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ジョニー

「ラストオーダー:21:30」
 息子の通う学習塾の一階に入っているサイゼリヤのドアを開こうとして愕然とする。サイゼリヤの白ワインの口に仕上がっていた。
 金曜日の夜。会社で残業して、最後まで残っていた才葉さんと石綿さんと駅へ向かう途中の町中華でたわいもない会話をしながら軽く一杯やり、餃子をつついた。
 四十分ほどで散会し、二人とは逆方面の地下鉄に乗り、私は妻に「これより帰るよ」と定型文のLINEを送った。妻からはすぐに「お疲れさま」という定型のスタンプが返ってきた。
 埼玉方面へ向かう電車に乗り換えてしばらくすると妻から再びLINEが来た。定型文ではない。
「勝手口の鍵ある?明日はみんな早起きで早く寝かしつけたいから玄関うるさいと困る。」
「それならば寝静まった後で帰る。サイゼリヤでワインを飲みながら時間を潰すよ。うん、絶対に断固としてそうする。」
 私は吊り革に揺られ、前に座るサラリーマンへの「早く降りろ。私に席を明け渡せ」という呪詛を忘れ、グラスに注がれたサイゼリヤの白ワインを想像した。グラス一杯では足りないから、デカンタで頼むのは当然として、それで満足できるか。いつの日かマグナム(1.5ℓ)を飲んでみたいものだなと、そんなことを思いながら、荒川を超えた。暗く沈んだ荒川の水嵩は私の口から滴る涎で幾分増したのかもしれない。

 中学受験に向けた授業から解放された息子と同い年の小学生たちが嬉々として階段を降りてきた。私は呆然としていた。
 私は飲みたいのだ。
 サイゼリヤのグラスワインの十倍以上の価格がするが、最近醸造を始めた地ビールのビアバーに向かう。すでにほろ酔いであり、洒落たビアバーへ一人で立ち入る勇気は今ならばある。
 八分ほど歩いた。
 ホテルの一階に入っているビアバー。ガラス越しに店内を見ると店員しかおらず、ドアの前に行くと「Closed」の看板が掲げられていた。
 なんたることか。
 とはいえ、泣いても喚いても、入れてくれるわけはない。
 小さな繁華街の方に向かい、小洒落た立ち飲み屋に向かう。〆の蕎麦が絶品というが、今日は手短にビールを飲めればよく、向かってみれば遠くからもわかる、歩行者天国の道へ溢れた客。ラッシュの電車もかくやというほど店内に人は密集していた。立錐の余地はない。
 仕方ない。
 地元で一番気に入っている大衆居酒屋で向かう。ここならばビールではなく、レッズサワーを注文し、口いっぱいにタコブツを詰め込み、磯の香りを楽しむのだ。
 五分ほど歩いて、店の中を覗くとカウンター席含めて、超満員だった。
 仕方ない。
 二分ほど歩いたところにある昔ながらのコロナ禍でもおじさんで賑わっていた立ち飲み屋へ向かう。
 紫煙が充満し、真っ赤な顔をしたおじさんとおばさんで溢れかえっていた。飛び込む勇気はない。
 LINEのメッセージが届いた。
 スマホを開く。妻から。
「寝た。」
 最低限でありながら、必要な情報の全てを満たす二文字であった。
 サイゼリヤの白ワイン。大ジョッキのビール。中ジョッキのレッズサワー。彼らに見捨てられた私の口を満たすもの。歩きながら飲めるもの。駅の高架下に入っている蔦屋書店に併設されたスタバにてメロンフラペチーノを買い求め、すすりながら帰るのだ。
 蔦屋書店に入り、駅から店の中を通り外に出ようとする人の流れに遡っていくと、スタバのいけすかない洒落た店員は店仕舞いをしていた。
 もういいや。

 デパート裏のスクランブル交差点をトボトボ渡り、小さな坂を上り、人通りの少ない暗く寂れた商店街を歩く。
 刹那、後ろからジョボジョボジョボと水の音がした。
 私は咄嗟に振り返る。
 三メートルほど後ろに五十過ぎのスーツを着た千鳥足のビジネスマンがいた。立ち小便か。いや、ふらつきながらも歩いている。
 目線を下ろすとジョニーがいた。本来なら慎ましく隠れていなければならないジョニー。鈍く黒く沈みながら、今確かにジョニーは私の三メートル後ろにいた。不安げに情けなく縮こまっているジョニー。しかしジョニーの口からは、波打つ龍の如き水流が湧き出て、ビジネスマンの歩調と合わせるように道路のアスファルトを黒い波型の軌跡を描いていた。
 もし私がうら若く純潔な女性であるならば、ジョニーに恐れをなし、悲鳴をあげて助けを求めるところ。だか、私は四十代のサラリーマンであり、ジョニーの主たるビジネスマンと同じ属性である。唖然としながらも、冷静沈着そのもの。されど、ジョニーの口から迸る水龍に巻き込まれるのはごめんだ。
 私はちょうどそこにあったセブンイレブンに駆け込んだ。ガラス戸の向こう側を千鳥足のビジネスマンがジョニーと水龍とともに、右によろけ、左によろけながら、通り過ぎていった。
 人の小便に要する時間はおよそ二十秒だという。とても二十秒にも満たない時間とは思えぬほど、時間は止まっていた。
 何が彼をして、ジョニーを商店街という公然にて曝け出し、歩きながら小便を撒き散らしたのか。見た目はきちんとしたスーツを着ており、立派に会社勤めをしていると思われる。酒か。ストレスか。それなりに出世争いを勝ち上がり、組織の上へ上へ階段を上がっていくものの、絶え間ない社内政治と社内抗争。己が上がるために他を蹴落とし続けた罪悪感と疲弊。対峙する派閥を蹴落とすために巡らす陰謀への嫌悪。足を引っ張る部下への絶望。組織で勝ち抜くためにこれまで見向きもしてこなかった家族から無視される孤独。

 コンビニには酒がたくさん売っている。しかし、もはや己が酒への欲は消え去った。店内をぐるりと一回りし、私は家路に急いだ。
 家に着くと、プシュッとノンアルコールレモンサワーを開けた。家で毎日晩酌するのを物理的に排除するために、冷蔵庫には一本もビールは冷えてなかった。されど、酒はもういい。
 そして嬉々とした妻に話す。
「八百屋の前でさあ、変態現る!我が街に変態がいた!」

 何が彼をして、ジョニーを公衆に曝け出し、歩きながら小便を撒き散らしたのか。とりあえず、私は彼の心情には寄り添わない。

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