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マイダイバーシティ

自分は一体どんな人間なのか。
どんな性格で、どんな振る舞いが一番自分らしいのかがわからないときがあった。

最近でいえば、かつて「コミュ力お化け」と呼ばれた私なのに、大人数が集まる場に行くと話したくなくなる。知り合い以外と仲良くなろうとは思わなくなってきた。

大学時代は自分のキャラがわからなくなった。本当はすごく気遣い屋でちょっとした言葉にも反応する繊細な性格なのに、お笑いキャラに徹して周りを盛り上げていた。でも、本当の私はお笑いキャラじゃなかったと思う。人を笑わすことは好きだけど、自虐する度に傷ついていた。

傷ついていたことを確信したのは、卒業してからしばらくして。

あのとき無理をしていたのに気づけなかったのは、場の空気を読みすぎていたから。

周りが求める私になろうとしていたのだろう。

仕事ではすごく細かいのに、プライベートは割と大雑把なところもある。引き出しは何が入っているのか把握しているけど、きれいに仕分けしたりするのは苦手。なのに、床に髪の毛や小さなゴミがあるのが気になってしょうがない。神経質になってすぐに拾う。

メンタルは強いほうだ。何かの本番で緊張したことはほとんどない。なのに、人が気にしないことは気にしてしまいがち。

根明な性格なのに、落ち込むとドツボにハマってウジウジずっと考える。昨年は自分の老化を実感すると妄想癖がいかんなく発揮され、老後や死について考えるようになってとても不安定になった。考えても先のことなんてわからないのにね。

人前に出ることが多い人生だ。代表として話したり、仕切り役になることが多いけど、「何か言われてるのでは? 反感持たれているのでは?」と気にしてしまうことも。

高級志向だけどプチプラや赤提灯の店も好き。キラキラした世界に憧れていたけど、いざそればかりになると疲れてしまうと気づいたのは最近。

マルチタスクはできるしリーダー役になることが多い。けど、一人で黙々と作業するほうが性に合う。

昔から常に二局の自分がいる。

どれが本当の自分なのかがわからなかった。

何が一番自分らしいのかわからなくなって、どの型にはめようか悩むときもあった。

でも、そんなことしなくていい。
全部全部自分なのだから!


こう気づけたのは「多様性」という言葉のおかげだ。

ここ数年で一気に広まり、社会において当たり前の価値観になった。いろいろな考え、属性、好み、セクシャリティを受け入れようというものだが、これは自分自身のこと、内面にも当てはまると思う。

どんな自分も自分。
まさに多様性ではないか。

キャラ設定とかしなくていい。
無理に型にはまる必要はない。
どれもみんな自分なんだ!

どの自分が正解なのかわからなかったけど、正解なんてない。

いろんな自分を受け入れるだけで良いのだ。

多様性を見せないと、周りからギャップと言われることがある。しかし、本来ギャップなんてないのでは。ギャップと思う自分も間違いなく自分。ただ、たまたま見せる機会がなかっただけ。

キャラ設定という言葉、あまり良くない気がする。どんなキャラの自分でも良いじゃん。一人ひとりみんないろんな顔があるのは当然のことでしょ?

もし今、自分が何者なのかわからない人、どんなふうに振る舞えば良いのかわからない人は、自分はこうだと決める必要はない。

その時々の気持ちや好み、考えに従って自由に生きればいいじゃないか。

人間は感情の生き物。いろんな経験をすればいろんな自分が現れるのは当たり前。

いろんな顔、いろんな気持ちの自分。
私はそれを「マイダイバーシティ」と名付けた。

そうしたら、すごく気が楽になった。
どんな自分でもありと思えたから。

みんなもっと、マイダイバーシティを大切にすればいい。心が軽くなるし、もっと生きやすくなるはず。

両極端の自分のどちらかを排除する必要はない。
その自分がいるから、もう一方の自分がいる。

もっともっと、いろんな自分を受け入れようよ。
そうすれば、他の人の多様性も、自分との違いもさらに受け入れられるはずだ。

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