古井由吉の思い出(Pさん)

 Pさんです。

 昨日、古井由吉が亡くなったというニュースがあって、一作家が亡くなったという知らせにしては驚くほどの量の人がそれに対してコメントしていた。
 僕は古井由吉の著作を読んだのは全著作中半分以下だから、なにがしか語るのは気が引ける。
 作家で面白いコメントを出していたのは吉村萬壱で、ツイッターで

古井由吉さんには「読者の中にはエッセイしか読まない人もいるから、決してエッセイの手を抜かないように」と言われ、ずっと心に留めています。有難うございました。

 という引用?があって、面白かった。古井由吉らしいと思った。彼は小説と小説でないという区別をせず、全てに神経がみなぎっていた。
 吉村萬壱が今のツイートの前後に、一言発するにも背景が重く、これほどの頭脳を持った人こそが小説を書くべきで……なんてことを言っていたけれども、それに同意をするというほど、やっぱり読めていないという感じがある。
 特に、中期と後期の作品。『杳子』と、その他初期短編「先導獣の話」「陽気な夜回り」、『聖』『栖』を読んだきりで、『櫛の火』『槿』『辻』などが途中で、あとはエッセイを読みかじった。
 古井由吉がなぜすごいのか。何がすごいのか。皆すごいと言って、今回のことでも躁ぎ立てていたけれども、そこのところがわからんし誰もハッキリと言わず、あの作品がどうとかどの部分がどうとか、まるで触れてはいけないことのように不思議なくらい触れない。
 そういう作家だったということでもあるんだろう。

 僕も古井由吉を読んで、すごいと思うところはあったけれども、不思議と身体に残らず、文章を読むことから遠ざかるととたんにわからなくなる。他の作家でも、そこのところは同じかもしれない。
『杳子』で言うと、人間の動く描写が、まるで人形の手足を一つ一つ作家の文章の手で動かして、登場人物を動かしているようだと感じた。執拗な書き方があったと言えばいいかもしれない。肉体に特に集中して。風景や、対物的なものであれば、特殊でもないかもしれない。肉体に関わるけれども、肉体が棒かなんぞのように関節を動かすだとか首を横にひねって曲げるだとか、とにかく間に感情を挟まずに、また全体としての動きの意味に遠ざかることもなく書き続けるというのは、なんだか異様だった。
「雪の下の蟹」も物凄かった。あれほど読んでいてトリップする文章もなかった。ただ、部屋に入るというシーンがある。空気の重さと室温を、あれだけ伝える文章というのは、後にも先にもなかった。けれどもどんな文章だったか忘れた。
 この意味での「忘れた」ということは、さすがに呑気に捉えられない。この機会に、また、急いで読み返そうと思った。

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