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福島原発事故を伝え続ける

「なんで福島の原発事故の取材を続けるのか、noteに書いてみてよ」

はじめまして。大阪社会部の西村曜にしむらようといいます。

普段、大阪市役所の担当をしているのですが、継続的に東京電力福島第1原発事故で生活が大きく変わってしまった福島の人々についても原稿を書いています。

日々の担当業務とは別に、自分の追いかけたい分野の取材を続ける記者というのはままおりまして、わたしもそんな一人です。

先日、冒頭のようなことを先輩に言われて、今回のnoteを書くことになりました。日本中に原発事故を取材する、もっともっと優秀な先輩記者たちがいるので偉そうなことは言えないのですが、理由があるとすれば、あの原発事故の記録を続けなくちゃと考えているからかなと思います。そしてその背景にはわたしが広島支局時代に原爆被爆者の取材をやってきたことが影響しています。


■ 故郷に戻れない人、戻って生活再建を目指す人 それぞれの思いを追って

わたしは2016~19年に広島支局にいました。ちょうどオバマ米元大統領が広島にやってきた時期です。そして福島支局へ異動して22年まで、原発事故の被災者や避難した自治体、東京電力を取材していました。これまで福島について書いてきた記事は次のようなものです。

最初の記事は県外に避難したまま故郷に戻れず、生活苦になった人の話です。同じような人が全国にいることも分かりました。

もしご自身が県外避難者である方、困っていることやご意見ご感想がありましたら以下のメールアドレスにお寄せください。kengaihinan@kyodonews.jp

次の記事では避難指示が解除され、数年ぶりに自宅での生活を再開した人の喜びを描きました。慣れ親しんだ自宅で迎えた事故後初めての夜、美味しそうに日本酒を飲む笑顔が印象的でしたが…

三つ目の記事では、帰還する人が少なく人口が激減した故郷を少しでも元気にしようと立ち上がった地元の人たちの活動に焦点を当てています。

■ 事故から13年、生まれた被災者の分断

原発事故から13年がたちますが、事故が残した爪痕は今もとても大きいです。一つの自治体が丸ごと別の場所に避難する「全域避難」をする自治体はもうなくなりました。でも再び住めるようになった故郷は商店街や民家が解体され、住民は事故前の1割程度など、もう事故前の姿からはほど遠くなっています。

多くの住民が避難先に生活拠点を築きました。仕事を見つけ、子どもは学校で友達ができ、自宅を建てる。13年は新しい環境に慣れるのに十分すぎる時間があります。国や県は帰還の促進というけれど、また再び故郷に戻ろうと腰を上げるのは簡単ではありません。

福島県浪江町の帰還困難区域を区切っていたバリケード=2021年1月

被災者間の分断も起きています。

例えばお金の問題。福島第1原発がある双葉町と大熊町の一部は今、中間貯蔵施設になっています。これは放射性物質に汚染された土をはぎ取って各地から集め一時的に置いておく場所です。国が土地を買い取ったり、借りたりする形で原発周辺の地域に作られました。でも、自分の土地がこの用地にならなかった人たちからすれば、「住めなくなった土地を買ってもらっていいね」となり、同じ避難をした町民の間でも分断が起きたのです。

強制的に避難させられた人と、避難指示の範囲外から自主的に避難した人たちとの間にも溝があります。福島にいるとき、強制避難をした人が「あの人たちは危険じゃなかったのに勝手に逃げた」と言うのを聞きました。

原発事故は放射能が漏れ、人が避難するだけではありません。それまでになかった分断が起きたり、帰還するかどうか迷ったり、離婚で家族がばらばらになったり、こうしたことも原発事故の側面だと思います。

大阪府内で暮らす福島県からの避難者=2023年7月

■ 広島で学んだこと、戦後78年の新たな課題

わたしはそれぞれの考えの是非は問いません。ただ福島の人たちの喜びや苦しみを全部書き残しておきたいと思っています。原発事故の引き起こす多様な側面を残しておけば、今の時代の人にも、後の時代の人にもそれぞれ考えてもらうきっかけになるのではと思うからです。

原発事故は日本史の教科書に載るような出来事でした。50年後、100年後の人たちもあのとき何が起きたのか知りたいと思うはずです。でも事故当時の話だけでは原発事故の一側面が残るに過ぎません。

最初に触れた広島支局の影響というのはこのへんのことです。1945年8月の原爆投下以降、いろんな記者がその時代ごとの被爆者の苦しみを書き続けてきました。

当日に撮られたキノコ雲の写真に始まり、原爆孤児や孤老の問題、原爆ぶらぶら病と呼ばれた原爆症、国による補償の問題、在外被爆者の問題、核廃絶運動や国際社会の動き、最近では記憶の伝承や継承といった課題もあります。

広島市の原爆ドーム前でスズメに餌をやる原爆孤老の男性。餌をやるのは戦後直後、飢えをしのぐためスズメを食べたことへの罪滅ぼしだと話していた=2018年

原爆ではこうして時間がたつにつれて明らかになってきた課題や問題がありました。原発事故でも時間がたつにつれてそれまで見えていなかった課題が見つかるのではないかと思っています。

わたしは広島での取材でそんなことを学びました。特に広島の地元紙の中国新聞は戦後78年ずっと日々新たに生まれる課題を報じています。中国新聞の平和報道について共同通信の記者がnoteで取材しているので良かったら読んでみてください。文中に出てくる中国新聞の記者はわたしの尊敬している先輩方です。

事故の20年後、30年後、40年後、それぞれでどんな課題や悩みがあったのか、どんなことを喜び、何に希望を見いだしていたのか、そういったことも書き続けて行ければと思います。

西村 曜(にしむら・よう)=1989年生まれ、兵庫県出身。2013年に入社し、旭川や広島、福島支局で勤務。好きなものは北海道とスイカと阪神タイガース。2児のお父ちゃん。


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