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その〝らしさ〟は誰のため?個人を属性に還元しないで

私は人間で、女で、23歳。日本人。
会社員。社会人2年め。
〇〇県の××市在住。
独身。実家住まい。文学部卒。

これらは、世界中の人々のなかから、私という個人を特定するためのアイデンティティ。
これだけの情報で完全に特定してしまうのは難しいかもしれないが、すべて客観的にも事実であり、あらゆる場所で私を示す肩書きとなる。
他の誰のためでもなく、私のための肩書きだ。

◎◎◎

この春、社会人2年めになった。
新入社員ではなくなって、1週間ばかりが経った頃、ふと私はつい先日まで過ごしていた「新入社員」としての日々との違いを感じていた。

2年めになってからのほうが、ずっとなんだか心が軽いのだ。

もちろん、後輩ができた焦りはあるし、人事異動での環境の変化による疲れもあるし、業務は増えててんやわんやの日もあるけれど、それでも、ほんの少し心が楽なのだ。

社会人1年めだった昨年度、私は「新入社員らしくないね」と先輩や上司に言われ続けた。
上司は「ellieさんは新入社員らしくないところがいいね、新入社員だからって引っ込んでないところ」などと言ってくださり、それはうれしかったのだが、良い風に言う人ばかりではない。

「新入社員らしくない」という、先ほどと同じフレーズを、私の短所として使われる先輩のほうが多かったように思うし、
また「中途入社の1年めならそれでいいけど、新卒なら新卒らしくした方がいいよ」という先輩もいた。

そう、新入社員であった1年間は、とにかく「フレッシュであること」を強要されていたのだ。
それが私は、居心地が悪くて苦しくてたまらなかった。

そもそも私は、社会人になる前からどうやら「フレッシュさ」「初々しさ」みたいなものとは無縁なようで、わりかしいつも堂々としているねなんて言われるほうだ。
大学生の頃から、コスメカウンターのBAさんやアパレルのお姉さんからはOLに間違えられまくっていたし、就職活動の面接でも「全然緊張してないね」と行く先行く先で言われ続けた。実際のところはかなり緊張していたとしても。

そんなだから、私が自分で思っているのにまして、初々しさなんてなかっただろうし、それをかわいくないと思う先輩もいたらしい。

そこで浮かび上がる疑問は、〝仮に私がめちゃくちゃにフレッシュで、ザ・新入社員だったとして、それで誰が得するんだろう?〟ということ。

私が新入社員らしくいることで、何の利益があるのか。
その〝らしさ〟は一体誰のためのものなのか。

もちろん、初々しくてかわいい新入社員のほうが、先輩や上司だってすすんで面倒見たくなるのだろうし、たとえ計算であったとしても、フレッシュさを演じて、かわいがられる後輩でいることが現代の処世術なのだということは私にもわかる。

でも、そんなことが世渡りにおいて必須科目になっている世の中、ちょっとヘルシーじゃないんじゃないかと思ってしまう。

社会人としてまだまだ未熟だからそんなことが言えるんだと思われても仕方ないかもしれないが、ここで「未熟」と言われなければならないのも、私に「社会人らしさ」が求められているから。

哲学者鷲田清一はこんなことを述べていた。

「ひとの成長とは、(中略)共通のスタイルのなかにじぶんを挿入していくことを意味します。そうして人は社会の一住民となっていくわけです。」

(鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』ちくま文庫 2012年 p.40)

社会人としての〝成長〟とされるものが、息を殺して社会に溶け込んでゆくことを意味するなら、そんな成長は望まないし、望めない。

人間の数だけ個性があって当然だし、どんな個性にも同じだけの価値があるはず。これだけたくさんの人間がいるのだから、そろそろ、個の良さをつぶしてしまわない世の中にシフトチェンジしてゆくのが、現代のミッションではないだろうか。

◎◎◎

これは社会人になって始まったことではない。
大学のサークルでの、在籍年数と性別を掛け合わせた「一女」「二女」呼ばわりも大嫌いだったし、自分たちをそう呼ぶことで、キャンパスライフを謳歌している感を出す彼女たちも嫌いだった。

これもただの記号としての呼び名ではなく、後ろには「らしさ」が隠れていて、
一女は初々しくて無知でかわいらしく、
二女は少しお姉さんになるけれど脂が乗ってきて、
三女は熟したベテラン、
四女は私たちはもうおばさんだからと自嘲するのが例年の決まり。

別に会社みたいに、「一女なんだから一女らしくしろ」なんて説教されることはないけれど、それでも日頃の言葉の端々や、さまざまなところに上記の「らしさ」が言語化されないままひそんでいる。

決して安くないお金を払って、油の回った唐揚げを居酒屋で突きながら繰り広げられる「私たち一女は〜」なんて会話の「私たち」に含まれることに耐えかねて、私はサークルをやめた。

私は一女ではなく、私なんだ。
別に初々しくなくていいし、かわいくなくていい。

「かわいげがない」なんて、言われたって関係ない。私はファッションもメイクも大好きだけれど、私がかわいくあろうとするのは私が私を好きでいるためであって、誰かに好かれるための手段ではない。
ましてや、別に好かれたくもない人に、勝手にかわいげがないなんて言われたって、非常に大きなお世話でしかない。私はあなたの目の保養やご機嫌取りのために人生をやっているのではない。

◎◎◎

他者や周囲の環境から、「こうであれ」と強要されるのではなく、
自分自身の在り方くらい、自分の意思で選び取れる世の中であること


言葉にすると簡単そうに聞こえるかもしれないけれど、実際、まだまだ程遠い夢物語だろう。

そして、「こうであれ」と消費者にすり込み続ける、資本主義に傾きすぎた世の中が、少しずつ穏やかになりますように

脱毛しなきゃいけない気にさせる電車の車内広告、
痩せないと男に捨てられますよと延々流すYouTube広告、
そのままじゃ一生一重まぶたですよと脅すInstagram。

大衆のコンプレックスを刺激して、自分たちの利益に繋げようとするのが資本主義におけるCMでのベーシック。

でも、他人の容姿を大々的に公共の電波で貶めて、搾取しようとしているなんて、冷静に考えてどうかしている。

本来、犯罪でも犯していない限り、人間の在り方に正解不正解はないはずで、ましてや見た目なんてそれぞれの価値観がありどれも正解なはずだ。

全身脱毛して、必死でダイエットして、埋没して、たとえ精神的、金銭的に追いつめられてまででもそうするのは一体誰のため?

毛の生えた女なんて女じゃないとか、太った女なんて価値がない、かわいくない女なんて需要がない、などという、「女らしさ」の無意識のすり込みによって、〝生まれもった良さ〟がコンプレックスへとねじ曲げれらる現象。

本当に、誰のためにこんなことになってしまっているんだろう。良いことなんてひとつもないのに。

もちろん、全身脱毛するのも、ダイエットするのも、可愛くなろうと努力するのも整形するのも自由だ。それが自分の意思で選び取ったものであれば、どれもとても前向きなこと。
ただし、忘れてはならないのは、それらをしていても、していなくても、同じように尊重される世の中であること

誰の身体も、自分以外の他者のために存在しているのではない。

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今はきっと、少しずつ世の中が変化しようとしている、ちょうど過渡期なのだろう。

誰しもみな、個性があって、それぞれの価値があって。それは、新入社員だとか、女性だとか、そんな大きな括りの属性じゃ絶対に語りきれない。そして、括ってしまうと、せっかくの個性を見過ごしてしまうことになる。なんて勿体無いことだろう。

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いちいち細かいとか、言葉狩りだとか、何も言えなくなってしまうじゃないかとか、そりゃ女はお肌つるつるでかわいいほうがいいだろうとか。
SNSでは日々、ポジティヴな声とネガティヴな意見が交互に飛び交っている。

さまざまな意見が誰の耳にも入り乱れて、疲れてしまうことも多いけれど、その先には、今よりずっと息のしやすい未来があるはず。

誰ひとり取りこぼさずに、お互いを尊重しあえる、素敵な社会になりますように。

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