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解像度ってなんだろうか 日々風呂日記#32

友人からminolta SR-1という古いカメラをもらった

ぼくが生まれる前に作られたものだ

このカメラでまだ写真は撮ってはいない
でも、撮る前からわかることがある

それは今のカメラみたいに超高解像度では
このカメラではきっと撮れないということ

でも、それでいい
それがいい

もちろんそれはノスタルジックな良さではない

そこにぼくなりの"解像度"についての思いがある

解像度

解像度ってなんだろうか

写真にとってはいかに写実的に
対象物を取れるかという精度の値みたいなもの

それも間違いなく解像度の一つだ

でもそれだけじゃない
とぼくは思う

本質

高解像度であることにどこまで価値があるだろうか

確かにその場の空気や
その一瞬の瞬間の表情を切り取って
記憶として記録できる写真という媒体にとって
高解像度である事は間違いなく一つの価値だ

その瞬間の写真が鮮明である事で
その瞬間をよりリアルに感じ取れること

でも逆にその瞬間を鮮明に切り取るが故に
その瞬間のその場所でないといけない一回性が
より強く浮き彫りになって
それによってどうしても超えられない時間や
空間や記憶みたいなものが浮き彫りになる
その可能性だってある

だから大事なのは多分
高解像度であることではない

その瞬間を切り取る価値がどこにあるかを
よりリアルにより鮮明に捉えること

それこそが解像度の高さだとぼくは思ったりする

技術

技術はぼくらに価値をたくさん与える

写実的な高解像度もそうだ

もちろんその価値を追い求めることも
そのために必死に命をかけている人の努力も
讃えるべき素晴らしいものだ

でもそれだけが価値のあることだと
思い込んでしまうことがあることを
ぼくらは忘れてはいけない

そのより写実性の高い事は
そうでないと捉えられないもののための
そのための価値であることを忘れてはいけないな
そんなふうに思う

本質を捉えて切り取るのは技術そのものではなく
あくまで僕たち自身なのだと

抽象

だからどうやってもぼやけてしまうカメラにだって
価値はあるんだと思う

それは写実性の不足という具象的な技術的な欠落ではなく
そんな古いカメラでさえ捉えてしまう本質を浮き彫りにする抽象化なのかもしれない

そうだとするとこのカメラは今どんな意味を
どんな価値を切り取るだろうか

それは撮ってみないと
撮り続けてみないと、きっとわからない

だからぼくはこのカメラを大事にしたい

今日ののぼせ具合

今日ののぼせ具合は90%

なんだか最近暖かくなってきたような気がする

春は苦手だ
しばらく冬には足踏みしてもらいたい

それでは、おやすみなさい

きっと初めてなんて特に
今日のこの写真みたいに
ぼくの腕がない分余計にボケた写真になるだろな

それでもその写真に本質的な何かは写るだろうか

このカメラが
この世界のどんな美しさを見つけてくれるのか
ぼくはそれが楽しみで仕方がない

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