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ムハンマド・アリーは意図して、私は意図せず

 ナポレオンによるエジプト遠征は、オスマン帝国軍の無名のアルバニア人傭兵隊長に過ぎなかったムハンマド・アリーをエジプト総督(ワーリー)として実質的な王朝を開かせしめた。
 自身が権力を掌握したエジプトを強国化して、オスマン帝国から完全自立するために始めた政治、軍事、経済の近代化において障害となっていたのは、土着のマムルークであった。
 マムルークとは、九世紀のアッバース朝から始まるトルコ系の奴隷兵士のことをいうが、十三世紀にマムルーク朝を建国するなど、エジプトにおいて政治的実権を握り続けていた。日本でいうところの鎌倉から江戸時代の武士階級である。
 ムハンマド・アリーは残忍であった。
 オスマン帝国に要請された第一次サウード王国(現サウジアラビアの母体)遠征に向かう前、後顧の憂いを断つことを決意した。
 次男のアラビア遠征司令官任命の式典に有力なマムルーク400人をカイロ城内に招き入れ、飲めや歌えの宴会の帰路、待ち伏せしたアルバニア人部隊によって皆殺しにされた。
 死屍累々のマムルークを見て、ムハンマド・アリーは何を思ったのか。

 私もムハンマド・アリーなのか。
 メダカの水槽の底土の上で、白化した死屍累々のヤマトヌマエビを眺め、私は愕然とした。その数にして、数えきれない。三匹くらいは身体を横たえ、辛うじて足が動いている瀕死の状態、元気なのは五匹ほどしかいない。
 五匹ほどのヤマトヌマエビを息子の友達の家から譲り受け、つがいのメダカと小さな水槽をホームセンターで購入し、我が家に初めてペットというシステム(勝手に住み着いている家グモやゴキブリなどを除く)が導入されたのは昨年末であった。
 生命を育み、身近に思うことによって息子への情操教育せんと欲した。
 メダカとヤマトヌマエビが快適に我が家で生き、次の生命につなげるために、私は愛を注いだ。
 水が汚くなると、すぐに水替えをした。
 コケが生えないように、薬を水槽に投入した。
 水質の変化に敏感なヤマトヌマエビが三匹ほど、すぐに亡くなった。
 補うべく、ホームセンターでヤマトヌマエビを五匹購入し、さらに息子の別の友達の家からもう五匹譲り受けた。
 環境変化で五匹ほどすぐ亡くなってしまったが、七匹はそのまま安定して、我が水槽を元気に泳ぎ回り、みるみるうちに身体を大きくしていった。
 つがいのメダカから生まれた長子と次子の針子は、風と太陽を浴びせようと小さな容器に移し替えて外に出し、数時間後に見ると、シラスと化していた。この日の気温は季節外れの二十七度であり、茹ってしまった。
 次男から「パパが殺した!なんてことをしたの!」と非難された。
 卵を産みやすい環境をつくると、つがいのメダカは卵を産み続け、十数匹の針子となった。残念ながら、母メダカは亡くなってしまったものの、うち五匹ほどが今も生き残っている。
 亡くなった母メダカと針子、ヤマトヌマエビはその都度庭の土に埋め、手を合わせた。南無……。

 ヤマトヌマエビの繁殖力に恐れ慄いた。
 水槽の中にいるエビの数匹がお腹の中に卵を抱えていると思っていたら、いつのまにやら数えきれないほど、底土の上を蠢いているようになった。四センチほどの大きな大人のヤマトのヌマエビ七匹のほか、二センチから一ミリにも満たないほどの今生まれたばかりのエビまで。
 水槽に発生したカワコザラガイを駆除すべく、水槽の水を総入れ替えして、底土を洗わんとした時に、数えたら五十匹以上になっていた。
 そのヤマトヌマエビたちが……。

 夏場。水槽の水は澱み、数週間以上変えていない水は、メダカの分や餌の残骸で水質悪化しているに違いない。
 きれいな水で喜び、泳ぎ回るメダカやヤマトヌマエビの命の跳躍を見たい。
 リフレッシュ休暇の今こそ、替え時だった。
 水を徐々に減らし、ポンプで底土のゴミを取り除いていく。水槽の内側を専用の掃除シートで拭き、コケを除去していく。エアレーションのフィルダーを新しくすると、エアレーション自体の汚れが気になる。透明なプラスチックが黄ばんでいる。黄ばみがどうしても気になり、クレンザーでゴシゴシと掃除する。
 完全に水を入れ替えると、水質変化によってメダカとヤマトヌマエビにダメージを与えるため、五分の一程度水を残した上で、新しい水を入れていく。掃除したエアレーションをセットする。
 掃除は気持ちいい。
 透明さを取り戻した水槽の中を、メダカやヤマトヌマエビが元気にお呼びまわる……、はずだった。

 二時間ほど出かけていて、家に帰って水槽を見ると、白化したヤマトヌマエビの死体で底土が覆われいた。
 呆然とした。
 そして、この惨劇の原因は、私の掃除であることに違いなかった。
 私は虐殺者に陥ってしまっていた。
 城壁に囲まれて逃げ場のないマムルークと同じように、閉じ込められた水槽の中で、逃げ場なく命を終えていくヤマトヌマエビたち。
 その心情を思うと、後悔がつきない。
 一匹一匹中華レンゲですくい上げる。庭の土に埋める。手を合わせる。南無……。
 ただ幸いなことに、六匹のメダカは無事であり、五匹のヤマトヌマエビも生き残っている。
 この十一匹は絶対に死なせない。
 そう、心に違うのであった。

 命の移ろいの姿を見せることは情操教育であろう。
 ただ、失敗によって、どんどん小さな命が失わせていく私の姿は、情操教育となりうるのだろうか。

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