学校における指導主義の暴力。

この記事は、昔、小学校2年生の担任をしていたときに書いた葛藤の記録です。
よかったら、読んでみてください。
学校教育の目的って、何であるべきなんだろうか。
そんなことを考えさせられます。

運動会のダンス指導が本当に嫌だ。それがこの記事を書こうと思ったきっかけだ。
タイトルにあげた指導主義とは、指導によって子どもに力をつけるということを学校教育の至上命題に据えることによって、学校の教育活動すべてをその目的によって正当化するという考え方のことをさす。
結論から言えば、学校教育の中には、指導主義が蔓延している。結果、子どもの力を伸ばすことに失敗している。このように思う。
来週、運動会がある。1・2・3年生でダンスをするのだが、3年生の担任の先生が指揮をとっている。3年生の担任の先生は、ダンスには力を入れている先生だ。けれども、ダンスが嫌いな私にとっては、彼女が子どもたちにやらせている動きは難し過ぎる。だから、教えられない。というより、意欲が全然湧かない。ただただ難しくて、ちっとも面白くないからだ。
きっと、私がそう感じているということは、クラスのダンスが苦手な子どもたちだってそう感じているに違いない。そういった子たちには、かなり負荷がかかっているように思う。
けれども、そこまでなら別にいい。仕方のないことだと思う。ある程度は、負荷がかかることに努力することも、教育活動を行う上では必要だ。
自分を振り返ってみても、音楽会の前は、だいぶ厳しい指導をしたような気がする。でも、形になるまでが複雑なことは避けたつもりだ。苦手な子も、授業の中で取り組めば形になるようなことをした。そして、苦手な子に対して、休み時間に補習のようなことは一度たりともさせなかった。
だが、3年生の担任の先生の考え方は違う。一人一人の子の力をオーディション形式で測り、できない子には、休み時間に補習のように練習をさせる。そして、すべての子ができるようになるまでやらせる。そして、全員ができるようになったことをクラスの喜びとして還元する。そのようなやり方をとる。
たしかに、そうすれば、クラス全体の達成感のようなものは生まれるかもしれない。けれども、そのクラス全体の達成感という抽象的な喜びを味わうために、個人を犠牲にしてしまっていいのだろうか。ダンスが苦手な子たちは、きっと、そうやって自分の苦手を見える化され、改善を強いられ、好きでもないことに時間を使わされることで、心理的ダメージを受けている。それで、ダンスがもっと嫌いになってしまう子もいるだろう。それに、その指導でできるようになるかどうかだって分からない。嫌々やったって、大して変わりはしないようにも思う。それに、それだけの苦悩を味わって練習をしたところで、よくできると賞賛されるわけでもなく、まぁマシになったという評価を受けるだけなのだ。そんな理不尽なことがあるだろうか。だったら、いっそのこと、休み時間まで練習なんてせずに、休み時間は自由に過ごして、ダンスでは自分のできる範囲のことを一緒にやりたい。そう思うのが自然ではないだろうか。
つまり、私が言いたいのはこういうことなのだ。「ダンスが踊れることってそんなに大事なのでしょうか?」
ダンスが踊れなくたって、全体の見栄えが悪くなったって、別に人の人生を狂わすようなことはないではないか。一方で、苦手なことや嫌いなことを強いることは、その個人の人生の一部分を大いに狂わすことになる。私は、昔、自分のつくった作品をバカにされて、図工や、家庭科、技術、美術など、ものづくり全般の教科が嫌いになった。今でも大嫌いだ。二度とあんなことはやりたくない。ミシンなんて、触らずにいられるなら二度と触りたいと思わない。電ノコなんて、視界に入れるのも嫌だ。美術館に入ることができるようになったのは大人になってからだ。絵なんて、教員になって少し覚えるまでは、簡単なイラストすら描きたくないと思っていた。教員になって少し覚えるのにも、かなりの抵抗があった。たしか、ダンス嫌いも、昔、一生懸命踊っていたのをバカにされて嫌いになったのだったと記憶している。
けれども、指導主義は、「子どもに力をつける」という目的のもとに、こういった問題をすべて覆い隠して、できない子への指導を正当化してしまう。
たしかに、指導によって子どもに力をつけさせることへ力を注ぐことは、間違っていることだとは思わないけれど、それを至上命題に据えてしまうことによって、本当に大切なものを破壊してしまうこともあるのではないか。
本当に大切なこと。それは、私にとっては、子どもたちが、今もこの先も、人生を生き生きと過ごしていくことができることだ。それがかなわなくなってしまうような指導なら、そんな指導はない方がいい。私は、3年生の担任の先生の指導に、本当に大切なものを破壊してしまう可能性を見出してしまう。だから、どうしたらいいか困ってしまうのだ。
たしかに、学校という指導主義が蔓延する磁場においては、3年生の担任の先生の論理の方が圧倒的に正しい。けれども、本当に子どもたちの人生を大切にするつもりがあるのであれば、指導主義の呪縛から解放された地点から、子どもたちにとって必要なことは何かを考えた方が良いのではないかと思う。その上で、やはり指導によって力をつけ、それによってその子に自信をつけさせてあげることが必要だというのであれば指導をすればいいと思う。少なくとも、私には、今のうちのクラスの子たちにそれが必要だとは思えないのだ。
昨日、3年生の担任の先生が、休み時間に、私のクラスのダンスが踊れない子どもたちにダンスを教えに行こうかと声をかけてくださった。きっと、彼女にとっては、善意の声かけなのだと思う。けれども、指導主義による個人への心理的ダメージを懸念する私は、自分でうちのクラスの子に休み時間の指導をしたくもないし、その先生に休み時間にうちのクラスの子を指導してもらいたくもないのだ。昨日の放課後、3年生の担任の先生に、休み時間2年生にダンスを教えに行こうかと声をかけられたときに、職員室のコミュニケーション空間において、とっさのタイミングで、このことをうまく伝えることができなかった。それで、なんだかずっとモヤモヤしてしまっている。
指導主義の暴力と戦うことが私の学校で働く上での使命の一つであるのだとしたら、今回の件は、簡単に引き下がるわけにはいかない。けれども、うまい言い回しをしないと角が立つ。なんとか、この状況を切り抜ける方法はないか。正面から話をするのか、うまく誤魔化して進むのか、悩ましいところだ…。

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