見出し画像

子供の頃、出前のチャーハンがご馳走だった

うちの母は決して厳しい人ではなかったけど、子育てに関してはかなり『心配性』の傾向があったと思う。


特に顕著だったのが食べ物で、食品は無農薬・無添加が基本。というかほとんど『絶対』。

お菓子やジュースなんかも、スーパーで売ってるようなのは買ってはもらえなくて、近所の自然食品専門のお店のものじゃないとダメっていう徹底ぶりだった。


でも、それが子供の私にとって『嬉しいこと』だったかと言ったら、残念ながらノーなんだよね。

だから子供の頃は、食べたいものを食べさせてもらえなくて、悲しい思いをした記憶が多い。


上で書いたように、スーパーで売ってるような『普通のお菓子やジュース』は一切食べさせてもらえなかったし、ファーストフードはおろか、外食自体が基本的にNG。

友達が「マック行った」とか「ファミレス行った」とか、そういう話を聞くたびに、『なんでうちはダメなんだろう』と思ってた。


一番悲しかったのは、お祭りに行っても、屋台で売ってる食べ物は絶対に食べさせてもらえなかったこと。

かき氷も、わたあめも、どんなにお願いしても、買ってもらえたことは一回もなかった。

だから、お祭りで売ってるカップのかき氷って長いこと『憧れ』の食べ物だったし、今でも屋台を見かけると、いろんなことを許してもらえなかったあの頃を思い出して、少し悲しくなる。


でもね。


誕生日とクリスマスは、お祝いだから、特別な日だから、その日だけは、好きなものをなんでも食べていいってことになってたの。


だからいつも、出前のチャーハンをねだってた。


そのお店、実家近くにあった中華料理屋さんなんだけど。

そこのチャーハンがね、本当に本当に美味しくて、私は大好きだったのです。


うちは基本的に外食NGだったけど、そのお店は近所に住んでた祖父母のお気に入りのお店で、二人が家にきた時に出前を取ったんだよね。

それで初めて食べたの。

『こんな美味しいものあるんだ!!!』って本当に思った。


別に、母が料理下手だったとかじゃないんですよ。

むしろ料理はうまいほうだったと思います。

でも、家庭で作る料理と、よそに行って『お店』で食べる料理って、絶対的に"違う"何かがあるじゃないですか。

家庭的な料理が売りのお店に行ってみても、やっぱりどこかが何かが『違う』んだよね。

ある種の特別感がそこにはあると思う。


家で母が作った料理しか食べたことのなかった当時の私には、その『違い』こそが衝撃だったのかもしれません。


だから、あの頃の私にとっては、あのお店のチャーハンは、特別な日にしか食べられない『特別なご馳走』でした。


大人になった今、あの頃のことを思い出すと、子供って本当に、たくさんの不自由を強いられて生きているんだなって思います。

大人にさえなったら、好きな時に行きたいお店に行って、食べたいもの食べられるのにね。

子供って、そんな簡単なことすら、許してもらえないで生きているんだよね。

なんでだろうね。


その中華料理屋さんは、今はもう店を閉めてしまったと聞きました。

というか、私は出前でしかそこのチャーハンを食べたことがないので、そのお店が実際にはどこにあったのか、正確には知らないんですよね。


添加物を過剰に避けようとしていた母も、私たちが中学に上がる頃くらいには「もう子供じゃないし、まあいいか」みたいに緩くなって、今はもう、本人も全然普通にマックとか食べるんですけど。

でも、そんな風に外食が解禁されてからも、あの中華料理屋さんには結局行くことはありませんでした。(というか、両親もお店の場所を知らなかったっぽくて、聞いても「そういえばどこにあるんだろ」みたいな返事だった)


今でも中華のお店行くとチャーハンを頼みたくなるんですけど、『あのお店よりおいしいな』って思えたこと、いまだにないです。(思い出補正もあるかもだけど)




これね、別に思い出話がしたかったわけじゃなくてね。

結局、こうして過去を振り返ってみて私が思うのは、


子供の頃に強いられた"我慢”って、大人になっても根深く残るよってことです。


私たちは大人になると、子供にも『思い』や『考え』があるってことを軽視しがちです。

『子供の考えることなんて大したことない』みたいなことを当たり前に思っているし、だから『自分たち大人の言い分が正しい』、『なのにどうして言うことを聞かないんだ』って、子供にいろんなことを押し付けてしまう。


私は今年で34になりますけどね。

それでも、自分が好きなものを食べたいように食べさせてもらえなかったこと、『あれもだめ』『これもだめ』って言われ続けたこと、

そうして"否定”をされるたびに、味わった悲しさや惨めさ。理不尽。不条理。疑問。不満。無力感。虚しさ。

どれもいまだに生々しく残っているし、他のうちの子は許されているのに、どうして私はだめだったんだろう、私とあの子たちとで何が『違った』んだろうと思うと、惨めで悔しくて涙が出るんですよ。


大袈裟だって思うかな。


わからない人にはわからないよね、きっと。


でもわかる人もいるよね。


私だって、母は私たち子供のためを思って食べるものに制限をかけていたんだって、頭ではわかっています。

自由に好きなものをただ食べさせるより、よっぽど手間と苦労のかかることをしてくれていたんだって、わかってはいます。


でも頭でどんなに割り切ろうとしたところで心って救われないんだよ。


そんなもっともらしい理屈に、救いなんかないんだよね。


それこそが本当に救われない話だよなって心底思います。


理屈が正しい、だから理屈に従えって、私たちは常にそれを強いられているのにね。

なのに、"正しい”はずのそれに従った結果が結局誰も救われない、救いがないって、本当、誰がこの矛盾の責任をとってくれるんだろうって思うよ。


だから私たちは理屈じゃなくて、最初から感情で生きるべきなんだよな。


理屈や理論なんてすれ違いと抑圧を生むだけでだーれも救わない。


相手が子供ならなおさらそうだよ。


だって私と母のこの有様を見てよ。

母は世間の人の言う『理屈に基づいた正しさ』を信じて、それに従って苦労して子育てをしてたのにさ、結局子供である私がそれで得たものって『自分の望みを否定される惨めさ』と『抑圧された恨み』でしかないんだよ。

感謝したいって頭では思うけどできない。

それより遥かに『悲しかった』って気持ちが大きいのよ。

母はそんなつもりで言ってたわけじゃないはずなのにね。

一番肝心なことが伝わらないの。



なぜなら、私たちが本当に伝えたいことって大抵『感情』のほうだと思うんだけど、理屈って基本的に、感情を無視して否定するためにあるのもだからです。


理屈を持ち出した時点で、心で分かり合うことからは遠ざかってしまうんだと思う。


救われねーなって思うでしょ。



だから本当に、いま子育てしている人もしていない人も、子供を『軽んじること』はやめてほしいって思います。

子供って、私たちが思う以上に、大人のそういう『一方的な理屈』に苦しめられているし、傷ついています。

『子供なんて、今日泣いていても明日にはケロッとしてるよ』とか、『今は不満そうにしているけれど大人になったらわかってくれるだろう』だとか、何もかも、大人側の一方的で身勝手な幻想です。


子供の頃に『理不尽だ』って感じたものは大人になったって『理不尽』に思えるままだし、子供の頃に『傷ついた』って感じた気持ちは、相応の手段で癒さない限り残り続けます。


人は、本当は、大人になんてなれないんです。


体は成長して強くなるかもしれないけど、心の中身って、本当は誰も、子供の頃から変わりはしないんだって思います。


大人なんて生き物は、最初からこの世に存在してないんだって。


だから本当に、子供たちが感じていること、口にする言葉、見せる態度を軽んじないであげてほしい。

無視しないでほしい。


どうせ大した意味なんてないとか、構っている余裕なんてないとか。

そんな風に軽視されることって、大人だろうが子供だろうが当たり前に傷付くよ。


今のこの現代社会の中で子育てすることって、本当に時間的にも精神的にも余裕がなくなりがちだと思うし、子供の話にじっくり耳を傾ける暇なんてないって、親御さんのほうこそ悲鳴をあげたくなるかもだけど。

みんな子供のためを思って言っているんだろうし、『お願いだからわかってよ』って言いたくなるかもしれないけど。


でも子供の側からしたらね、わからんもんはわからないんです。


そんなん大人同士の関係でもそうでしょ。


違う人間なんだから。


異なる価値観を持って生きているんだから。


だからさ、子供のことも、ちゃんと一個の人格として、子供は子供なりの価値観を持ってるんだってことを尊重してあげてほしいんだよね。


『子供は何も知らないしわかってない! 子供の主張することなんて取り合う価値なし! だから私たち大人の言うことを"理解させなければいけない”!』みたいに考えないでほしいんだよ。

『軽んじないでほしい』ってそういうことです。


でもこれは、『じゃあ何もかも子供の好きなようにさせてあげればいいんですね!』ってことでも、もちろんないです。

大人が一方的に子供に言うこと聞かせるのは違うと思うけど、大人が子供の言いなりになってしまうのも、それ、ただ力関係が逆転しただけで、問題は何も解決してないよなって思うし。


実際のところ、本当に子供の好き放題させたら、それはそれで病気になってしまうかもしれないし、虫歯になってしまうかもしれないし、ある程度、「こういうことをしていると、こうなる可能性があるよ」というのは、やっぱり教えてあげる必要があるだろうとも思います。

本当なら、そんな風に"お説教"みたいなことしなくても、『大人も子供も含めて、全ての人が自由に思ったままに生きても"安心"な社会』『好き放題しても困ったことが起こらないで済む世界』を目指したいところだけどね。

でも現状、それは一朝一夕では難しいと思うし、私たちはもうしばらく、いろんな不安や心配や不自由があるこの世界で生きていかなければならないわけで。


私自身、子供がいるわけではないですし、実際に子育てをしたことのない身で、言えることなんて多くはないのですが。


それでも、かつて子供だった身として、親の態度に傷ついた記憶のある私として。


子供に対して、『一方的な態度』をとらないでほしいって、それだけは本当に願うのです。

親御さんにも親御さんの主張、言わねばならないことがあるのはわかっています。

子育て以外にもさまざまなことをこなしていかなければならないこんな世の中で、余裕なんてなかなか持てないというのもわかります。


でも、それでもできるだけ、子供に寄り添う意識を持っていてあげてほしい。



ある程度はね、仕方ないんですよ。

結局、どんな風に育てたところで、子供って絶対にどこかしらで傷付いてしまうんです。

それは親御さんや周りの大人が悪いわけじゃない。

この社会はまだ、子供が子供らしく、無垢なまま、何一つ傷つかずに生きていけるようにはできていないから。


でも、だからこそ、子供の『傷』に敏感になってあげてほしいって思うんです。


これ、本当に何度でも言うけれど、子供って大人が思う以上に繊細で、いろんなことを感じているし、いろんなことを考えてる。

そして、たくさん傷付いています。(HSCの子だったら、それこそ『いわんや』ですよね)


さらにいえば、そうして子供の頃についた『傷』は、すでに大人になっている私たちの中にも、本当はたくさん残っているんだと思います。

インナーチャイルドってやつですね。


子供の傷を軽視せず敏感になるっていうのは、私たち大人自身が、自分の子供の頃に受けた悲しさや寂しさを軽視しないってことなんだと思います。


『子供の頃のことなんだから騒いでも仕方ない』とか、『今さらそんなことを言い出してもかえって恥をかく』とか。

そんな風に、臭い物に蓋をするようなことをしないで、ちゃんと『僕は/私は、あのとき悲しかった』って認めてあげること。

"傷付いた”って口にすることを、自分に許してあげること。


傷って、そう言う風にすることでしか癒えないんだと思います。

理屈で言い聞かせるのって、大抵逆効果です。

子供たちに対しても、自分自身に対してもね。

いろんなところで言われていることだけど、押さえ込んだところで感情って消えないからね。

消えないんだよ。

そのことを肝に銘じてね、お願いだから。


そうやって抑圧したまま、『消せたつもり』になっていると、いつかなんらかの形で絶対に表面化するし、それってまず間違いなく、本人にとっても周りにとっても『いい結果』にはならないです。

本当にろくなことにならない。これは私の実体験でもあります。


だからちゃんと癒してね。

自分が傷付いていることを自分で許してあげてね。


そうしたらきっと、傷付けないようにって気負わなくても、本当の意味で『対等にお互いを尊重するコミュニケーション』ができるんじゃないかと思うから。

子供に対しても、大人に対してもね。




……っていうことを、餃子の王将でチャーハン食べながら今日は考えてました。

あのね、人生初王将だったの!!

せっかくだから餃子3種類食べ比べした。生姜餃子が一番おいしかったな〜。

中華料理店ならではの「メニューやテーブルが油でギトギトしてる!!」も味わいました。

チャーハンも頼んだけど、やっぱり、あのお店の出前のチャーハンとは味が違うなーって感じた。

どっちのが美味しいとかじゃなくて、根本的に「なんか違う」と感じるんだよね。

今となっては記憶もだいぶ朧げなので、思い出補正も入ってるってのは重々承知の上なのですが、あのお店のチャーハンは『ご飯が白かった』のです。

卵感があまりなかったのね、いま思うと。

いつかどこかで、「この味だ!!」って思えるチャーハンに出会える日がくるのかな。

サポートありがとうございます!!幸せになります!!!!