紋が広がった。同時に透明になっていた僕の身体が色を帯び始める。
 それに比例するように怪物の身体は透けていく。そのうち僕たちは全く同じ濃度になっていた。

「……い、嫌だ。雨に戻りたくなんてない!」
 怪物は両手で僕の首を締めてきた。
「かはっ……」
 一瞬苦しくなったが、すぐに怪物の手首を掴んで対抗する。
「離せ、雨に戻れよ……」
「嫌だ、せっかくここまできたのに、お前に分かるか、僕の気持ちが……!」
「知ったこっちゃねーよ……」
 力は五分五分だ。どちらも引けない。

「そうだな、頑張ったようだから、手伝ってやる」
 先輩が怪物の背後でにやりと笑った。

 怪物はびくりとし、勢いよく手を離し、僕を突き飛ばすと、先輩の方へ向き直った。
 先輩は弓矢を手にしている左手を動かした。まさか弓矢で退治を──。

「オラァ!」
「ぐえっ」
 先輩は怪物の腹に、思い切り右手の拳を突きつけていた。

「ええ?!」
 まさかの物理攻撃に思わず叫んだ。
 怪物は苦痛な声と同時に何かを口から吐き出した。ふわりと出てきたそれは空中を漂うと、僕の中に流れ込んでくる。これは、こいつが食っていた僕の生気か。
「い、嫌だ、嫌だ……僕はただ、羨ましかっただけなのに……」
 僕と同じ姿をした怪物は、絶望の表情で嘆いている。
 その時、先輩が優しく言った。
「大丈夫だ。手伝ってやるって言っただろ」
 それを聞くと、怪物は目を見開き、次第に穏やかな表情になっていった。
 あの言葉は、僕たち2人に言っていたのか。

 透明になった怪物はバシャッと水になって空中で弾けた。
 空中に飛び散った水は、しばし浮遊したあと、先輩がいつのまにか持っていたボトルの中に吸い込まれていった。
「よし」
「あ……ありがとうございました」
「おう」
「……弓矢を使うんじゃないんですね」
「あ? 教室で弓なんて引いたら危ないだろうが」
「ええ……じゃあなんで持っていたんですか」
「部活の途中だから」
「え……」
 ふと時計をみると、1時間も経っていなかった。

「……関わりができたやつには〈向き合う〉と、そう自分で決めているんだ」
 先輩はボトルの中の雨水をゆらゆら揺しながら呟くように言った。
 そうだ、弓矢とかより、もっと聞きたいことがある。
「先輩はいったい──」
「天宮」
 先輩は僕の方を振り向いて、悲しげに微笑んだ。
「お前のおかげで『高校生』も、なかなか楽しかったぞ」
「え──」


 ──。

 ──あれ? 

 僕は教室で、1人で何をしているんだろう。
「……うわ、もうこんな時間?!」
 時計を見たら部活開始から1時間も経っている。今日は調子良くなかったし、寝てしまっていたんだろうか。
 誰かと話していたような気がするけど……誰だっけ。


「すみません。部長、遅れました」
「天宮、大丈夫なのか? 具合悪かったんだろ?」
「はい、でももう良く……あれ、何で知っているんですか」
 うちのクラスに弓道部員はいない筈だ。
「そりゃあ、そう報告を……あれ、誰から受けたんだったか」
「…………」
 道場に雨の音が響く。
 激しい雨の音。
 何か、忘れてしまった気がする。
 大事な何か……。

 ああ、雨は、嫌いだ。

 大切なものを奪っていきそうで。


第三話「やる気を食う怪物」おしまい


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