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小説「生きている人魚」②

 翌朝、JR京都駅から電車に乗った。
 朝の通勤ラッシュを避けて少し遅い時間帯の電車を選んだが、車内は意外と込み合っている。空いた席がないので、立ったまま窓の外を眺めていた。
 まだ梅雨には間があるのに空はどんよりと曇っている。ひと雨来そうな気配だった。
 電車は十分ほどで京都と滋賀県の境を越え、大津駅に停まった。僕の実家はこの駅で降りて、バスで三十分ほど揺られたところにある。京都の僕のアパートからはごく近い距離なのだが、このところ、盆と正月くらいしか帰省していない。
 足が遠のいているのは、二年前に妹が結婚し、古びた田舎家だった実家が小洒落た二世帯住宅に生まれ変わったためだ。両親が暮らす一階に僕が帰省した時のための部屋も用意されてはいたが、新居はまるでよその家のようでうまく馴染めない。家の周辺も同様で、子供の頃は田んぼのあぜ道や野山や川原を遊び場にしていたが、今は宅地開発が進み、帰省するたびに少しずつ風景が変わっている。
 次の石山駅で大勢降りたので、窓際の席に座れた。デイパックの中から『遠野物語』を取り出す。昨日手に取った後、なんとなく本棚に戻すことができず、そのまま持ってきてしまったのだ。
 ページを繰ってみるが、文章はあまり頭に入ってこない。それよりも、何度も読み返した文庫本の手触りが、遠い記憶を次々によみがえらせる。

「ばあちゃーん」
「はいはい、お迎えに来たよ」
 保育園の入り口で、祖母がにこにこと手を振っている。僕と妹はそれに飛びついていった。
 幼い頃、両親は共働きだったので、僕と二つ年下の妹の面倒を見てくれていたのは、同居する父方の祖母だった。祖父が早くに死んだ後、女手一つで三人の子供を育て上げた祖母は気の強いしっかり者で、足腰も口も達者だった。家の裏手の広い畑で毎日野菜作りに精を出し、家事一切も取り仕切っていた。
「ほな、お兄ちゃんはこっち。みさちゃんはこっちな」
 保育園からの帰り道、祖母はいつも左手に僕の手を、右手に妹の手をそれぞれ握った。
 子供の足に合わせて歩くと、家までは十五分ほどかかる。道々、祖母は昔話をしてくれた。
「はい、お立ち会い。むかーしむかし、あるところにな……」
 琵琶湖の底にある竜宮の話や、瀬田の唐橋のムカデ退治の話、比叡山のお坊さんが悪事を働く天狗を退治した話。あるいは、祖母の幼い頃、近所のおじさんが狐にばかされた話、川で遊んでいた子供が河童に足を引っ張られた話、お寺の墓場で肝試しをしたら火の玉を見た話……。
 祖母は軽妙な語り口で、僕らを笑わせたり怖がらせたりしながら、さまざまな不思議な物語を僕の中に織り込んでいった。
 帰り道で話が終わらなかった時は、続きは夜に寝床の中で、ということになっていた。
「ばあちゃん、早くお話して」
「よしよし、ほんなら続きを話そうな」
 布団の中からせがむと、祖母はやりかけの家事があっても途中で切り上げ、添い寝して話をしてくれた。話が終わっても、僕らがぐっすり眠ってしまうまで、そばにいてくれた。祖母はいつも線香のにおいのしみついたエプロンをしていて、そのにおいをかぐと安心して眠れた。
 だが祖母は、僕が小学校に上がる直前の春先、急死した。くも膜下出血だった。処置が早ければ命を取り留めたかもしれないが、平日の昼間に自宅で倒れ、発見が遅れて助からなかった。
 元気だった祖母が突然いなくなってしまったあっけなさに、最初、幼い僕には死の実感がわかなかった。通夜でも葬式でもずっときょとんとした顔をしていた、というのは、今でも法事のたびに母親から聞かされる話だ。「あの子はちっとも泣かへんね、おばあちゃんにあんなに可愛がってもらってたのに」と親戚の人たちに言われて困った、と母はいつも苦笑まじりにその話を締めくくる。
 しかし僕は決して平気だったわけではない。やっと涙が出てきたのは、何もかも済んだ、静かな夜になってからだった。
 横になって目を閉じると、昼間の情景が次々とよみがえってきた。まるでお祭りのように派手な飾り付けの祭壇に、ばあちゃんの白黒の写真。長くて眠たい、お坊さんの読経の声。火葬場で扉が閉まる。「おばあちゃんはお骨になったんやで」と、黒い背広を着た父が骨壺を見せてくる。
 そうか。もう今夜からは、ばあちゃんのお話が聞けないのか――そう思った瞬間、涙があふれてきた。
 その時、隣で寝ている妹も泣き声を上げた。その大きな泣き声で、隣室から母が飛んできた。母は、僕も泣いているのには気付かず、泣きじゃくる妹をあやして、
「おばあちゃんがおらんし、さみしいんやな。今日からはお母さんとお父さんの部屋で、一緒に寝ようか」
 と言った。それから僕にこう尋ねた。
「お兄ちゃんは、四月からはもう小学生やしなぁ。一人で寝られるね?」
 本当は嫌だったが、妹の手前強がる気持ちもあって、「うん」と短く答えた。
 しかしその後もなかなか寝付けず、夜中にそっと、暗い仏間へ忍び込んだ。
 そこは祖母が平生寝起きしていた部屋でもあった。仏間には常よりもきつく線香のにおいがこもっていた。僕にとってそれは、祖母のにおいだった。深く呼吸して、そのにおいを存分に吸い込むと、やっと落ち着いて眠ることができた。
 それ以来僕は、失われた何かを埋めようとするかのように、日本の昔話や伝説、おとぎ話を集めた本を貪り読んだ。小学校の図書室に揃っていたそのたぐいの本を読み尽くしてしまうと、父にねだって休日に県立図書館まで車で連れて行ってもらい、さらにいろいろな本を借りては読みふけった。
 本には、祖母が話してくれた話がそのまま載っていることもあったが、似ているが一部が違っていたり、舞台や登場人物は異なるが筋書きは同じものがあったり……長い時をかけて語り伝えられてきた説話のヴァリエーションの豊富さを感じながら、その世界に浸っていた。
 その頃から、友達によく「ヘンな奴」とからかわれるようになった。外で遊んでいる時、しょっちゅう目が宙をさまよっている、というのだ。「どこ見てんの? なんにもないのに」と笑われた。
 僕は適当にごまかしていたが、本当は、何か見えはしないかと目をこらしていたのだ。祖母が話してくれた物語の中に出てきたあやかしの生き物たちが、木々の陰や岩の向こう、川のせせらぎの中から、ふっ、と顔を出しはしないかと。
 そんなことがあるわけない、と頭ではわかっていたのだが、それでもその「妙な癖」はなかなか治らなかった。
 そして中学に入った年、柳田国男の『遠野物語』に出会った。
 放課後、中学の図書室で見つけた。一ページ目を開けた瞬間から時間を忘れて読みふけり、いつのまにか下校時間になっていて司書の先生に優しく追い出された。借りて帰りなさい、と言うのを断り、帰り道、自転車を飛ばして本屋に寄り道した。同じ本を買って、家に帰るとすぐに続きを読んだ。
 『遠野物語』は、明治時代、日本民俗学の祖と言われる柳田国男が岩手県の遠野郷に伝わる説話を土地の人から聞き取って書き記したものだ。古めかしい文語体で書かれた文章は当時の僕には相当読みづらかったはずだが、その読みづらささえ一種の魅力に感じられて、夢中になってページを繰り続けた。
 座敷わらしや山男、天狗に河童、神隠し、幽霊……僕が愛してやまない不思議な物語、あやかしのものたちが、小難しい文章の向こうに生き生きと息づいていた。そして思った。そうか、ばあちゃんの話してくれた昔話は、民俗学という名前の学問に入るのか、と。
 深夜に読み終えて、興奮した頭のまま布団に入った時にはもう、「将来は民俗学者になろう」と決めてしまっていた。
 思春期の情熱というのはおそろしいもので、それ以外の将来など全く考えることもなく、そのままの勢いで高校へ進み、大学進学の際には「民俗学を学べるところ」という条件で進学先を探した。そして希望通り、京都の、とある大学の文学部に入学を果たした。
 一年のうちは教養課程で学び、二年次から各専攻に分かれて研究室に所属する。僕は首尾よく目当ての研究室に入り込んだ。
 四月、研究室主催の新入生歓迎会が開かれ、最初に新二年生が自己紹介をした。僕はやっと憧れの学問を学べる、という高揚感で、いささか勢い込んでいたと思う。
「柳田国男の『遠野物語』に憧れて、民俗学を学びたいと思いました。中学生の頃からの夢でした」
 という趣旨のことを、日頃口数の少ない僕にしてはめずらしく一生懸命語った。ところが、それに対して、居並ぶ先生や先輩たちからかすかな失笑がもれたのだった。
 思いがけない反応にどぎまぎしながら席に戻る。すると、
「中川君、あのなあ」
 隣りに座る大学院の先輩が声をかけてきた。
「今の時代、『遠野物語』の気分でいてたら研究は難しいで」
 返答に困って黙っていると、横からほかの先輩も言う。
「ああいう口承での材料集めは厳しいんよ。民話や昔話をしてくれる年寄りなんて、今じゃそうそう見つからんもの。夢を壊すようで悪いけど、『遠野物語』は、まあ、古典や」
「それに、ああいう不思議系の昔話を集めて羅列するだけでは、論文にならへんのやで。柳田のほかの著作も読んだことあるなら、わかるやろ? 研究テーマも研究手法も、ちゃんと考えなあかんよ」
 僕は曖昧にうなずきながら、内心、愕然としていた。自分がひどく甘い考えしか持っていなかったことに、初めて気付かされた。
 大学の民俗学研究室に入りさえすれば、夢がかなうと思っていた。僕の愛する、懐かしくて切ない物語たちを好きなだけ追いかけられると信じていた。だが、柳田が生きていたのは明治時代だ。今の世の中で同じことが望めるわけもないことに、なぜ今まで気付かなかったのだろう?
 タイムスリップでもできればいいのに、と思った。明治の世に飛んでいって、遠野の村の炉辺で老人たちが昔話を語るのを聞いていたかった。僕の望みはただそれだけで、本来的な意味での民俗学の研究にはほとんど関心がないことをその場で悟ってしまい、茫然自失していた。
 そのため、僕のあとにも続いていたほかの新二年生の自己紹介はほとんど耳に入っていなかったのだが、その時、ひときわ元気いっぱいの声が聞こえてきてようやく我に返った。
 それが、坂田だった。
「はじめましてー、こんにちは。坂田健一と申します」
 まるで選挙運動中の候補者のように馬鹿でかい声で名乗る。それだけでくすくすと笑い声が起きた。さらに彼は、
「さっき、中川君は、柳田国男に憧れてこの研究室に入ったと言っていましたが」
 と、僕の言ったことを引き合いに出した。
「僕は、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が大好きで、ちっちゃい頃は妖怪博士と呼ばれていました。本格的に妖怪を研究してホンモノの妖怪博士になりたーい!ということで、この研究室に入りました~!」
 これには、場内に大きな笑いが沸いた。確かに、民俗学においては妖怪に関する研究も重要な一角を占めてはいる。しかし宴席とはいえ、教授たちもいるのだ。「妖怪漫画が大好き」とか「妖怪博士」とか、あまりに茶化した物言いに、本気で言っているとは誰も思わなかった。
 だが、それは冗談ではなかった。
「中川君、さっきはごめんな」
 宴会も中頃にさしかかった頃、坂田が隣にやってきてそう言った。自己紹介の時に勝手に僕の名前を出したことを詫びているらしい。
 一年の時に同じ講義をいくつか取っていたから、顔と名前は知っていた。だが口をきいたのはそれが初めてだった。彼はいつも大勢の友達に取り囲まれて騒いでいたし、時には可愛い彼女を連れているのを見かけたりもしたので、自分とはタイプの違う人間だと感じていた。
 その坂田が同じ研究室に入っていただけでも意外に感じていたのだが、
「俺も、『遠野物語』は好きやで」
 と親しげに言うので、さらに予想外な展開となった。
「鬼太郎みたいな派手さとか可愛らしさはないけど、遠野の妖怪も、味があってええよなぁ」
 しみじみとそう言うので、こいつは本当にそういうモノが好きなんだな、と納得した。ならば僕と同類である。
「河童とか、天狗とか人魚とか……ほんまに生きてたら面白いのにな」
 思わずそう口にすると、坂田は目を輝かせてうなずいた。
「そうそう! ほんま、生きている妖怪、いっぺんでもいいから見てみたいわ!」
 その大声に周りがいっせいに注目し、そしてまた笑いがはじけた。その時から僕らは「国男としげる」だの「妖怪コンビ」だのとあだ名されるようになったのだった。
 あっという間に仲良くなった僕らは、二人でしょっちゅう旅行に出かけた。バイト代をかき集めて旅費をひねり出し、どこへとははっきり定めないまま旅に出た。夏休みや春休みといった長期の休みなら遠いところへ、土日や連休の限られた休みなら比較的近くへ。場所はどこでもいい、「とりあえず田舎へ行こう」が合い言葉だった。各駅停車の鈍行に乗ってガタゴト揺られてゆき、良さそうな駅があれば下車してみて、「妖怪が棲みついていそうな自然」がある「古き良き時代の面影を残した片田舎」を求めて歩いた。
 行き先の決まっていない旅だから、もちろん目的もはっきりしないのんびりしたものだった。山の中のせせらぎに足をつけて「河童がいそうや」と喜んでみたり、子供たちがカニ捕りや魚釣りをしていたら日が暮れるまで一緒に遊んだりした。また、古びたお社の鎮守の杜で「霊気に満ちているなぁ」と言いながら周りの空気を吸い込んでみたり、黄昏時に田んぼの真ん中の墓地をうろうろして「鬼太郎の目玉親父はこういうところから出てきたんやろな」などと不謹慎なことを言って笑ったりしていた。
 日が暮れて、たまたま安そうな民宿でもあれば泊まったが、うまく宿が見つからなければ神社の軒先や駅のホームにもぐりこんで寝たりした。ホームレスの男に「ここは俺の寝場所や」と追い出されたこともあったし、親切な人が見かねて家に泊めてくれたりもした。ホームで寝るなと怒った駅員が「しょうがないからここで寝なさい」とこっそり駅員室のソファを使わせてくれたこともあった。
 そして時には、柳田国男的な気分を味わうこともできた。民宿のおばちゃんに「この辺りの昔の話を聞きたい」と言ったら、近所の年寄りを何人も呼んでくれて、地元に伝わる昔話を聞かせてくれたことがあった。年寄りたちは次第に脱線して、お茶を飲みながら、「戦争の頃は大変だった」という苦労話や「最近の嫁は何もできない」といった愚痴になって盛り上がっていたが、僕らにはそんな話でも面白かった。坂田はどこでも取り持ちがうまく、初対面のおばあちゃんたちに楽しくどんどん話をさせて、しまいには「うちの孫のムコにならんか」などと誘われる始末だった。僕一人ではそんな体験はとてもできなかったろう。
 そして、人魚の話だ。
 坂田は昨日、「生きている人魚を見つけた」と言った。あの時、なぜすぐに思い出さなかったのだろう? 
 僕たちは昔、「生きていない」人魚を見たことがある。そしていつか「生きている人魚」を見てみたいな、と笑い合った。坂田は、それを覚えていた。だからこそ僕に電話してきたのだ――……。

(③につづく)

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