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福田翁随想録(9)

 西郷南洲の死生観

 私は当時勤めていた東亜新報社天津支社の編集局長には無断で、北京兵站部(へいたんぶ・軍需補給、輸送機関)に出向き、特別操縦見習士官募集に応募した。いわゆる敵に体当たりする特攻隊で、ひとたび基地を飛び立ったら帰還することができない飛行操縦士に志願した。 
 虚弱体質もこの頃は健康体になっていたので体格検査は難なく通過したものの、高等数学の難題に全く手がつけられず失格してしまった。
 当時戦局は敗色が濃く、同期の知人友人の戦死の報を聞くたびに新聞社勤めに恋々としておれず、悶々としていた。私は再び挑戦した。しかし、果たせなかった。
 一度死を決めたらそれに拘るもので、死に急ぎたくなる心の動きをどうすることもできなかった。そうこうしているうちに終戦となり、勤務地・天津は暴動の巷と化するなかで、接収された新聞社の翻訳記事を載せる仕事に就いた。
 ただひとたび死ぬことを決めるということは、通常では理解できない心理の昂(たか)まりであったことに間違いない。なればこそその死の魅力に憑りつかれて引きずられることになるのではないだろうか。
 尊皇攘夷派の僧・月照と錦江湾(鹿児島)で一緒に入水自殺を図った西郷南洲だが、月照だけが亡くなり、西郷は助けられ一命を取り留める。その後の南洲は「死の願望」に憑りつかれていたという。
 海音寺潮五郎氏は史伝『西郷隆盛』で、この辺の心境を推測して
「身体がきくようになったら今度こそ間違いなく死のうと思ったであろうし、ある時は生かされたのは天意が働いたからであろうから天の命ずる仕事に命を捧げるべきではないか、と思い直したかもしれない」
 と、書いている。
 南洲といえば「敬天愛人(天を敬い人を愛する)」の座右銘を思い浮かべるが、この心構えはこの時に彼の心に根を下ろしたと思われるし、自分を「土中の死骨」に等しいと悟って、これからの命は自分のものではない、と思い定めたのに違いないと私も見ている。
 犬養木堂(毅)はこの入水事件を機に南洲は人格の一大飛躍を遂げたと書いている。
 私は南洲との人格上の恥ずかしいまでの格差を覚える。しかし貧弱な体験とはいえ、彼と近い経験を持ったという立場から強く人間的な親しみを抱いている。
 
 私は岩手放送を退職後、すぐに老後をいかに生きるべきか、暮らしていくべきかを探るためにカナダ・バンクーバーへ一人で旅立った。
 異国に独り身を置き、その場に臨んでみて、孤独との戦いに骨身を削る辛さを心底味わわなくてはならなかった。 
 旅立つ前に、日本愛唱歌集や古典、仏教書などはもちろん荷の中に入れたし、手回し轆轤 (ろくろ)も忘れずに入れた。また空港の売店を覗いて見つけた、今までやったこともない携帯用の将棋と囲碁も追加した。スケッチブックはもちろん肌身から離していなかった。
 北極圏が近い地の冬の暗さと耳が痛くなるほどの静寂は心底恐ろしかった。話す相手がいない。遠くの郵便受けからコトリと音がすると飛んでいき、デパートのチラシだと知ると三半規管がおかしくなって坐り込む時もあった。
 有り余る時間に圧倒されると、読書に身を入れることなどできるものではない。こんな時に外の草花や屋並みを描くことがどんなに慰めになるかを思い知った。
 西郷南洲は悠然と読書に専念し明け暮れていた。
 南洲が四番目に流された沖永良部島は死刑に次ぐ重刑の地で、いつ帰れるかの目度もたたない。牢舎はわずか二坪。「東西に戸なく南北に壁なく、粗大の格子だけ、片隅に厠あり風雨は吹通し、人の住む処に非ず」という大きな鳥小屋のようであった。
 南洲はこの境遇にあっても佐藤一斎の『言志四録』を暗唱せんばかりに読み、響く言葉や条項に印をつけた。これが有名な『南洲手抄言志録一〇一ヶ条』である。
 南洲を「慶応の功臣、明治の賊臣」と評し、「維新で最高殊勲者と評価され有頂天になり視野の狭い反動」(『西郷隆盛』圭室諦成・たまむろたいじょう)とは考えたくない。「西南戦争を調べると感じのいいもぎたての果物のように新鮮な人間たち」「今はあまり見当たらない日本人たち」 (『「明治」という国家』司馬遼太郎) と見る方に加担したくなる。 

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