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花屋日記 そして回帰する僕ら

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ファッション女豹から、地元の花屋のお姉さんへ。その転職体験記を公開しています。
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#ブーケ

「花屋日記」エピローグ:あなたの名前は?

 ずっと、人に優しくできない時期があった。電車に乗り合わせた乗客も、コンビニの店員も、私にとっては「背景」でしかなかった。その一人ひとりに性格や生活があったとしても私にはまったく興味が持てなかったし、極端に言えば無差別殺人を犯すようなヤサグレた人の気持ちも、想像できなくはなかった。それは自分自身が、この都会でちゃんと「人」として扱われてこなかったからだと思う。  今のオフィスの近くにある定食屋には、やたら明るい店員さんがいる。トレイを運び間違えて 「おっと! 危うくほかのひ

「花屋日記」50. そして回帰する僕ら。

 ある日の午後、ブランドの新作展示会に向かうため代官山Tサイトを通り抜けると、青山にある花屋「ル・ベスベ」のポップアップショップが開かれていた。つい立ち止まってしばらく花材を眺める。今すぐあのカウンターの中に入ってさくさくブーケを組める気もするし、まったく途方にくれてしまう気もした。花を2週間以上も触っていないなんて初めてのことで、なんだか他人の人生を生きているみたいだ。  東京に引っ越してくるとき、私は一連の道具を荷物の中に入れた。花鋏とフラワーナイフ、ワイヤーやフローラ

「花屋日記」48. なにを残していけるのか。

 店長は、私が辞めることに対して 「うちは東京に住むなんて考えたこともない。あなたは最後まで、よく分からない人だわ…」 とため息をついてから 「新人教育には協力してよね、もうあなたが、私の次に長いんだから」 と言った。もっといろいろ責められると思っていた私は 「もちろんです。本当にすみません」 と頭を下げ、その罪滅ぼしに毎日あらゆるマニュアルを作った。 私は多分最後まで大した人材ではなかったと思うけれど、自分に残せるものは、残していかなくてはならない。  ある日、カラ

*お知らせ 「花屋日記」コラボレーション

大野弘紀さんという、詩を発表されている方が「花屋日記」第46話「落下する都市へ、再び。」に対する返答詩を書いて下さいました。ありがとうございます! こういうのも、多くのクリエイターが参加しているnoteというプラットフォームならではですね。こちらは第49話「モード界に一番近いバラ。」の劇中挿入歌として書いてくださいました! ぜひ両方を読み比べてみてくださいね。大野さん、いつもありがとうございます。

「花屋日記」47. きっとこれは忘れたくない夜だ。

 いつもどおり出勤して通用口でセキュリティチームに挨拶すると 「カイリさん、たぶん今日で会えるの最後なんですわ。僕、明日から三連休やし、お互いの出勤がてれこになって月末まで会われんのです」 と「ロマンスグレー」のモトヤさんがおっしゃった。彼には退職することを前もって伝えてある。 「えっ、そうなんですか」  突然のことにハタと立ち止まった。別れの挨拶を交わすにはもうちょっと、時間の猶予があるのだと思っていた。 「今日は夜までですか?」 
「うん、そうやけど入れ違いになるかもしれ

「花屋日記」46. 落下する都市へ、再び。

 採用試験を受けた3週間後、私のもとに「内定」の通知が届いた。ある出版社からファッションエディターとして採用されてしまったのだ。その結果に、私は混乱した。諦めたかった世界が、自分の手の中に突如戻ってきた。私はそれが求めていた答えなのか、何度も何度も自分に問い直した。  その仕事を引き受けるなら、再び東京に引っ越すことになる。家族からの理解は、もちろん得られなかった。あんな過酷な業界になぜわざわざ戻るのか。今の仕事はどうするんだ。せっかく手に入れた健康と平穏な暮らしを、なぜ手

「花屋日記」45. 私は、花を失わない。

 毎朝、大量の下処理をすると、葉っぱや花びら、短くカットした茎などで足元は床が見えなくなるほど埋まっていく。もちろんゴミ箱をセットした状態で作業を始めるのだが、ナイフで切り取った枝や茎先が飛んでいってしまうので、どうしてもそんな風に溢れかえってしまうのだ。もしお客様がカウンターの中をご覧になったら、きっとそのぐちゃぐちゃさに驚かれると思う。  私も花屋に入ってその状態を初めて見たとき、そのエグさに衝撃を受けた。お稽古事として花に接するのとはまったく異なる「職業としての花屋体

「いいことも大変なことも、すべてに感動する」 フローリスト・高本恵子インタビュー

芦屋colléにて開催された「アヴィニョンのりゅう」の作品展およびフラワーデモンストレーションを拝見してきました。主宰の高本恵子(Keiko Komoto)さんはパリ・ホテル・リッツにて花装飾のスタージュ後、パリで活躍するトップフローリストに師事された方。現在は、芦屋・神戸を中心にフレッシュフラワー、プリザーブドフラワー、アーティフィシャルフラワーのレッスンを展開されています。 実は『花屋日記』に登場する「先生」は、この方がモデルになっています。今回は『花屋日記』の番外編と

「花屋日記」43. 当たり前でない美しさを、嘘でない花を。

  店で花を組むときは「マスフラワーは3本まで」「同系色か反対色のものしか合わせない」といった、いくつものルールを厳守しなければならなかった。当然だが、店のカラーを統一させるため、スタッフの誰が作っても大差ないようにしなくてはならない。だから、いつまでたっても新たな色合わせは試作できなかったし、他店が仕入れているような花材や資材も、うちでは扱えなかった。何か新しいものを提案しても、店長に却下されてしまい、私はどこか「諦め気味」に仕事をするようになってしまった。  お客様のニ

「花屋日記」36. 一流デザイナーは、その時こう言った。

 好きなことを仕事にしているとオン・オフの区別があまりない。私は相変わらず休日でも、花のレッスンを受けたり、他の花屋を見に行ったりしていた。その日ひさしぶりに訪れたのは、ある有名なフラワーデザイナーのデモンストレーション。ホテルで開催されるイベントなので、まるで大御所シンガーのディナーショーのような雰囲気だ(もちろんそれなりのお値段がするので、特別に興味のあるときしか、こういった催しには参加できない)。  イベントの最後には、本人が作ったばかりの作品を抽選でもらえるのが「お

「花屋日記」32. 誕生日のあの子って。

 女性客がお一人、2つのミニブーケを持って店の中をうろうろされている。何かを迷っておられるようだ。両方を見比べては、一つをもとに戻してみたり、やっぱり手にとってみたり。 「お伺いいたしましょうか?」 とカウンターから声をかけると、彼女をその2つを掲げてこうおっしゃった。 「あの、どちらがいいのかもう分からなくなってしまって。どっちがいいでしょう?」  一つは紫のスイトピーとスカビオサが入ったシックなもの。もう一つは淡いピンクのスカビオサに姫リンゴが添えられたキュートなものだっ

「花屋日記」31. 「15本のバラ」の秘策。

「いえ、ちょっとね…妻と喧嘩したんですわ」  私がブーケのご用途をお尋ねすると、その方はバツの悪そうな顔で首元を掻きながらおっしゃった。スーツをお召しになった40代くらいの男性だ。 「あら、それは大変ですね」 「僕が悪いだけじゃないんですけど、でも僕が謝ったほうがいいんでしょうねえ…」 原因が何だか分からないので、返答が難しい。 「旦那様から謝ってもらったら、きっと奥様は嬉しいでしょうね」 私は言葉を選びながら相槌をうった。 「うん、いつもそうなんです。そのほうが結局うまく