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わかりやすいことが良いことだろうか。良いことはわかりやすいだろうか。 日々風呂日記#25

世界一売れているものが1番良いものなら、カップラーメンが世界で一番美味いラーメンということになる。なんて言われたりする。本当だろうか。今日はそんなことを考えていた。

わかりやすい

わかりやすいってなんだろうか。色んなわかりやすさがあるけれど、例えば直感とか、感覚とか、センスとか言われるもので捉えやすいものだろうか。でもぼくはいずれの言葉もあまり好きではない。直感は記憶だし、感覚は共感だし、センスは判断力だ。いずれもそれ自体がわかりやすいように翻訳されているような気がする。才能のなさを棚に上げているのかもしれないけれど。でも、違和感は拭えない。

わかりにくさ

わかりにくいってなんだろうか。世の中分かりにくい事ばかりに感じることもあるけれど、案外人間はわかりやすくって、お腹が減って美味しいものを求めて、少し環境を壊したって着たい服をきて、歪みあって、そして人を愛して死んでいく。それだけわかりやすく、みんなおんなじなのに、全然他人なんて分からなくて分かりにくくて、生きづらいのはなんでだろう。

単純さ

しばらく考えていたけれど、少し思ったのは、わかりやすさと単純さを混同してはいけない、ということかもしれない。ということだ。単純なことは往々にして分かりやすいけれど、わかりやすいことが単純だとは限らない。白というある意味わかりやすい色が全ての色の可視光線の乱反射でできているように。黒という色が全ての波長の光を飲み込んでいるように。

複雑さ

そうして考えると、単純と対置される複雑さもわかりにくさと少し違うのかもしれない。とても広くおおらかな広がりのある詩は、時に解釈に悩み、わかりにくいかもしれないけれど、とてもシンプルで単純な言葉で綴られていたりする。逆にとても散らかった部屋は、ある意味片付くことのなさそうな複雑で雑多な状態ではあるけれど、それはただ単に片付いていない。という単純な状況だ。

多様

そういう意味では、多様という状態は、一つのわかりやすさとわかりにくさの間、単純と複雑の間のようなものかもしれない。多様であればあるほど、エントロピーが増して複雑に感じるかもしれないけれど、多様という全体像は強まっていき、多様であるという状況は単純化されていく。なんだか、トートロジカルな問答だけれど、そういうことかもしれない。

だからぼくは、この多様性の時代が、わかりやすく単純なポリティカルなアクションとして消費されて、その存在意義がわかりにくく複雑に理解されていってほしくない。と思う。

今日ののぼせ具合は90%

石の外壁はいい。わかりやすい経年変化や現代的な外壁にはない趣がある。

でも、それだけでいいのか、と自問しながら。

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